『マルクス社会主義像の転換』について
評者:阿部治正『ワーカーズ』bP24 1998年2月15日
タイトル:「『マルクス社会主義像の転換』」


 本書は、「マルクス社会主義像の転換」と題されていますが、実際には「社会主義像」というよりも「過渡期社会像」に焦点が当てられ、マルクス自身の理論の変遷と発展の過程が考察されています。「社会主義像」よりも「過渡期社会像」に当面のスポットを当てているのは、目の前にある現実の社会の中に新社会形成の要素や萌芽を明らかにしようとしたマルクスの方法をふまえたものだと説明されています。

 本書強調するのは、今日までのスターリン主義的なマルクス理解では社会主義への過渡期の社会の像が国家主義的に歪められてきたという点です。過渡期社会の国家主義的理解はスターリン主義において最悪の姿を現しますが、しかし本書はレーニンにもそしてエンゲルスにもそうした傾きがあったと指摘します。著者に言わせると、こうした誤りが蔓延してきた理由の一つは、マルクス自身の過渡期社会論の変遷や転換の過程が理解されていないから、つまり『共産党宣言』時代のマルクスとそれ以降の経済学研究に打ち込んだ時代やパリコンミューンを経験して後の時代のマルクス過渡期社会論や社会主義論の違い、前者から後者への大きな変化や発展を見失っていることにあります。

 では、著者のマルクス理解はどういうものでしょうか。

過渡期は「協同組合型志向」の社会

 著者は、『共産党宣言』における、「国家資本による単一の国民銀行」や「全運輸機関の国家の手への集中」や「産業軍、特に農耕産業軍の設置」等々の主張をとりあげて、この時代のマルクスは「あらゆる生産手段を国家所有化し、国家手段を積極的に活用して社会改革を切り拓こうとする、革命的国家主義の要素を保持していた」と見なします。この時代にももちろん「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような協同社会」、つまり後に一層豊かな内容を与えられていく「アソシアシオン」についての議論も見られますが、しかし現実の生産協同組合などの協同組織をマルクスは否定的に評価していたというのです。

 またプロレタリア革命によって樹立されるべき国家についてのマルクスの見解は、この時代には極めて中央集権的なものであったとされ、「独裁そのものは・・・階級のない社会への過渡期をなすにすぎない」とマルクス自身説きつつも、ではいかにして、どのような過程を経て国家の消滅にいたるのかについては、必ずしも説得的に展開されていないとされているのです。

 しかしマルクスの見解は1850年代から60年代にかけての経済学研究の深化を通して大きく発展します。著者はこの発展がよく表されている文書として第1インターナショナルの「創立宣言」や「暫定規約」をあげ、かつては否定的であった協同組合運動とりわけ生産協同組合運動をマルクスは高く評価するにいたり、またかつては革命の根本問題が「私的所有の廃止」と考えられていたが今では「労働の経済的開放」へと深められていると言います。

 さらに『資本論』第1巻の刊行にこぎつけた60年代に入ると、マルクスの未来社会像はより明確に「協同組合型」となり、過渡期社会像も同時に「協同組合志向型」となったとされます。『資本論』の前年の第1インターの暫定中央評議会派遣委員に当てた指示文書では、協同組合運動の功績が「資本に対する労働の隷属に基づく、窮乏を生み出す現在の専制的制度を、自由で平等な生産者の協同社会という、福祉をもたらす共和制的制度とおきかえることが可能だということを、実地に証明する点にある」と評価されています。

 もちろんマルクスは、個々的な協同組合運動の限界を指摘しており、国家権力を資本家や地主の手から生産者自身の手に移すこと、それをテコにした社会、経済の全般的変革と結びついてのみ協同組合は全国的な組織なり制度なりとして発展していけるのだとしています。協同組合運動の、労働組合運動や政治運動との結びつきの必要も強調されています。

 マルクスの過渡期社会論のより成熟した内容は、パリコンミューンに対する第1インターの宣言としてまとめられた『フランスの内乱』で展開されていると言われます。「労働の経済的開放を成し遂げるための、ついに発見された形態」、「もし協同組合の連合体が一つの共同計画にもとづいて全国の生産を調整し、こうしてそれを自分に統制のもとにおき、資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的痙攣とを終わらせるべきものとすれば──諸君、それこそは共産主義『可能な』共産主義でなくてなんであろうか!」等などの主張。ここでは経済・社会面での協同組合型指向社会と政治面でのコンミューン型国家とが接合され、「マルクスの過渡期社会論考の到達点」が示されていると言われるのです。

 著者はここで、マルクスのコンミューン論についても、興味深い見解を述べています。マルクスのコンミューン論は「地方自治体の自由」や「連邦した諸コンミューン」を掲げており、中央政府には「少数の、ただ重要な機能」(外交、軍事、司法、大規模公共事業、全国的な行政の調整など)が残るとしている、これは中央集権国家が生まれる以前の「田舎地主たちの地方分権主義」への逆戻りではなく、むしろ社会の上に立つ国家の側からの中央集権的統一に置き換える事なのだというのです。

興味深い諸論点

 以上、マルクスの過渡期社会像の転換についての著者の理解を極めて簡略化して紹介しました。

 本書全体を通して、興味深くもありまた意義深く思える議論を紹介すれば、以下のような論点が挙げられます。

 従来の左翼運動(スターリン主義陣営ばかりではなく新左翼も含め)におけるマルクス理解の国家主義的な歪みへの批判。マルクスの未来社会像は「共同体」イメージでも「市民社会」イメージでもなく「協同社会」イメージであるとの主張。マルクスの社会主義像に関連して論じられている「個人的所有の再建」をめぐる議論。「個人的所有」にその疎外態としての「私的所有」や「個人的私的所有」という概念があるように「集団的所有」や「社会的所有」にも疎外態概念がなければならないとする意見。コンミューン型国家は「代表制」(代議員は選挙民に代わってその意志を代意しそれを代行する)ではなく「派遣制」(代議員は選挙民の意志に拘束され、随時リコールもされる)であり、代表制は上からの統合によって人民大衆から疎外された権力を国家へと剥奪していくのに対して派遣制は下からの吸収によって人民大衆が国家権力を奪還していくのにふさわしい制度だとの議論・・・等々。

今日的課題への回答としては疑問も

しかしそのまま素直には受け入れられない主張や疑問に思われる議論も少なくありません。そのひとつが、将来の社会を協同組合型とみなす主張、つまり社会主義社会とは自立した様々な協同組合が相互に協同しつつより大きな協同社会を形成する社会だとの議論です。

 確かにそれは19世紀後半の資本主義の現実を材料にマルクス自身が描いた社会主義像ではあるのでしょうが、しかしマルクスの時代とは比べものにならないほどに生産の社会化、各経済主体の有機的結びつきが世界規模の広がりで進展した今日、協同組合運動なり協同組合企業がどこまで「旧社会の中にはらまれている新社会の諸要素」「未来社会の萌芽」といえるのかは疑問です。今日の社会主義像は、むしろいまをときめく無国籍企業群に体現されているような生産、多国籍企業によって編成されている膨大な数の種々様々な工場やオフィス群、国境の内外にわたってそれらの間に張りめぐらされた結びつきや諸連関、これを踏まえて構想されなければまったく現実的ではないと思われます。

 もっとも、「協同組合型」というのはそれが含んでいる論理、全ての当事者の参加と民主的な協議による計画の決定、平等で自立した諸個人による労働交換原理などに基づく協同関係等々を意味しているのだと言うのなら、また見方は違ってくるでしょう。しかしそれが19世紀後半の頃の、あるいは今日現在の諸協同組合の具体的なあり方と結びついた議論だとするならいささか古典的と言わざるを得ません。残念ながら本書では、今日における社会主義像や過渡期社会像と「協同組合」との関係は必ずしも明らかではありません。

 しかしながら本書は、マルクスの過渡期像の復権の試みという点では意義を持っており、今日私たちが具体的な社会主義像や過渡期社会像を構想していく上でも貴重な示唆を与えてくれてはいます。ご一読下さい。