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評者: | 下田幸一 | 『SENKI』918号 1997年9月25日 |
タイトル: | 「「本当のマルクス主義」などあるのか?」 |
■『転換』のなかで言われていること
ソ連・東欧「労働者国家」の消滅以降、様々な立場からマルクス主義の再考が試みられてきたと言える。われわれも 「マルクス・レーニン主義」の再検討と自己刷新を課題とし、左翼思想のパラダイム・チェンジを訴えてきた。 崩壊したソ連・東欧「労働者国家」が、生産手段の国有化とプロレタリアート独裁をメルクマールとする「共産主義」 であったことは言うまでもない。それはマルクス主義のスタンダードとして流布されていたことでもある。そして、 われわれ新左翼を含めた反体制派もまたこうしたドグマに縛られてきたのではないだろうか? ここで取り上げる『マルクス社会主義像の転換』(御茶の水書房)のなかで、著者である大藪龍介は、「生産手段の国有化」 や「プロレタリアート独裁」といったマルクスの考え方は他ならぬマルクス自身によって修正されていったと主張する。 こうした著者の主張は旧来の通説を覆し、新しいマルクス像を形成する上できわめて示唆的である。 本稿では大藪の主張と対質しながら、一党独裁政治と生産力主義に収斂される「共産主義」の抜本的な止揚のために、 今こそわれわれはマルクスに学びながら、なおかつマルクスを内在的に越える必要があることを明らかにしていきたい (以下、引用は断りのない場合は全て本書より)。 ここで大藪は、「マルクスの過渡期社会像」と「マルクス、エンゲルスの民主主義論」の二つのテーマについて考察しているが、 その主張をまとめるならば次のようになる。 「二〇世紀マルクス主義においては、ソヴェト・マルクス主義の支配的影響下で、生産手段の国家所有化、国家計画や いわゆる一社会一工場編成を基柱とした国家集権主義的社会が、ソ連『社会主義』と重ねあわせにされ、社会主義社会 との混同をまじえて、過渡期社会についての定説の位置を占めてきた。」(P五)。「衝撃的であったソ連の崩壊の 極めて重要な原因に、公式の宣伝文句とはまったく裏腹な、この国における政治的な自由、民主主義の欠如があったことは、 今日では誰の眼にも歴然としている。ソ連の成立を嚮導したレーニンの民主主義論自体が、すでに根本的な歪みをもっていた。 そのレーニンの民主主義論が、スターリン主義的解釈を施されつつ、この四分の三世紀のあいだ、マルクス主義民主主義論の 通説とされてきた」(P一八四)と指摘する。では、マルクスはどのように考えていたのだろうか? 大藪は「マルクスの過渡期社会に関する論考は、一八四八年の諸革命の前後におけるいっさいの生産手段の国家への集中や 産業軍の設置などの国家集権的に偏倚した構想から、その後における労働者生産協同組合についての評価の一八〇度の転換を 跳躍台として、一八六〇年代以後には、協同組合的生産、協同組合的所有を軸とする協同組合型志向社会の追求へと大きく転換した。」 (P五)と述べている。 ここでの主張の論拠として『共産主義者宣言』と『フランスにおける内乱』があげられているが、大藪は『宣言』段階における マルクスは「あらゆる生産手段を国家所有化し、国家的手段を積極的に活用して社会革命を切り拓こうとする、革命的国家主義の 要素を保持していた。」(P七)とする。 具体的に言えば、『宣言』のなかでマルクスは「プロレタリアートは、ブルジョアジーからしだいにいっさいの資本をうばいとり、 いっさいの生産用具を、国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中し、生産量をできるかぎり急速に 増大させるために、その政治的支配を利用するであろう」(国民文庫版『共産党宣言』P五四)と言う。また「共産主義者同盟 への中央委員会の呼びかけ」では「労働者は……単一不可分のドイツ共和国の実現につとめるばかりでなく、この共和国において 権力を国家権力の手中に徹底的に集中するように努力しなければならない」(『同』P一一五)として、ブルジョア国家の中央集権化を 要求してさえいる。 つまり、大藪の言うようにマルクスはそのブルジョア国家の中央集権制を引き継ぎながら、プロレタリアートの独裁のもとで、 いっさいの生産手段の国家所有化、国家権力の全面的な活用による経済的改造の推進、過渡期社会の建設を考えていたということだろう。 しかし、この「革命的国家主義」は『宣言』での「民主主義をたたかいとること」(『同』P五四)や、「すべての生産が協同した 諸個人の手に集中され」「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会」(『同』P五六)といった 民主主義的諸権利の拡大と国家の消滅という、もう一方における発想と明らかに矛盾している。 そうした矛盾を、後者の発想を深化させることによって解決しようとしたとされる証左として『フランスにおける内乱』はある、 と大藪は指摘するのである。では、そこでマルクスはいかなる理論的な転換を遂げたのだろうか? 大藪の主張を見ていこう。 一八四八年の諸革命後、西ヨーロッパ諸国は産業資本主義の確立を遂げ、政治的には自由民主主義へと漸進しつつ、新たな 発展段階を迎える。そうしたなか、プロ独権力による一挙的な私的所有の廃止ではなく「マルクスには、次第に 、私的所有の廃止にもまして、資本・賃労働関係の軛からの解放、あるいは労働の解放が主題となり、その解放の形態の発見が 第一義的問題関心になっていく」(P一四)。 そして『フランスにおける内乱』で、マルクスの過渡期社会論考は一八七一年のパリ・コミューンの実践的経験をふまえ、協同組合型志向社会とコミューン型国家を接合した構想へと至っていく、と大藪は結語的にまとめるのである。 そこでは、コミューンは「労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態」(国民文庫版『フランスにおける内乱』P八五)であり、「労働の解放――コミューンの偉大な目標」(『同』P一四九)をめざすものとされている。そしてそうした「労働の解放」の梃子となるものが「協同組合」なのだとされる。また、コミューン型国家として「マルクスが描いたのは、コミューンを基体にして最小限度の中央政府が存立する連邦制の国家であった」(P四五)とも、大藪はいう。 このようにしてマルクスは、『宣言』での国家集権的偏倚を払拭し国家権力の社会による再吸収と、政治的・経済的な民主主義の拡大を推進するものとして「協同組合」「コミューン」を位置付け、過渡期社会像を転換させていったというのが大藪の主張である。ただその一方で「プロレタリアート独裁」という考え方は、徹底して民主主義的であるべきコミューン型国家とは相いれないのではないか、という疑問は未解決のまま残されていると大藪は記してもいる。 ■マルクス再構成の視座われわれは、こうした主張が「正統派」的なマルクス主義理解を覆すものであり、検討に値すべき重大な論点を 提起するものであることを認めなければならないだろう。しかしそれは、従来とは異なるマルクス主義の「読み替え」 がここでなされているということ以外ではなく、マルクスを絶対とする大藪のパラダイムはいわば不変である。 そして問われているのは、もはや「マルクスの言いたかったことは実はこうだった」式の理屈は、いまや通用しないのだ ということではないか。 歴史の現実は、マルクスが『宣言』で唱えた「プロレタリアート独裁」下での「生産手段の国有化」に基づく国家建設を 推し進めたソ連・東欧「労働者国家」の破産を通して、その発想の限界性をわれわれに教えた。マルクスの考え方が 及ばなかった問題点として、そのような生産力主義こそがはっきりと突き出されるべきではないのか? 明らかにされるべきは、 マルクスの構想において孕まれていた当初の国家集権主義的偏倚は、歴史的な制約だったとかいうことを越えた現実として 今やあるということである。 つまり、マルクスの生きた一九世紀は国民国家の生成期であり、国家の中央集権化は近代の歴史的課題だった。 その歴史的課題にプロイセン・ドイツでのプロレタリア革命によって応え、後進国ドイツの近代化、民主化を実現しよう としたのが当時の知識人や若者の問題意識だったのである。そしてマルクスもその一人の若者だったということである。 後のレーニンにしても、「ナショナリズムの時代」ともいうべき二〇世紀初頭の帝政ロシアにおいて、こうしたマルクスの 構想を歴史的文脈に沿って理解するには、あまりにも客観的諸条件が欠けていた。そしてそれらを全部置いても、 しかし大藪のいうように、では初期のマルクスから後期のマルクスへの転換は、いかなる論理的必然性において もたらされたというのか。そこでの論拠の現実との接点が大藪の言説からはうかがえないのである。パリ・コミューンの敗北は、 むしろ中央集権制の欠落にこそ基因することは余りにも明らかなことなのだから、それを契機にとも言えない筈である。 大藪の言うように、『内乱』以降のマルクスの理論的変化を後世の実践家らが見逃したということがそこにあることなのか。 そこで問題にされるべきなのは、マルクス自身の理論的不整合といえるコミューン型国家論と、プロレタリアート独裁概念の 並立なのである。後のエンゲルスなりレーニンが、そのうちのプロ独概念のほうに重点を置いて強調していたという事実が、 そこであったことなのである。いくつもの読み込みができるマルクスのうちの、「独裁」を強調した論者としてレーニン なりが出現したということが後の歴史を規定したのだ。それは、つまり帝国主義との攻防のなかで、ロシアなどでの 民主主義的諸権利の剥奪が常態化していることの理論的な根拠として、それへのアンチとしてのプロ独論として読み込まれて いったということである。 そもそも、マルクスの生きたプロイセン・ドイツにあっては民主主義などといった考え方は普及しておらず、資本家階級が対立する 労働者階級にも民主主義的諸権利を承認し保証する「階級間民主主義」としての自由民主主義など考察の埒外であったようだ。 レーニンの生きた帝政ロシアにあっても同様である。民主主義を掲げる側の論理が、その後進性に災いされて、対立する階級を すべて排除する階級内民主主義といった思考方法にとどまっていたのだということが、そこではいえることだ。だからそこから いえることは、マルクスの言いたかったことの本当は何かということではなく、マルクスがいろいろいったうちの何を 誰が歴史の現実に適用しようとしているのかということである。 それを「生産手段の国有化」「プロレタリアート独裁」といった概念にまとめあげた結果、生起したのがソ連邦の崩壊に連なる話だ。 そこでは生産手段の国家所有化による国家権力の巨大化、集権化が引き起こされ、そこに巣くう膨大な官僚層が生みだされた。 又その結果、官僚支配による民主主義の形骸化を招き、しかもそれはブルジョア独裁の概念と結び付くことで、強大な 「国家権力を握る共産党の一党独裁」といった、前近代的な国家体制の成立をも必然化させるに至っていったのである。 ということは国有化論やプロ独論に代わる何かとして、「本当のマルクスの協同組合論」が在るのでは全くないという命題と結びつく。 大藪の主張するような、「協同組合」による生産と所有といったことも、確かに資本の軛から労働を解放する方策のひとつかもしれない。 しかしそれでさえマルクスが一九世紀のイギリス労働運動の高揚を背景にあるとき構想したものであって、教条化することはできない という答えだけがそこにあるのである。実際、こうした協同組合運動は短期間で失敗に終わってしまったのだから。大藪は、 コミューン型国家論、コミューン四原則に基づく国家改編の考え方も、ソビエト・ロシアがそれを実現するはずのものだったわけだが レーニンなどが『国家と革命』をはじめとする著作のなかで「コミューンはプロレタリアートの独裁であった」と定式化してしまうこと によって、民主主義の形骸化を招きかつてのジャコバン主義的な公安委員会型国家へと変質していってしまったなどという。 しかしそのような事実は、実際は大藪のいうところの転換以降、『内乱』以降のマルクス理論は、その理論的陥穽また現実的諸条件と 相まって、ことごとく歴史の検証に耐え得なかったということのみが言えることになるのである。大藪の主張も、未だ護教論的立場、 もしくはゾレン主義にとどまっているだけだということだ。「労働者の解放」や「民主主義をかちとること」といったマルクスの プロブレマティークは、いかにして空論ではないリアリティーをもった社会変革の必然性として示すことができるのかにおいて意味をもつ。 そしてそこには、始めから決められた「答え」などないのが当然であって、「可能なもののなかの最善の選択」といったことがあるだけだ。 まさにそうしたエシックスを実現することなくして、反体制運動の再生は望めないだろう。今や、新しい倫理の確立にむけた民衆の側から の行動は開始されているのである。例えば米軍基地の是非を問うた沖縄での県民投票、あるいは産廃処分場建設に「NO!」の声を 突きつけた御岳町の住民投票などは、二一世紀にむけて解決すべき課題を鮮明にしたし、なによりも民衆自身が民主的法治国家の実現を めざして行動することの大切さを多くの人々に教えたと思う。ゆえにわたしは、このような民衆のたたかいの積み重ねの上にこそ エシックスなき日本を変革する可能性を見るのである。たたかう民衆同士のコミュニケーションが最も問われている現在において、 「マルクス・レーニン主義」を掲げて「内ゲバ」を繰り広げる在り方を含めた新左翼運動のパラダイム・チェンジを、多くの人々 との共同の討議実現していくことが、そこでのとりあえずの「答え」であるといえるのではないか。 |