型から入って型を乗り越える
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 日本の伝統文化の茶道、能、歌舞伎、相撲、日本舞踊、短歌、歌舞伎のいずれにも型があります。短歌の五・七・五・七・七などや茶道における決まり事、能の所作など例を挙げればキリがありません。まず、型の修得があってそこから道がはじまります。そして、型の存在意義を演繹的に説明されることは少なく、師匠の演じる型を学びひたすら基本を繰り返します。(このことを述べる資格がこの私にどれぐらいありましょうや?汗)
 日本語の学ぶ(まなぶ)の語源は真似ぶ(まねぶ)。そう日本人にとって学ぶことは真似をすることであり、形から入ることなのです。その道の理論構造を体系立てて勉強するよりも、ひたすら型をなぞり、型をなぞるプロセスの中で型の意(イデア)を掴もうとする。そのプロセスの中で対象物の本質、アイデンティティを掴むのは自分。教えてくれる師匠は型の中に本質を含ませる人であり、示唆する人ではないでしょうか。
 そうした型の繰り返しの末に本質を掴んだ者のみが型を乗り越えられる可能性があります。本質が掴めないうちに、繰り返される基本を放棄することは文字通り型破りなだけで型を乗り越えたとは言えません。

 なんで、こんな事を書くかと言えばF3について行われる哲学論争のひとつに「型から入って型を乗り越える」という分析があったからです。私は宮本流F3には明らかに型が存在するし、その型がトルシエによるものであるならばいつの日にか宮本がその型を乗り越えるのではないかと昨年来わくわくしていました。だから、興味深くいろんな説を拝見しました。けれどその中に、宮本は型を忠実になぞらえた、松田は型を乗り越えたという趣旨の書き込みとそれに対する支持がありました。
 たくさんの人間がいてそれぞれに人生を過ごしてきたわけですから、違う意見があることでしょう。だから世の中面白いとも言えますが、私は上段の意見には賛成できませんでしたので反論しました。事実はそれだけです。

 ここでは、なんで違う意見を頑固に持っているかについてを述べたいと思います。F3の基本形を宮本が呈示し、それを引き継いだ松田がさらにF3を進化させた。というのなら、松田は宮本同様にF3の型ができないといけないと思います。

 では、F3の型とはなんぞや?

・三人が真っ直ぐに並んで相手FWを牽制できること
・三人が一つの意志で動けること

というのが目に付く型であり、これを達成するための細かいいろんな技術や型があると考えています。例えば、ボクシングのフットワークのようなステップや視界の確保、正しい体の向きや、状況判断力。さしずめフットワークあたりは細分化された型であり、状況判断力は技術でしょうかね。

 宮本は、今わたしがあげた目に付く型もそれに必要な技術、型も持ち合わせた上でラインコントロールを敵味方の状況に合わせて計算するだけでなく、時には戦略的に高さを演出して見せました。これには日本のサッカーが過渡期であるという事情もあると思うのですが、彼は本来なら状況によって割り出される筈の値であるラインの高さを自分でコントロールしたのです。また、F3を自分の判断でF4(昨年国立での日韓戦)にし、システムをいじってなおトルシエに評された日本初の選手となりました。南米選手権でラインを下げて井原は代表の席を失い、名波は討って出て酷評されました。それ以上に大胆にシステムをいじって宮本は何故トルシエの信頼を失わなかったのか?それは宮本がF3の本質を掴んだ上で行ったシステム変更だったからではないでしょうか。私にはこの時、宮本が、トルシエのF3を乗り越えるかも知れないと思いました。その思いが確信に変わるのがガンバでのF3でした。五輪代表以上に流麗に淀みなく変化する最終ラインは、ボランチ或いはサイドハーフを加えて最大5人になっても、そろってステップを踏んでいました。そして、短期間に宮本はDFの台所事情苦しいガンバで五輪代表以上の宮本流F3を敷衍します。
 99年セカンドステージにおける清水戦や磐田戦は決してまぐれではなく、ガンバの持病「終了直前の失点」を防いでいました。宮本が守備陣を使うことスペースがなくなることで攻撃力が失われたというデメリットもありましたが、今年の4バックよりは遙かに魅力的、野心的なシステムでありました。

 では松田はどうでしょう。何をもってラインコントロールというのか?或いはF3というのかを定義しないと厳密な議論はできません。しかし、そんな正規の手順を踏まなくても『あれのどこがF3やねん?』って私はメキシコ戦で思いました。半身(はんみ)で下がるときの体の方向が逆(これはF3でなくても重大な欠点)ベタッと地に着いた両足(それじゃ動き出しが遅い)そして首を振らない(見てない相手は中田英寿でもブロックできんぞ)およそF3やラインコントロール以前の問題に私には思えました。
 それでも松田には武器があってその武器を携えて前に出ます。自分らしいプレーでJリーグでは活躍しています。しかし、それでF3の進化といえるのでしょうか?F3はトルシエの戦術の象徴であって全てではないと言えます。しかし、今までどのカテゴリーの代表にも求めた枠を、松田には求めなかったように私にも見えました。それは松田がF3の本質をマスターしていたから?いいえ、それはない。松田のダンスはまだまだ音を外しています。日本舞踊なら「それは違いまっせ!」或いは「なっとらん!!」ってお師匠はんの扇子が飛んでくるレベルです。 そんな中でフォアリベロがF3の進化形だのブレイクが型から入って型を乗り越えるだのって、私には理解不能な意見でした。いずれもラインができてないのだから、単なる3バックのフォアリベロやマンマークとどこが違うのか?と気づいたからです。”F3の進化形”というのは枕詞で、それを意味を持たない他の言葉−やっぱり−と置き換えてみても実態にかわりはありません。そう、松田の美点を探すにしてもF3に無理矢理関連づける事が私には奇異に映りました。なんで、そんなややこしい見方をわざわざするんだろう?と。

 そういうわけで、私は基本の型ができてないのに応用なんかあるもんかと書きました。賛同のカキコもあれば真っ向否定のカキコもありました。

 昨年宮本流F3をスタジアムで見た数はおよそ20。たぶん、日本中探したってこれだけ見た観客は100人ぐらいしかいてないと思います(自慢)だから私にはこだわりがあります。松田の代表戦だってメキシコ戦、中国戦、NZ戦、韓国戦と見に出掛けたので、あれを書いた韓国戦直後には1/2は生観戦してるわけです。ちゃんと見た上で自分の考えを持ち出したつもりです。(だから正しいとは絶対言いませんけどね)
 
付録:F3のパーツ練習の繰り返しやトルシエの分習法については専門誌やネット上で読まれた方も多いことでしょう。私はチラリと報道で見ただけだから断定はできませんが、上で述べた”型”の修得だと思います。だから、言われたことをそのまま真似るだけじゃだめ。その中から本質を掴まないとだめ。試合でどう活かすのか、何故今この練習をしているのか?常に自分で考えながら取り組まないとダメなのではと思います。サッカーオタクの宮本は多分○。コメントから察するに森岡も○。松田は・・・・・
 その一方でこう考えてます。F3では時にDFの古典的、本能的な動きと乖離する挙措動作が必要で、その日常本能的な動きを矯正するための基本練習ではないかと。ちなみに付録の上段と下段は矛盾しませんからね。

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