【岡照芳の文学大好きA】

             罪と罰   

 

 

ドストエフスキーの長編小説。一八六六年作。貧しい大学生ラスコーリニコフは自らを、法律をも超越する権利を持つ選ばれた非凡人と考え、自己の窮状と、商略的でしかない結婚から妹を救うため、質屋の老婆を殺害し貴金属類を奪う。だが、敢然と行なわれたはずのこの犯行は、その瞬間から彼の内部に予期せぬ良心の動揺を呼び起こす。彼は苦悩のあげく、ついに知り合った信仰あつい純真な娼婦ソーニャに犯行を告げ、彼女の勧めで自首し、八年のシベリア流刑を宣告される。ソーニャも彼の生涯の伴侶として流刑地に赴く。社会的秩序と個人の自由、罪と人間回復など、人類永遠のテーマに肉迫する傑作である。

『罪と罰』との出会い、それは、当時、大学生の私にとって、一つの事件であった。

ラスコーリニコフは、大学の学費も払えない貧しさの中で、金貸しの老婆殺しを企てる。
時折、自らの考えに身震いしながらも、無目的に貯えられた老婆の金を奪い、自己と社会の未来のために投じるのは、犯罪ではなく、一つの命の代償に多くの命を腐敗と堕落から救う英雄的行為であって、ナポレオンのように、法を踏み越える権利を持つ「選ばれた者」には許されるのだと、彼は敢然と老婆殺しを決意する。彼にとって彼女は汚らわしい虱
(シラミ)同然であった。
私は「なんという身勝手な論理だ」と腹立たしさを覚えつつ、名もなき大衆の一人ではなく、「選ばれた」少数者の一人でありたいという彼の気持ちも分かる気がした。
そして、彼のもとに母からの手紙が届く。息子にすべての期待と愛をそそぎ尽くす母、そして、学費を払えず大学を休学する兄のために身売り同然の形で裕福な弁護士のもとに嫁ごうとする妹。
「あの子を愛してやってください。あの子は自分よりおまえを思っているのです」という母親の言葉は胸に刺さる。
確かに極度の貧しさは罪であるのかもしれない。彼は貧しさを打ち破るべく英雄のように立ち上がる。そして、道で偶然聞いた立ち話から、翌日、老婆が家に一人でいる時間を知る。だが、極度の興奮による睡眠不足のため、彼は寝過ごし、計画は滑稽なまでに細々とした計算違いを生じてゆく。

私は「この間抜け野郎! 本当に手間のかかるやつだ」と思いながらも、いつのまにか自分のことのように、はらはらしながら見守っていた。

                        

老婆殺害後、外出先から戻って来た老婆の妹まで殺す、この計算外の殺人が彼の心を責め、斧を振り下ろした時の、おびえきった子供のような表情が脳裏から離れない。彼はナポレオンになりたかった。しかし、恐怖に捕われて老婆の家を飛び出す姿は、もはやナポレオンのそれではなかった。

 数後日、通りで、ある男が馬車に轢かれた。それは彼が以前に酒場で出会った男、マルメラードフであった。貧しさのあまり、娘ソーニャを娼婦とし、その金までも酒代にして飲みほしてしまう、どうしようもない父親。彼は語っていた。
「全てを知っておられる、ただ一人の方が、われら豚のような者たちにも、救いの手を差し伸べてくださる。人は問う、『なぜこんな奴らに』と。神は答えられる、『それは、彼らの誰一人として、自らそれに価すると思う者がないからだ』と」
その彼が馬車に轢かれたのだ。そして、家に運ばれて、息絶えた。まるで世界中の不幸を集めたようなその家庭で、ラスコーリニコフはソーニャと出会う。
 彼は、娼婦である彼女を見くだし、意地悪い言葉を浴びせかける。しかし、突然、ひざまずき、彼女の足に口づけして言う。
「ぼくはきみにではなく、人類のすべての苦悩の前にひざまずいたんだ」 
「そして、机の上の聖書を見て、ラザロの復活を読んでくれと願う。燃え尽きようとするロウソクの灯が、永遠の書を読む殺人者と売春婦をぼんやりと照らし出していた。
 彼は、自らの犯行を告げる相手として、彼女を選ぶ。彼女は、冷酷無残な殺人者の彼を、抱きしめる。彼は問うた。「いったいきみはこんな卑劣な男を愛することができるのか」 
 彼には理解し得なかったのだ。選ばれる価値もない者を抱きしめる愛を。救いようのない魂を救い得る、唯一の希望である、罪をおおう愛を。
 彼は、ソーニャに強く勧められながら、自首することをためらう。数日間、悩みぬいた末に、彼はソーニャのもとに帰って来る。彼女は彼の胸に十字架をかけ、彼は警察署に向かう。十字路にさしかかったとき、彼はソーニャの言葉を思い出した。
「今すぐ行って、十字路に立ち、ひざまずいて、あなたが汚した大地に接吻しなさい。そしてみなに聞こえるように、『私が殺しました』と言うのです」
 涙が目にあふれ、立っていたそのままの姿勢で、いきなり彼は大地に倒れ伏した。それから警察署に向かい、ドアをひらく。一度は切り出せず帰りかけていた彼が、……再び階段を上がって行く。
「あれはぼくが殺したんです」
副署長は、あっと口をあけた。四方から人が駆け寄ってきた。

 裁判では、自首および様々な情状が考慮され、八年のシベリア流刑ですんだ。
 ソーニャも彼の生涯の伴侶としてその地に移り住む。 

 復活祭前の、ある春の日、労役の合い間に、遠く陽射しをいっぱいに受けた、はるかなシベリアの草原を、二人は腰をおろして眺めていた。 
ふいに彼は、彼女の足もとに身を投げ出し、泣きながら、彼女の両膝を抱える。
 愛が、彼を征服し、彼は、よみがえった。 
 その夜、彼は枕の下に置いていた聖書を手に取る。かつて彼女がラザロの復活を読んでくれた、あの聖書・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なんという読後の解放感だろう。厳寒のシベリアの地に春をもたらす風が、読む者の心にも吹いてくるようだ。
 「選ばれた者」のはずの彼が、罪を告げる相手に「選んだ」のは、自分が見くだしていた無名の大衆の一人、ソーニャであった。そして、「選ばれた者」という高ぶりが砕かれたその果てに、なおも愛される愛に圧倒されて……神は、彼を選ばれたのだ。新しい命に生きる者として。
 それは、彼らの誰一人として、自らそれに価すると思う者がないからだ ー  
 

 

  

Illustration by Chikahiro Miyamoto