『階段』

しばらく距離を置こうと言った。
迷惑はかけたくないと彼は言った。
それなら始めから上手く立ち回ればいいのにと、らしくもない、
どうせ美人女教師に鼻の下でも伸ばしていたんでしょうと、
嫉妬じみた感情を抑えきれない自分に腹が立った。
彼は何も悪くないのに。
部活以外でろくに会えもせず、その部活でもテニスのこと以外は何も話せない。
当然肌に触れることもなくそんな日々がずっと続いていた。


『新任の数学教師。あの超ボンキュッボン』

誰かが品のない言い方をしていたのは、
今年の四月の終わり。
もしかしたら赤也だったかもしれない。
三年では一クラスしか教えていないその教師が、
その唯一のクラスで数学の首席だった仁王雅治、その彼を、
『ネラッてる』
そんな噂が流れたのは、五月の半ば頃。

二十代前半の、ハイヒールの似合う女教師と、
大人ぶっているとはいえまだ中学生。
本気にするのは一部の女子生徒ぐらいだと思っていた。
事実は小説よりも奇なり。
誘い出されたのは数学科教科準備室。
はめられたのだ、と彼は言った。
持ち込み禁止の携帯電話を見つかって、
番号とメールアドレスを控えられて、
『テニス部に迷惑かけたくないでしょ?』
ざまはない。
しつこく付きまとわれる結果になった。

これ以上、あんな女に弱みなど掴ませてなるものか。
『詐欺師の本領発揮じゃ。見とれ』
本気になった彼に怖いものなど何もない。
教師も女も、どんな武器でさえ彼の前では意味がなくなる。
けりが付くのは時間の問題。そうだろう。
長くはかからない。解っている。


だから、それまで。ほんの少し。

距離を置こう。

会わないようにしよう。

恋人断ち週間、早くも十日目。


そろそろ限界だ。
手をつながなくなって十日。
電話をしなくなって十日。
キスもできなくなって、
泊まりにも行けなくなって、
『好きだ』と言われなくなって十日。


「好きです」と言えなくなって十日。


友達の振りをして十日。
部活以外で、初めて学校内で顔を合わせた。
科学の実習で理科室へ向かうその途中。
彼は、あの女教師に呼ばれた帰りだったのだろうか。
階段の上に立っていた。

彼の方が先に気付いた。
友達の振りを心がけて、視線を外して階段を上がる。
一段、二段、階段を上がる。
一段、二段、彼が降りてくる。
距離が縮まる。なぜか呼吸が上手に出来なくなった。
落ち着けと何度も自分に言い聞かせる。
友達だったら、すれ違うだけでこんなに鼓動が大きくはならない。
何でもない顔をして通り過ぎなければならない。
距離を置こう、と彼がそう言ったのだから。

平然と通り過ぎた。
その瞬間、彼の方が振り向いて、
かすかに触れた腕を、引き寄せた。
驚いているヒマはなかった。
教科書が落ちた。ノートも落ちた。
階段に散らばる、それらを見送りながら、
体は手すりに押しつけられ、彼のキスをその唇に感じていた。

「――ッ…!」
ガリ、と歯のぶつかる音がして、
それから上唇に、鉄の味の血が流れた。
痛みは何故か感じなかった。

彼は噛み付いた歯を離すと同時に、
顔を背けて、階段を駆け下りていった。
立ち止まった瞬間を取り戻すように。振り返りもせずに。

呆気にとられて、体中の力が抜けた。
ずるずるとしゃがみ込んで、散らばったノート類を
拾うことも忘れて、唇に触れて、赤い血を見た。


きっと今の自分はそれぐらい真っ赤な顔をしているに違いない。


「………ずるいです。仁王くん」

口から出任せ。
何が距離を置こうだ。
自分から言い出しておいて。
こっちはこんなにも耐えていたというのに。
これだから詐欺師は困る。

人の立場を考えたことがあるのだろうか。
こんな顔をして、どうやって授業に出ろと言うのだ。


始業のチャイムが鳴っても、しばらく階段に座り込むしか出来ない。

fin.

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