TVの思い上がり
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 2000年の11月23日、万博でガンバ対アントラーズを見ました。アントラーズは強かった。でも勝てない相手では決してなかった。セカンドステージはアビスパ戦、エスパルス戦以外すべてスタジアムで見ましたが、ガンバよりも選手個々の技術が上だなと思えるチームはなかったし、Fマリノスにしても「下手だけど強いなぁ」と思ったくらいだった。ファーストステージやナビスコ杯でアビスパ、エスパルス、ジュビロはスタジアム観戦した。私の見る視点では、ガンバと選手個々の技術レベルが同じくらいのチームはアントラーズだけだと思う。断っておくが何度か書いているとおり選手個々の技術とは、パスの軌跡やシュートの精度だけではない。1−2という結果はある意味、順当だった。選手層やクラブ組織の差、ベテランの力量でアントラーズはガンバを上回っていた。けれど10回試合をやっても4勝6敗ぐらいしか差はない。

 だからこの試合の”湯浅健二の「J」ワンポイント”「総合力の高さを見せつけたアントラーズ・・(ガンバ対アントラーズ=1−2)」には、大いに違和感があった。けれど、この”湯浅健二の「J」ワンポイント”に大いに違和感があるのは何も今回だけではない前年のセカンドステージ「ガンバvsジュビロ(3−1)」も、疑問があります。

 前年のセカンドステージ「ガンバvsジュビロ(3−1)」はTV観戦であったと明記があった。今回の「総合力の高さを見せつけたアントラーズ・・(ガンバ対アントラーズ=1−2)」はどうだったのだろう。仮に後者をスタジアムで見ていたにしろ、湯浅氏がガンバの試合をあまりスタジアム観戦していないのは”湯浅健二の「J」ワンポイント”を見れば良く分かる。つまり湯浅氏はおおかたのサッカーファン同様、99年ガンバのF3が進化していくところを見ていないのである。もしも、宮本の守備組織が世界の最先端を試行していた場合には、湯浅氏はそれを量る機会と物差しを持っていないという事になる。

 99年のジュビロ戦は台風の関係で、98年最終節に比べると万博はずいぶんと閑散としていた。しかしそこで見られた光景は「宮本がF3の両サイドのカヴァーを一人で支配」したという事実だった。これを見抜けなかった湯浅氏が、新しいパラダイムへの橋渡しができるかどうかは疑問である。

 99年の五輪最終予選で宮本は当たり前のように、両サイドのカヴァーとラインコントロールを両立させていた。このレベルに宮本抜きの代表のF3をいまだに到達していません。しかしガンバでは五輪最終予選に先んじて、当時F3の大きな弱点と認識されていた両サイドのスペースに出されるボールへの対処法を確立させていました。

 しかしその前に、ピッチ上のコンダクターとして宮本が君臨したエスパルス戦を無視するわけにはいきません。試合直後改装前のJ-NETガンバツリーに私は次の趣旨の文章を書き込みました。「・・・得点前のガンバのラインは五輪代表よりもこころもち低めでルーズ。上位争いをしているエスパルスが攻勢だったけど、その割にシュートコースが消されていたりして失点の危険は少ないように思えた。カウンターからの得点後はラインが一気に高くなって、五輪代表以上にフラットにならぶ。後半、特に宮本のF3をよく知る市川が退いてからは、ガンバは短時間にオフサイドを量産する。(代表のお高いばかり一辺倒のF3には指揮官の高いプライドを感じます。一方ガンバのフレキシブルなF3は、はんなりした大阪弁を感じます。という感想つき)」私がかってラインコントロールによるゲームコントロールが可能ではないかと書いたのは、このエスパルス戦を見たためです。DFによる試合の管理を万博で目の当たりにしたのでした。ちなみにこの試合をTVで見ても宮本が意思持って得点後にラインの高さと質を変えてしまったことは確認できませんでした。

 欧州リーグには、もしかしたら、同じようなDFによる試合の管理はあるのかもしれません。しかし私は欧州リーグをTVでしか見たことがないから、同じようなDFによる試合の管理があるのかどうかは分かりません。くどいほどあちこちで書いていますが、ラインディフェンスを見るにはTV画面では大きな制限があるからです。だからフットボールネイションズ作成のカメラフレームでさえ、確認できないことがたくさんあって、TV観戦だけで守備組織全体を語るには目の肥えた人が、かなりの数の試合を見た場合でないと、正確な評価は難しいと思います。そしてその不自由さに自覚のない人は、カメラのフレームの余白(時間、場所の両方)に対する想像力が貧困なのではないかと思います。湯浅氏は、ジュビロ戦冒頭に曰く「この試合は、テレビ観戦ということでショート、ショートにまとめます。」この記述は不自由が介在することは自覚されていることを匂わせます。しかし、TV観戦で欠落する大事な視点についての考慮がなかった。

 湯浅氏が高名なコーチであり、フットボールライターとしても高い評価を得ていることは存じ上げています。私も湯浅氏の署名記事はかなり読んでいますし、著書は購入しています。湯浅氏の著作物にはおおむね敬意を持っていますが、早野監督就任以降のガンバいわんや宮本にまつわる評価については、そもそものスタンスと評価方法に私は抵抗があります。そして湯浅氏の宮本に関する評価にも、逆の意見をいくつか持っています。

 まず、99年セカンドのエスパルス戦、ジュビロ戦ともに万博で見るのとTV画面で見るのとでは印象がえらく違うことを指摘したいと思います。シュートの本数で試合内容を判定して、湯浅氏はジュビロの方軍配を揚げていますが、ジュビロのシュートは打たされたというシュートが多く、シュートコースが防がれていたり角度が悪かったりというシュートです。むろん、高原や中山がスーパーなシュートを打てば決まっていたことでしょう。しかし、それは湯浅氏が頻繁に使うリスクを背負ったプレーでした。当時のガンバの得点力の欠如を考えると、守備に人数をかけるわけにはいきませんでした。そんな条件の中で、宮本の選択したのは、プレーの最小負担による最大効果でした。これはかなりリスクの高い守備でした。エスパルス戦のラインコントロールによる試合の管理をクリアした宮本の次なる課題は、攻撃力のあるチームに対する中央からのカヴァーでした。

 今年になってダンブリーが00年セカンドで敗戦したエスパルス戦を簡単に振り返って「危なく見えるかもしれない。でもあえてボールを持たせてやっている」とインタビューの中で語っています。しかし、あえてボールを持たせているのは何も今年に入ってからのことではなく、99年ジュビロ戦で既に原型はありました。それが、湯浅氏には
>「何だ、ガンバの守備陣には、ブレークポイントっていう発想がまったくないんじゃないか??」
と見えたのでしょう。しかしエスパルス戦に比べると宮本がサイドのカヴァーに出てきて、ラインをフラットな形状に保っていた時間は少ない。一見、高原や中山がラインを上手く突破して裏をとったかのような形になっていて、万博でも多くのガンバサポが「危な〜い」と声を出していました。しかしサイドでボールを持った高原や中山の中央への侵入は宮本が的確なカヴァーで阻止し、ジュビロの2列目からの飛び出しにはシュートコースを防ぐことで確率を下げてしまいます。一見のジュビロの猛攻が、ガンバのカウンターのチャンスになった事はスコアどうり。ちなみにこの試合でも、宮本は高原中山相手のフィジカルコンタクトに勝っていました。シュートの本数はガンバの13本、ジュビロ17本。そしてスコアは3-1。シュート決定率はガンバが23.1%でジュビロは5.9%。実にガンバの決定力はジュビロのほぼ4倍です。昨年の双方の攻撃の選手の能力を考慮すると、この決定率の大差にDFの貢献があったことをますます見過ごすことはできません。

 ことほど左様に宮本の仕切る守備は、スタジアム観戦の醍醐味、というか優越感を味あわせてくれます。スタジアム観戦ならではの面白さ満載、スリルと知性のせめぎ合いの緊張感も十分です。かといってサッカー観戦眼が肥えてないと宮本のプレーはつまらないかといえばそうではない。彼のプレーの意味を言語化し得なくても、彼のプレーを楽しめる観戦者はたくさん現実に存在してる。

 湯浅氏がラインディフェンスが世界の潮流になることを、日本の中ではいち早く述べたという彼のアンテナには、湯浅氏の多くの著作物同様に敬意を持っています。しかし、そのアンテナは彼の信頼するドイツのコーチとのやりとりや欧州での潮流といった、サッカー界の大勢を把握するアンテナであって、ラインディフェンスやフラットラインに対する湯浅氏自身の造詣ではないような印象が、湯浅`s Voice−連載コラム112(7/30号)「あるドイツ人プロコーチとの会話・・その(2)」からも感じられます。それは湯浅氏自身がラインディフェンスに対する様々なリスクとリターンを検証されている最中である、ということなのかもしれません。そうであるならば、なおのこと日本で唯一恒常的にフラットなラインディフェンスを成功させている宮本への評価は慎重であるべきだと私は思います。ガンバの試合を是非スタジアムでたくさん見ることをおすすめします。そして、その際には新しい物差しを持ってプレーを量るべきでしょう。

 たとえば、GKの視界は防がずGKの取れない所はDFがシュートコースを防ぐというのも長短あって、その隙をついてシュートが決まる確率は絶対に存在しています。けれど、プレーの有効性はどうでしょう。二対一のフィールドプレーヤーの人数が負けている状況で、ボール奪取を計って、失敗したときの失点の確率に比べると、GKとDFの隙をつかざるを得ないシュートの失点の確率はケースバイケースでしょう。そのケースバイケースの判定も含めて宮本がプレーしているのではないかという検証は、次代のサッカーを占うのではなく今の日本サッカー界で何が起こっているもか?ということを解き明かすために必要な事だと私は考えています。99年五輪最終予選でゴール内のゴールライン上に三人並んだ一瞬をお見逃しではないのなら、ガンバに限らず代表でもブレイクはラインディフェンスの前提にあるものではないかもしれないと推量できると思います。そして、付け加えるならば無意識化にせよ五輪代表でのF3は成功、ガンバのF3は失敗という一般に流布する誤謬に沿って、論説が書かれてるように私には見えます。湯浅氏の評価軸ではブレイクは是です。五輪代表の遅いブレイクは指摘せず、ガンバではブレイクの遅さを再三指摘しているものの、五輪代表でも宮本中央のF3はブレイクが遅い。湯浅氏の中では「五輪代表のF3=成功=ブレイクポイント良好」で「ガンバF3=失敗=ブレイク遅し」というイメージがあるような気がします。99年の湯浅氏の代表とガンバの論説を見比べるとガンバに対する論説がステレオタイプで深みがあまり感じられないのは残念です。あまりスタジアムでガンバを見ていない以上、仕方ないのかもしれませんけどね。

 そして00年ガンバ対アントラーズの試合です。この試合を湯浅氏がどこで見ていたのかは知りません。しかし「総合力の高さを見せつけたアントラーズ・・(ガンバ対アントラーズ=1−2)」のとおりほど試合の主導権はアントラーズが一方的に握っていたわけではありませんでした。人によって見方が異なることは、よくあることですが、湯浅氏の評価態度が少し矛盾しているように思えた点があります。それは99年ジュビロ戦ではシュートの本数を持って、内容はジュビロに軍配を揚げながらもこの00年ガンバ対アントラーズ戦ではシュート本数がガンバのほうが多くてもアントラーズがさも圧倒的に強かったというような書きっぷりです。ボール支配率がガンバ51に対してアントラーズ49という点を含めて、もしアントラーズが湯浅氏の評どおりに試合を支配していたというのならば、自身の書いた99年のガンバ対ジュビロ戦でジュビロは内容で勝っていたというのは矛盾してきます。こういうダブルスタンダートは、プロのライターにはあるまじき行為ですので、湯浅氏はどこかの時点で物差しを変えたのならそれを明確に記しておく義理があると思います。そして過去の自分の論評がそれに沿うと、誤りを含んでることを潔く認めるべきでしょう。

 というわけで、万博で人数をかけないと新井場を止められないアントラーズのベテランを見ましたし、後半はアントラーズがひたすら時間稼ぎをチーム全体で励行していたのも見ていますので、ガンバが強敵であるという認識をアントラーズ全体が持っていたことを確信しています。二川というカードをあえて捨てた早野監督らしいミスは、やはりガンバというチーム内の問題ですし、アントラーズの老かいさも実力の内です。アントラーズの勝利にけちをつけるつもりは毛頭ありません。実力通り順当にアントラーズが勝った試合だったが、そんなに両チームに差はない。私の評価は以上です。

 「ガンバならTVで見てるよ」あるいは「一般論からいうと・・・・」という切り口のサッカーライターがいるとするならば、サッカーライターとしてはリベロスイパーシステムの時代に殉じる覚悟でもおありなのでしょうか?と私は思います。リスクチャレンジが大事なことに私は異論がないのですがね。

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