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評者: | 小西 豊 (関西大学大学院博士課程) | 『比較経済体制研究』創刊号 1994年5月 |
タイトル: | 「大藪・加藤・松富・村岡共編『社会主義像の展相』 レーニンの限界こえる試み」 |
本書は、1992年12月6日に東京大学で開催されたフォーラム90Sの研究集会(「社会主義像の再構想」分科会)での報告をもとに編まれた論文集である。 1989年の「東欧革命」、1992年のソ連邦崩壊という歴史の転換点を目の当たりにして、「社会主義」という手垢にまみれた概念は「世間」ではもはや死語になった感がする。大藪龍介氏が序章でいうように、確かにトレンドとしては「いかなる理念も輝きを失い、理想へのこだわりが冷笑される風潮」に「世間」が支配されている感もしないではない。だが、そのような時流に対して、大藪氏は本書の執筆目的を次のように表明している。 「流行としての社会主義でも流行としての反社会主義でもなく、21世紀以降につながる、もっと広く深い歴史的射程で、人間解放の道標たる社会主義について思索を重ねる必要がある。社会主義像の抜本的な反省、新構築によって未来を切り拓くために力を尽くすことは、至難な道であるが、今日の時代に生きてなんらかの形で社会主義にコミットしてきた者が、まずもって果たすべき歴史的な責務であろう」(序文、W頁)。 近年の欧米文献を見ていても、脱イデオロギー的な旧ソ連・東欧地域の実証研究は数多く見受けられるが、社会主義像にあくまでもこだわりをもった、「スターリン主義」という「原罪」(村岡到)を自ら背負ったスタイルの研究ははとんど見い出せない。わが国の多くの「社会主義経済」研究者(評者も含めて)も例外にもれず、旧ソ連・東欧の市場経済化のフォローに没頭しているのが実情である。「世間」の「風潮」に鑑みて、現在は社会主義理論や社会主義像の模索は極力禁欲して、実証研究に専念すべきだとする所見も確かに存在する。がしかし、嵐にむかって突進するドン・キホーテのごとく、これまでの理念像を反省し、これからの社会主義像を模索する本書が世に問われたことに、評者は大きな意義を見い出すものである。 以下、紙幅の制約や政治分野の問題は全くの素人という問題もあるので、各章ごとの内容紹介・コメントはせず、評者が感想・意見を持ちえた若干の論点についてアトランダムに論じていくことにしよう。 「社会主義への三段階論」 第一章(伊藤誠論文)「社会主義計画経済の可能性にむけて」では、まず旧ソ連東欧社会主義体制が達成した実績のプラス面(失業の脅威の除去、基本的生活条件の保障と平等化)とマイナス面(西側と比べて不十分な基本的人権や民主主義の問題、その結果としての党・国家官僚による抑圧的な体制の強化、定着)を正当に評価し、マルクス主義やマルクス理論が社会主義体制の失敗に一定の責任を負う必要性が表明されている。続いて、旧ソ連東欧における「体制転換」以降、ますます時流に乗り、新自由主義というイデオロギーをまとって復権してきたハイエクらの計画経済不可能論に対し、資本主義体制の現実(ME情報化を通じての資本の支配の強化、資産格差・所得格差の拡大、労働者の疲弊や過労死など)をみれば、資本主義の勝利とそう簡単にはいうことはできないことが主張されている。 では、資本主義を超える体制をどのように構想していくのか。この課題を解決するための方法論として、宇野経済学に基づく「社会主義の未来への三段階論」(第一章四節)が唱えられる。つまり、基本的な原理レベルの問題(最終理念、長期目標)と発展段階を考案するレベルの問題 (中期的にどういう社会システムを構築すべきかという問題)と個別的、具体的な実状分析のレベルの問題を分けて扱うことが有益な方法であると主張される。伊藤氏は、「中期的さらに短期的な問題」がいま「われわれに問われていることで最終的な社会主義の目標ないし理念を失う必要はないし、また失ってはならないのではないか」と述べ、最近の旧ソ連東欧の市場経済化が「全面的な資本主義市場経済化に進路をとっている」ことに批判的な態度をとっている。さらに、「全面的な資本主義市場経済化」や「包括的な計画経済」モデルの問題点ばかりではなく、その両者の各要素を組み合わせた中間的なモデル(市場経済と計画経済の結合)が首尾一貫しないところにも言及し、政治的な決定を国家、地域、企業レベルで積み重ねて補強していくことの重要性を指摘している。この国民の民主的参加に基づいて分権的に政治的、経済的、社会的な問題を調整し、地域、企業との関係性を見直して、経済システムを構想していくことの重要性はよくわかる。ただ、伊藤論文は全体として、問題提起的なものにとどまっており、ハイエクらの主張への反論となるべき経済計算の尺度単位問題やイノベーションをどうシステム内に組織していくのかという問題がイメージとしてしか描かれていない点に若干の不満感が残った。 マルクス再読による再構築 さて、本書の中心をなすテーマについて紹介・検討することにしよう。つまり、本書の主題は、マルクスの再読作業を通じて、エンゲルス、レーニン、スターリンによって歪められてきたマルクスの未来社会像を再構築することにある。とりわけ、第二章「社会主義的市場経済とマルクスの未来社会像」(山口勇論文)、第三章「協同社会主義の構想のために」(村岡到論文)、第四章「マルクス『アソシエーション』論の展開」(田畑稔論文)、第八章「過渡期国家像の再構想」(大藪龍介論文)で展開されている議論が興味深い論稿に仕上がっている。 山口論文では、マルクス未来社会像が民族主義的偏向と国家主義=権力主義の側面からスターリン主義的破壊を受けた結果、生産=消費協同組合を基礎単位としたアソシエーション社会(マルクス思想)ではなく、「国有化=指令的計画経済」モデルとして実現されたという点が指摘されている。さらに、レーニンによるマルクス未来社会像の3つの誤解について次のように言及されている。第一に、マルクスの社会主義構想を「一国一工場」構想であったかのように誤解している問題、第二に「労働に応じた分配」を等価交換の揚棄形態としての等量労働交換という社会主義的分配法則に即して経済学的に解明するのではなく、権利一般に還元し、国家の残存の根拠にしている問題、第三に過渡期における生産手段の国有化と社会主義における生産手段の社会化との区別の曖昧化の問題である。エンゲルスを通してしかマルクス思想(唯物史観や唯物弁証法)を学ぶことができなかったレーニンの制約面にも言及されている。 村岡論文でも、広西元信氏の所論に依拠しながら、マルクスは生涯一度も「一国一工場」論を説いていなかった点やレーニンによる『資本論』の誤読が指摘される。マルクスは「国有」論者ではなく、アソシエーション論を説いていたという問題がここでも確認される。ただし、村岡氏は第四節でレーニンが「価値法則」を無視していたという点を「発見」したと主張されているが、評者にはその「発見」が大きな意味をもつものとは思えない。「価値法則」 の重要性うんぬんをいう前に、レーニンは「経済学者」ではなく、したがってレーニンにはいわゆる「経済学」はないという点を確認して頂きたい。誤解を避けるために、一言だけ述べるならば、『帝国主義論』や『ロシアにおける資本主義の発展』などの書物は確かに「政治経済学」の範疇に入る作品であるが、純経済理論書ではないことを確認してもらいたいのである。レーニンが「価値法則」を無視していたことが国家主導的な考え方の基礎をなしていたと主張されているが、その相互関係もよく理解できない。「価値法則」の定義もなされないまま、レーニンには「価値法則」がないといわれても、そこから何の意義を見い出すことができるのか。評者にとっては疑問として残った論点である。 第八草では過渡期国家論について検討されている。まず、マルクスとレーニンの継承・断絶問題が検討される。レーニンのパリ・コミューン型国家論はマルクスの継承ではなく、そこにはマルクス理論の曲解による国家主義的再編成があることが指摘されている。大藪氏による対比を少し長くなるが、そのまま引用して紹介に代えることにしたい。 「マルクス ─中期・『共産党宣言』段階から発展的に展開した後期・『フランスにおける内乱』段階のそれ─とレーニンの重大な相違点を列挙しよう。(1)「協同組合的所有」を主軸にし、「個人的所有」にも位置を与える←→「国家的所有」への一辺倒化。(2)「協同組合的生産」、「協同組合の連合体」←→「一つの全人民的な『国家的』シンジケート」、いわゆる一国一工場の想定。(3)「地方自治体の自由」、「中央政府には、少数の、だが重要な機能が残る」←→「中央集権制」の強調。(4)労働者階級の政党の不可欠性←→一国一前衛党。(5)「派遣委員会議」←→「代表機関なしには、プロレタリア民主主義をも考えることはできない」。(6)コミューン型国家←→公安委員会型国家。(7)パリ・コミューンとプロレタリアート独裁の関係について明言なし←→「コミューンはプロレタリアートの独裁」。また、『国家と革命』第二版に追補した一節での有名な命題によって、独裁をあらゆる国家の「本質」として一般化し、あわせて、国家の「形態」とされる(プロレタリア)民主主義にたいする(プロレタリアート)独裁の優位を確定するとともに、そうしたプロレタリアート独裁を過渡期の全時期に恒久化したのも、レーニンによるマルクスの「修正」である。マルクスはコミューン型国家論とプロレタリアート独裁論の並列・未統一にとどまったが、レーニンは、ロシア革命が特異な経過を辿るなかで、次第に、プロレタリアート独裁論のもとに国家主義的に再構成されたコミューン型国家論も組みこむ方位で、過渡期国家論を全体的に築き上げることになった」(194貢)。 マルクスとレーニンの継承・断絶問題には、マルクスとエンゲルスの思想的、理論的継承・断絶問題が介在している。レーニンが依拠したのは、ほかならぬエンゲルス理論であったことが主張されている。晩年のレーニンの「プロレタリアート独裁の体系」を引き継いだスターリンが、コミューン型国家論を抹殺し、「社会主義国家」論を捏造し、官僚専制国家を虚飾した点も指摘されている。 大藪論文は、ソビエト民主主義を弁護するのでもなく、しかも議会制民主主義を取り入れることを主張するのでもない、過渡期国家論の再構築に真正面から取り組んだ好論文に仕上がっているように思える。 最後に、二点ばかり、本書全体にわたる内容、構成上の感想を述べることで結びとしたい。まず、第十章「社会主義と自由」(片桐薫論文)ではグラムシ、ポパー、ハイエクの三人が「自由」を追求した知識人として肯定的に取り上げられているが、これは明らかに、第一章の伊藤論文でのハイエク評価と対立しているのではないか。アソシエーション論と過渡期国家論をモチーフとした本書にとっては、瑣末な問題なのかもしれないが、内容構成上の整合問題として、いささか気にかかった点である。次に、本書の性格上、やむをえない問題なのかもしれないが、内容が極めて抽象的すぎないかという印象を受けた。社会主義理念や理論問題の探究の重要性を決して軽視するわけではないが、とりわけ、経済分野にかんする問題は、豊富な一次資料を駆使した現状分析を踏まえたものであってほしいという評者個人の研究志向性を最後に述べて、筆をおくことにしたい。 |