「城崎にて」の表現

“フェータル”の心理

「自分」が電車にはねられた直後にそばにいた友に聞いた「フェータルなものかどうか。・・」
“フェータル”と言う非日常的な、なじみの薄い英語を、しかもこんな切迫した状況で用いたのはなぜだろうか?

 「致命的」という日本語

「フェータル」という英語

 
  現実的

  主情的
  与える印象の強さ

    ↓

恐ろしさ


   客観的(自分との距離がある)
  日常的ではない

       
      ↓
  
他人事のように扱う事で
 冷静さを保つ

つまり、フェータルという英語を用いたのは、死を現実の自分に起きる出来事として捉えるのを無意識のうちに避けようとする心理の表れであろう。死というものと自己とを言葉の上で切り離すことで心理的な安定を図ろうとしたのではないか。心の危機を乗り切る方法は人それぞれだろうが、このときの「自分」の心理はよくわかる。


   
“ヒラヒラヒラヒラ”

風もないのに動く一枚の桑の葉。その“ヒラヒラヒラヒラ”というリズムには「寂しさ」がある。“ヒラ”が4回というのがいいリズムを作っている。“ヒラヒラ”と2回なら、寂しさはない。むしろ軽やかで明るい感じ。“ヒラヒラヒラ”と3回なら、中途半端で、寂しさよりもむしろ不安定さや不安が強調されるように思う。“ヒラヒラ ヒラヒラ”と完結した感じが他と切り離された孤独感をかもし出しているのではないか。

では、「何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った。」というのはどういうことであろうか?この桑の葉は偶然、葉のつく向きが他の葉と違うために他の葉の感じない風を受けてヒラヒラヒラヒラと動く。「自分」は偶然の事故によって「死」を身近に感じるようになり、死に対する親しみと寂しさを抱く。これは他の人には持つことができず、また理解しがたい感覚だろう。「偶然」「寂しさ」というのがキーワードだ。この段落の中で「いもり」と「桑の葉」のエピソードがここでつながる。





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