【岡照芳の文学大好きD】

 

     詩人 J・キーツ     

 

  

〜 Profile 〜

【ジョン・キーツ】(John Keats 1795-1821)19世紀初頭、イギリス・ロマン派における夭逝の天才詩人。
1795年、ロンドンの裕福な貸馬車屋の長男として生まれるが、父の落馬事故死により、家運は急転し、貧窮の中、母も肺結核で失う。
 20代前半にして、極めて完成度の高い作品を次々に発表し、時に、シェイクスピアに次ぐイギリス第2の詩人と言われる。だが、生前の評価は必ずしも芳しくなく、不遇の内に、肺結核を患い、療養地のローマにて死去。25歳であった。
 その後、19世紀後半に再評価され、イギリスから全世界に愛読者が広まり、「キーツとおなじ肺結核で死にたい」という熱烈な信奉者も少なくなかったという。
                                 
(詩の引用は「キーツ詩集」[出口保夫訳 白凰社]

 

 天才詩人キーツ。なぜか、日本では、あまりポピュラーではない。外国の詩人というと、「バイロン、ゲーテにハイネの詩」。しかし、なかなかキーツの名は挙がらない。中には熱烈なファンもおり、わが子に「希逸と名づけるほどの人もいる。しかし、名前の意味、希のぞみを逸するとは、あんまりだ。悲運の天才、キーツの当て字には相応しくとも……。
私も、キーツとの出会いは遅かった。大学時代、自称詩人の私は、海外の著名な詩人たちの詩を翻訳で読み漁っていた。そんなある日、キーツの詩に出会った。そのガラス細工のように、澄んだ端正な、古典的な美しさに強く心ひかれた。
 私は現代詩も含めて現代芸術があまり好きではない。不協和音ばかりで、メロディーがない。現代音楽だけではない。絵画、彫刻、詩からも、メロディーが消えた。それは調和を喪失した現代社会を象徴している。メロディー、それは、単なる音の組み合わせではなく、日常を越えて、高く深く魂の琴線に触れる調べである。
 芸術は日常の枠を破るものだ。日常の世界に深く突き刺さって、それを突き抜ける。ところが、現代芸術の多くは、日常を越えるのではなく、そこから離脱して道を外れ、もはや帰り着けないほど複雑な迷路のように入り組んでいる。まるで、日常の世界に戻りたくないかのようだ。
 だが、キーツの詩には、メロディーがある。心の琴線をふるわせる何かがある。短命の生涯を予感していたのか、死を意識した詩句も多い。しかも、それらは、悲壮感ではなく、透明な静けさに満ちている。

静かな想いが浮かんでくる。
  たとえば、新芽をふき出す木の葉、
  静寂の中で熟する木の実、
  静かに束ねられた麦の穂に
       微笑みかける秋の入り日、
  ……幼な子の寝息、
  砂時計の中をさらさらと落ちる砂、
  森の中のせせらぎ、詩人の死。
 静寂が水のように心を浸し、いつまでも浸り切っていたくなる……。私は穏やかな驚きを覚えた。わずか二十代前半の青年が、こんなにも静かな心で「詩人」=自分の死を想うことができるものだろうか、と。
  私のペンが豊かな詩想を刈り取る前に
  ……私は挫折してしまうのではないか
  ……生きられないのではないかと思う
  ……その時 この広い世界の岸辺に
  ただ独り立って、愛も 名声も
  虚無に沈んでゆくまで 私は物想う。
 詩人としての才能が実を結ぶ前に挫折するかもしれない、生きられないかもしれないという不安を、キーツも覚えていた。しかしそんな時、彼はこの世の愛や名声、それが何にもなくなっても、安らかな、大きな静けさに、身も心もうち浸していった。たとえ、無名の一詩人として不遇の死を迎えることがあっても、揺り動かされることのない平安で、日々心を浸し続けた。まるで、何度も染められて、もはや洗っても色あせることのない染物のように。

眠りよ どうか閉じておくれ。
このように おまえの聖歌を聞く中で
喜びのわが目を。……
私を救っておくれ。暗闇に君臨し、
もぐらのように潜み住むものから。
油をさした錠前に、
じょうずに鍵をさし込んで
私の魂の静かな小箱を閉じておくれ。

キーツはきっとこのように、静かに眠るように死んでいったのではないか、私はそんな気がしていた。それを確かめたくて彼の伝記を開いた。
 実際、キーツの内にも、信仰に関して、難解な人生の意味に関して、確かに、葛藤があった。彼は言う。
「全ては夢なのか? 来世はあるのか?
きっと、ある。こんなに苦しむためだけに、私たちは造られたはずはない」
 そうして、信仰深い画家セヴァンの親身な看護の内に、彼は死の眠りにつく。
 「時が来ました。ありがとう、神様」
 彼の友セヴァンは語る。
 「それはあまりにも静かで……私はなおも思っていたのです。彼はただ眠っているのだと」
それは、当時の私には、感動を超えてショックだった。なぜ、そんなことが言えるのか。「ありがとう」って言えるものなんて、どこにもないじゃないか。わずか二十五歳、ありあまる才能が花開く前に散り、約束された名声と成功をあきらめ数々の愛の詩をささげた婚約者との結婚の喜びも味わえず、どうして、「ありがとう」なんて言えるのか。私なら、とても言えない。あの夏目漱石が「いま死んじゃ困る。いま死んじゃ困る」と言って死んだように、私もきっと運命を呪い、もがき苦しむだろう。しかしキーツの死には、まるで天国のように、まぶしいほどの安らかさがあって、私はそれが欲しくて欲しくてたまらなかった。

時は流れ、心に何の平安も持てず、「こんな人生、捨ててしまいたい」と、自ら死を求めて、死にきれなかった時、ふと「聖書が読みたい」と思った。キーツの内にあった平安が欲しくて、「ありがとう、神様」の言葉に引き寄せられるようにして、私は聖書を読んだ。
キーツの墓碑には、こう記されている。
「その名を水に書かれし者、ここに眠る」
世のすべては水の流れのように過ぎてゆくだろう。しかし、この詩人の名は私の内に、いつまでも、消えることなく、書き記されている。そして、「ありがとう、神様」の言葉は、私の心の琴線に今も響き続けている。 

 Illustration by Chikahiro Miyamoto