芥川龍之介の最期の句。昭和二年(一九二七年)七月二十四日の午前一〜二時ごろ、芥川は同居の伯母の枕もとに来て、一枚の短冊を託し、明日の朝、主治医に渡してほしいと頼む。
その短冊に、上の句が記されていた。
その夜、彼は、ヴェロナールおよびジャールの致死量を服用し、二度と目覚めることのない死の眠りに就く。享年三十五歳。彼の枕もとには、一冊の聖書が置かれていた。
なんとも龍之介らしい辞世の句である。すべてが夕闇に包まれる中、風邪をひいて少し赤みを帯びた鼻の先、そこだけがポツリと赤く、暮れ残っている。
「鼻」は、鼻にかける/鼻を高くする」など、自我、自尊心を暗示する。それも、病める鼻、道化のピエロのように赤い水洟である。前書きには「自嘲」とあり、そんな己をあざ笑っている。
何もかも見えなくする「闇」。生きる意味も見えなくする、得たいの知れぬ暗いものを、彼は人生に感じていた。今や彼のもとに残るのは、風邪ひきの水洟、病める自尊心ばかり。だが、それさえ、「闇」に消え入ろうとしている。
■『歯車』
遺作。数を増やしつつ、回り続ける半透明の歯車の幻視と頭痛に悩まされる「僕」 は、聖書会社の屋根裏に住まう老人を訪ねる。「それは薬ではだめですよ。信者になる気はありませんか?」と尋ねられ、「もし僕でもなれるものなら……」と答えるが、悪魔は信じられても神を信じられない「僕」に、老人は問う。「もし影を信じるなら、光も信じずにはいられないでしょう?」「僕」は答える。「しかし光のない暗もあるでしょう」
老人も闇の中を歩いているが、闇がある以上、光もあると信じている。ただ、この一点の違い。しかし、それは「僕」にとって、越えられない溝のように思われる。
何かに狙われているような不安、歯車の幻覚は益々激しくなり、妻にも「貴方が死んでしまいそうな気がして」と予感される。「誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」
それが「僕」の最後の言葉だった。歯車の幻覚、それは次第に無機質化し、人間であることを失ってゆく象徴的幻覚なのか。
「光のない暗 やみ とは何なのか? 芥川二十三歳の手紙には、こう記されている。
「イゴイズムを離れた愛があるかどうか。イゴイズムのある愛には……人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出来ない。イゴイズムのない愛がないとすれば、人の一生ほど苦しいものはない。周囲は醜い。自分も醜い。そして、それを目のあたりに見て生きるのは苦しい。……僕は時に……何故こんなにして迄も生存をつづける必要があるのであろうと思う事がある」「光のない暗 とは、イゴイズム利己主義 を離れた愛、人間の存在を癒す愛の光なき人生か。
■『羅生門』
芥川は、癒されがたい生存の闇の部分を描いた。『羅生門』の結末も、死人の髪を抜く老婆が、下人に身ぐるみ剥ぎ取られ、その行方を追い門下を覗き込むが、「外に は、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである」。闇の背後には、光を求めてやまぬ芥川の憧憬がある。だからこそ、その闇は一層深い。
一方、あからさまに光を描いた作品もある。
■『杜子春』
杜子春は、仙人・鉄冠子により何度も莫大な富を得るが、金があれば世辞を言い、貧しくなれば口もきかぬ世人の薄情 イゴイズム に愛想が尽き、世を捨て仙人を志す。鉄冠子に峨眉山へ連れて行かれ、自分が帰るまで一言も口をきくなと言われる。
虎や白蛇、大嵐の幻の後、神将の鉾 により刺し殺され、霊界に下り、閻魔大王から拷問を受けるが、口をきかない。ついに、畜生道に落ち馬の姿となり果てた父母まで呼び出され、拷問されて、血まみれになった母の幽かな声を聞く。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ幸せになれるのなら……大王が何とおっしゃっても、言いたくないことは黙っておいで」。鬼に鞭打たれながら、恨むことなく息子を思いやる母の愛 イゴイズムのない愛に杜子春は、はらはらと涙を落としながら、「お母さん」と叫ぶのだった。
■『蜜柑』
奉公先に赴く哀れな田舎娘が、汽車の窓から、踏切りまで見送りに来た弟達に、暖かな日の色に染まった蜜柑をばらばらと投げ与える。その光景は切ないほど心に焼きついて イゴイズムのない愛を垣間見て 「私」は、言い知れぬ疲労と倦怠、不可解で下等で退屈な人生をしばし忘れる。
■『続西方の人』
芥川最後の作品。彼が自殺前日まで書き続けたのは、西方の人=キリストであった。最後の文章は、「我々はエマオの旅びとたちのように我々の心を燃え上がらせるクリストを求めずにはいられないのであろう」。
しかし、『西方の人』も『続西方の人』でも、彼はキリストにイゴイズムのない愛を故意的に見ようとしていない。「人生は一行のボオドレエルにも及ばない」と見た彼は、文芸に人生を越えた何かを見出そうとした。「僕はあの時代には自ら神にしたい一人だった」。自らのペンで自らの存在を救う…。
彼はキリストを信じるより、自らをキリストにしたい一人だった。そんな己を「自嘲」しながらも。切ないほどキリストを求め、イゴイズムのない愛を求めながらも。「神の愛を信ずることはとうてい彼にはできなかった」(『或阿呆の一生』。そしてこれに続く、この自伝的小説の最後の章は「敗北」である)
ついに、彼は、「鼻」を、エゴを捨てられなかった……。枕もとに一冊の聖書を残し、「闇」が彼を連れ去って行った。
「暗闇に追いつかれないように光のあるうちに、光を信じなさい」聖書 |