お前は走るな、歩け
「ただ有明の」トップに戻る
稲本のプレーに対する批判のひとつに「消えている時間帯が多い」というのがある。疲れた稲本が本当に消えている時間帯がないわけではないが、稲本が歩いてスペースを消しているところまで「消えている時間帯」だと考えられていることには異議がある。

たとえボールホルダーよりもゴールに遠い位置にいても、別の敵の走り込みやバックパスというプレーの選択肢を減らす為に、消すべきスペースがあるのだ。また、敵の背後からボールホルダーを追い回すプレーは、そんなにボール奪取やボールホルダーのプレーの制限には貢献できるわけではない。だからボールを奪取されても、一番ボールホルダーに近い稲本が背後から追いかけるよりも、ボールホルダーにより正対する味方に対応を任せて稲本自身は次に使われるであろう危険なスペースを消したほうが良いことも多いのだ。スペースを消すという行為は必ずしも不断に走り回っている必要はない。できるだけ体力を消耗しないように、究極的には歩くことによってスペースを消せるのであれば、歩くことはベストの選択だ。

けれど悲しいかな、ボールを取られたのなら責任を持って、取られた選手が敵を追い回すことが賞賛されるのだ。かって吉原が五輪一次予選で最終ライン近くまで敵を追いかけ回したことがあったが、スタジアムがそのプレーに大歓声だったことを憶えている。しかし私には潔いプレーとも責任感の溢れるプレーとも思えなかった。むしろ、FWという持ち場を放棄したプレーと考える。

稲本に限らず小野も、自分が失ったボールを取り戻しにいかないと責められることがあるが、そういうプレーにこそむしろ私は、彼らのサッカー選手としての精神的な強さと戦術眼を頼もしくうかがい見ることがある。

サッカーはひとりでできるものではない。そして、90分走り続けるなどおよそ不可能なことも小野や稲本はよく分かっているのだろう。ボールや走る敵を追いかけそうになる獣の本能に対する自制が小野や稲本には備わっているのである。

運動量が少ないと小野を非難する人や稲本は消えている時間帯が多いと非難する人は、認めにくいことだろうが、90分走り続けることは不可能だという達観があってこそ鍛えられる戦術眼や技術、精神力があるのだ。「歩いている」は「さぼっている」と同義語ではない。

だから私は稲本や小野が歩いてる姿を、それだけでは咎めたりはしない。歩くプレーの質こそが問題なのだ。一年以上前のことだがクレバー・リベロ氏はJ-NETのガンバの掲示板で稲本についてこのように述べられた『…ガンバではワン・ボランチとして、縦横無尽にボールを奪い、相手MFを「潰す」一方で、攻撃を他のMFとFWに任せて中盤を歩くことがある。恐らく稲本にとって、余りにも激しく90分持続することが困難であるかフェアにヒットしなかったときのリスクの大きな前者のプレイと、余りにも「利いていない」後者のプレイとを――いわば「加重平均」的に――近づけて行くことが、今後の成熟の一つの道となるだろう。』そして昨夏に次のようなご意見を同氏から頂いた。『…ボランチが守備を意識するときに、攻撃と守備とで2ライン状態になるのが不満である(J-NETで「利いていない」と述べた)。稲本は攻撃を任せて横に歩くが、私は縦に歩いて貰いたいと思っている。そうすれば、全体に最終ラインを上げることができるはずであるし、相手の攻撃に対する――マクロ的な――ディレイが、もう少し高い位置でかかるだろう(稲本がボールを奪う必要はない)。』

わたしはアンカーとしての稲本が危険なスペースを埋めていることを評価しているので、稲本が歩くときに、常に縦に上がることが最善とは考えていない。しかし上がることが可能な限りは、歩いて上がるべきだとも考えを新たにした。いかに歩いて、省エネしながら決してさぼることなく有効にプレーし、一方で潰すべきときには一瞬で潰す。これが、プレミアリーグで活躍するために稲本に求められるプレーではなかろうか。

最後に余談であるが、それまで最年少Jリーガーとして鳴り物入りでデビューし、ステージ2位にもなったガンバ大阪でレギュラーとして大活躍していたはずの稲本を、98年の五輪代表アルゼンチン戦において、なぜか「発見」されたこと。Jリーグでも代表でも、件のアルゼンチン戦においてすら稲本は歩いているにもかかわらず、稲本がアーセナルに入ったことによって、彼がどの試合でも歩くことを今更ながらに「発見」されていること。この現象の発生は私たち日本人がいかに日本サッカーを知らないかを教えてくれるのだ。まして、海外のサッカーについて、とくとくと蘊蓄をたれることはなんと恥ずかしいことなのかとも思ってしまうのである。

ロゴ「トップページへ戻る」