『マルクス主義理論のパラダイム転換へ』について
評者:田畑稔(『季報唯物論研究』編集長)『コモンズ』第147号
2021年1月
タイトル:よむ 大藪龍介『マルクス主義理論のパラダイム転換へ
 ―マルクス・エンゲルス・レーニン国家論の超克』


(1)現在のマルクス思想やマルクス研究は、19世紀問題、20世紀問題、21世紀問題という不可分の三つの課題に向かい合っている。20世紀問題とは1917年2月と10月の革命から1991年ソ連邦崩壊にいたるいわゆる「ソ連型社会主義」の根本的総括であり、19世紀問題とは「ML主義」の縛りを解いて、マルクスの画期的意味と歴史的限界を、彼が生きた時代の現実に置きいれつつ再確認することであり、21世紀問題とは人類史的規模の課題山積の現状に対するオルタナティブの実践的構築においてマルクスから何を摂取するべきかという問題である。このことを頭に置いて本書を読むと、内在的理解が進むように思われる。

(2)本書は大藪が半世紀にわたり心血を注いだマルクス主義国家論研究の最新集成であり、そのもっとも成熟した表現だといえる。当初はマルクス、エンゲルス、レーニンの文献中心の議論であったが、近年、彼は英仏政治史やイギリス古典政治学の研究、ロシア革命史やソ連史の研究、そして日本近代国家の形成史や日本ファシズムの研究など主に歴史研究の裾野を充実させていて、大藪独特の鋭利な論点が現実味と説得力を増していることを強く印象付けられる。

(3)本書は1章と2章でマルクス、3章でエンゲルス、4章でレーニンとソヴェト国家体制創建問題、5章でグラムシ、6章で大藪の自分史的叙述、からなっている。4章は歴史叙述が豊富で、かつ多くの読者の関心とも近い。ここから読むのが入り口としては良いかもしれない。構造主義やポスト構造主義や柄谷行人に関心を持つ人は2章を読むとそれらに対する大藪の批判的スタンスがよくわかる。評者にとっては6章が魅力的だった。インディペンデントな左翼理論研究者としてピュアに生きる大藪の個性的姿がにじみ出ている。

(4)ソヴェト国家創建をあつかった4章は、評者の当たった限り、2017年のロシア革命百年記念関連では日本で最も注目されるべき仕事であった。その核心は「コミューン型国家」を掲げるレーニンの指導下で事実上「コミューン型国家が公安委員会型国家に変造」されたと見る点にある。10月の武装蜂起の直後に開催された全ロ労兵ソビエト大会でレーニンたちは多くの反対を押し切って全ロソヴェト中央執行委員会とは別に臨時政府として人民委員会議創設を強行した。実は1871年のパリコミューンでもコミューン評議会多数派のジャコバン派やブランキ派は危機的事態に対処するため公安委員会を創設したが、国際労働者協会派など少数派はこれに強く反対、評議会は分裂、少数派は締め出された。マルクスも「過去を繰り返すべきでない」と公安委員会の出現を批判していたのである。

(5)マルクスを扱った1章は主に三つの基本認識が柱となっている。第1は、1850年代前半までのマルクス革命論には48年革命敗北体験を引きずりながら、経済恐慌到来と直結して革命再到来を期待する深刻な主観主義が確認されること。第2は、60年代の国際労働者協会での改革プログラム、パリコミューンの敗北後に提示したコミューン型国家や協同組合型社会の構想の中に、21世紀の現在に繋がる価値あるものを確認すること。第3は、マルクスが英仏で国民国家と議会制民主主義化の形態をとった「近代ブルジョワ国家」の生成過程の曲折に立ち会っていたにもかかわらず、これを正面に据えて批判的研究対象にできずに終わったということである。資本主義認識をイギリス古典経済学批判と一体的に遂行したように、近代ブルジョワ国家とイギリス古典政治学(ロック、ベンサム、J.S.ミル)批判を一体的に遂行するという課題は立てられることなく終わった。「近代ブルジョワ国家」やイギリス古典政治学への内在的かつ本格批判の要請は、大藪国家論研究の重要な帰結である。

(6)3章では『ブリューメール18日』でのボナパルト体制への揶揄的批判がマルクスのこの欠陥の裏返しの表現であることが強調される。マルクス自身は第2版で多くの修正を加えているが、エンゲルスの影響で今日まで「傑作」扱いされているのはおかしいと、「傑作」論の総批判がなされている。

(7)評者は哲学畑の人間であり、大藪の仕事から学ぶことがほとんどであるが、幾つか留保もある。まず社会の総過程の中で政治過程がしめる位置の限定(端初規定)である。評者はマルクスが言う「社会の公的総括」がそれにあたると見ている。近代国家の形態論や組織論や生成過程に入る「前に」端初規定で総過程内の政治過程の位置を限定しておかないと、「国家の社会への再吸収」というマルクスの重要な展望と繋がらないのではなかろうか。78頁で引用されているようにプーランザスは国家を「一つの社会構成体の凝集性の要素」と捉えているが、「凝集」よりマルクスの「公的総括」のほうがヘゲモニー的意味が強く出てよいと評者は考える。もう一つ。政治的生活過程も行為、構造、過程の3層を持つと考えるが、大藪国家論では政治行為論がまだ主題化されていないように思える。大藪が正当に指摘するように、議会制民主主義やイギリス古典政治学の内在的超克を21世紀的課題とみなすのであれば、政治行為論の層の展開はますます不可欠ではなかろうか。