オシムの代表は地味だった
速報、思いつきコーナーへ

 トルシエジャパンは華やかだった。ジーコジャパンはドラマチックだった。オシムジャパンは…地味だった。
07年6月1日。私にとって初めてのオシムジャパンスタジアム観戦での一口に言っての感想だ。

このチームでは日本の各選手のボールの受け方はほとんど同じだ。一度ボールを体幹に近い位置に呼び込んでボールを受けながら、ボールを受ける足と同じ側の半身を回転させて蹴りたい方向に向き、ボールを蹴りたい位置に置く。ワンタッチで蹴りたい位置にボールを置き、ツータッチ目かスリータッチ目でボールを蹴り出す。足を体から離れた位置に出してのトラップはほとんど見られない。静岡県のチームでよく見られたぴょんと小さくジャンプしてボールの勢いを殺すトラップはましてみられない。これは、次にくる蹴るという動作に移行するまでにどうしてもロスが生じるためだと私は考えている。

これについては、次のコロンビア戦後の中村俊輔のコメントが言い得て妙だ。
インタビュアー「後半、臨むにあたって意識づけたことは?」
中村俊輔「ワンタッチ…いや、ツータッチ・スリータッチ以内で、なるべくスペースでもらうように心がけていました。」
スリータッチ以内という制限が設けられているのであれば、ファーストタッチで蹴りたい場所にボールをトラップし、ツータッチ目には蹴りたい方向を向きキック動作に入っていなければならない。そしてやり直しはワンタッチのみである。

この、ワンタッチをスリータッチ以内と言い直している発言は非常に意味深だ。制限がスリータッチとすることを少ないボールタッチと考えるサッカー。決してワンタッチパスを希求しないサッカーこそがこのチームのサッカーであり、それは、ガンバ大阪のサッカーに通底している。代表とガンバの心臓が共に「ための遠藤」であることはその証左であろう。遠藤のパスはワンタッチパスであることはほとんどない。アウトサイドではたくパス、浮き球パス、ヒールパスはほとんど見られない。遠藤はボールを受ける前から周りを見て、ボールを保持しながらルックアップし続け、周囲を見渡してパスをだす。(遠藤を遠景で見ていると首から上が白いと感じる。常にルックアップしてブラインドでボールをさばいているのだ。)前線にパスのだしどころがないと見れば躊躇なく横パス、バックパスに切り替える。無理をする必要はない。もう一度後ろから組み立て直せばよい。(余談だがこういう遠藤のプレースタイルはジーコの日本代表監督時代の発言と見事に合致する。にもかかわらずポンポンとワンタッチでパスをはたく小野以上にW杯本番で遠藤がジーコに重用されなかったのはジーコの矛盾であり、豪州戦の敗因のひとつであろう。)ボールを受ける前に次のパスコースを予測するだけでなく、ボールを受けてからも周りの状況を見てパスを出している。遠藤の出すパスに、受け手が困惑するようなボールは少ないのではなかろうか。ほとんどのプレーが受け手・そして、スタジアムに通い詰める熱心な観客の予測の範囲の中で動く。あたかも、因数分解を解くよに解を導き出していくのである。

このようなサッカーは意表を突く天才的なワンタッチパスを個性とする選手を必要としないが、逆に言うと論理的にボールが回り、理詰めでパスがつながり、数学的な美しさを感じるゴールシーンが見ることができないと極めて退屈だ。パスがつながらず、「汚い」と感じるならば、実につまらないのである。このチームの楽しみ方は、予測とその結果の一致を楽しむことなのである。答が一致しない数学のテストはうんざりして当然であろう。

たとえば、私は、スタジアムで遠藤がへ蹴る前にノーマークの中澤がファーに向かってくるのを見て、遠藤が中澤を狙うだろうと予測し、中澤のゴールに美しさを感じたが、当日スタジアムにいた人の大方も中澤に来るぞと手に汗握ってみていたことであろう。

ロゴ「トップページへ戻る」