【岡照芳の文学大好きF】

 

<>     プラトン『饗宴』  

 

 

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『饗宴』(原題Symposion
副題「エロス
()について」。紀元前三八四年頃、プラトン前期の対話編。
原題の「シンポシオン」はシンポジウムの語源となった言葉で、原意は「共に飲むこと」。祝宴の席で、酒を酌み交わしながら、参列者が順次、恋の神エロスをたたえる演説を語る。華麗なエロス賛歌が続く中、ソクラテスは最後に立って、いつもの対話法を用い、飾り気のない単刀直入の言葉でエロスそのものの本質に迫る。
 「ソクラテスの弁明」「クリトン」「パイドン」と共に、いわゆる「ソクラテスの四福音書」の一つに数えられる「饗宴」。プラトンの文学的才能と哲学的探求とが一体となり生み出された、二千数百年の時を経てなお読み継がれる不朽の名作である。

 

これって文学!?という読者の声が聞こえてきそうである。しかし、もともとプラトンは悲劇作家を目指し、悲劇のコンクールに参加しようとした時、ソクラテスに出会い、自らの作品を恥じて一切を火中に投じて彼の弟子となった伝説もあるほど、文学的才能に恵まれた人物である。そのプラトンの数ある対話編の中でも、『饗宴』は、ひときわ文学性の高い芸術作品なのである。
紀元前四一六年、アテナイのレナイア祭での悲劇の競演で優勝したアガトン邸で、盛大な祝宴が設けられ、ソクラテスを始め多数の人々が招かれた。振る舞われたご馳走に一同の腹も満ちた時、医者のエリュクシマコスが口を開く。「昨晩からの酒宴続きでみな飲み過ぎており、今宵は互いに飲むことを強要せず、何か言論を交わしながら気持ちよく酔いたい」と。一同の賛 同を得て、「恋の神エロス」をほめたたえる演説が語られてゆく。

まずは、弁論家のパイドロスが語る。ギリシア神話によれば、カオス(混沌)の中から最初に生まれたものは、ガイア(大地)とエロスであった。大地と恋、そこからすべてが始まったとは意味深である。また、恋する者は、恋人の前で美しくありたいと願う。それゆえ、恋は最も古く尊く、人の外面も内面も美しくする原動力となる、と。

次に、祝宴の主人公アガトンの愛人パウサニアス。彼は、美の女神に二種類あるように、エロスにも二種類あると語る。一つは低俗なエロスで、肉体的な一時の美を求め、すぐに過ぎ去る恋。もう一つは天上的なエロスで、永続的な美を求め、自らの徳を高め、より立派な人物となるために恋するもので、これこそ讃美すべきエロスである、と。

三番目には、生真面目な医者エリュクシマコスが、パウサニアスの二種類のエロス説に補足する。医学も二種類のエロス、醜い不健康な欲望(エロス)を抑え、美しく健全な欲望(エロス)を満たすものである。中でも、慎みと正義の徳をもって善きことの実現に励むエロスこそ、あらゆる幸福にわれわれを導くのである、と。

 続いてアリストパネス―古代ギリシア最大の喜劇作家―が語る。エロスは、人類最大の幸福を左右する傷をなおす医者である。その傷とは何か。昔、人は背中合わせにくっついていて、頭が二つ、手足は四本ずつの姿であった。歩くときには横向きに、合わせて八本の手足をぐるぐる回し、タイヤを転がすように歩いていた(というより転がっていた)。それが、神々を攻めるべく天上に昇ろうとして罰を受け、人は真っ二つに裂けて現在の姿となった。だから、人はその傷をいやすため、また、もともとの自分の片割れを捜し求めて恋するのである、と。笑わせておいて後でこんなグッとくる話をする。さすが天下の喜劇作家! しかし、神に背いた人間が、その反逆の傷を恋によって、いやそうとする。なんとも暗示的だ。

続いて、この祝宴の主催者にして悲劇コンクールの優勝者、美しきアガトンが語る。エロスは神々の中で最も年若く、老いることなく、恋する者をも若返らせる。恋はどんな勇士をも虜とする最強の勇者である。
人々を互いに寄り合わせ、温和をもたらし粗暴を放逐する者。授からぬ者には羨望の的、授けられた者には貴重な宝、すべての者はエロスをたたえよ。エロスの歌う歌に合わせて。
アガトンの演説に一同、拍手喝采の中、最後にソクラテスが立ち上がり語る。それまでの演説者がエロスを賞賛の言葉で飾り立てたのに対し、彼は逆に、恋に関するすべての思い込みや誤解を剥ぎ取り、エロスを裸にしてその本質に迫る。

人々はエロスを美しいと言うが、これは美を求める欲求である。すでに十分持っているなら求めることはない。ならば、エロスが美を求めるのは、美に欠乏しているからである。―アガトンは自説の誤りを認める―。そうしてソクラテスは、マンティネイアの婦人ディオティマから聞いたというエロス出生の秘話を物語る。
エロスは、ポロス
()を父とし、ペニア(貧困)を母として生まれた。それゆえ、母の性質を引き受け、乏しさの中にありながら、父の性質を引き受けて、豊かさにあこがれる。また、エロスは富と貧困の中間にあって富を求め、善と悪の中間にあって善を求める。完全な悪人は善を欲せず、完全な善人は善を必要としない。
しかし、どちらも存在しない。人は、自らその中間にあると知り、へりくだって、完全な善、美そのもの=美のイディアを恋
(エロス)して生きる。これこそ、不死なる幸福に至る神に愛される道である。私ソクラテスは、この宝を手に入れるよう自らも常に励み、人々にも日々説き勧めている、と。
ソクラテスが語り終えるや、突然、泥酔したアルキビアデスが乱入して来る。若き美少年アルキビアデスはソクラテスを恋い慕い、思いを遂げようとあらゆる手を尽くしたが、一切の誘惑を退けて微動だにしないソクラテスに、いっそう敬慕の念を深め、彼の品格をほめたたえつつも、どうにもならない恨みつらみをその場にぶちまける。
宴席は、やがて秩序を失い、手から手へ大盃を回し呑みながら、次々と酔いつぶれてゆく。ひとりソクラテスは最後まで飲み続け、平然と哲学を語り夜を明かす。朝の陽射しの中、彼はみなを眠らせたまま立ち去って沐浴し、いつものように道行く人々と哲学を語りながら、夜のとばりが降りる頃、家に帰り休んだという。

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ソクラテス。彼は、時代の枠を超えた存在だ。ギリシア神話の粗暴な神々を真の神ではないと見抜き、エロスについても、時代を超えた深い洞察を示している。
ただ、美や善を恋するのは、自己の幸福のために利益があるからだという。
その点、聖書の愛を知る者には不満もあるだろう。「結局、人はどんなに美しいことを語ろうとも、自分のためでなければ、何も欲求
(エロス)しないのか」と。
エロス、それは、決して満たされず、満たされた時には消滅する愛である。
『饗宴』は、エロスを単に肉的な欲望と見る偏見を打ち破る。そして、イカルスの翼のようなエロスの可能性と、その限界に目を開かせる、真実な哲学
(愛知)の書なのである。

 Illustration by Chikahiro Miyamoto