「舞姫」森鴎外

◎豊太郎は馬車で行く?(クロステル巷の古寺に至りぬ)
 植木哲氏の新説「鴎外の恋人エリス」(新潮選書)。法学者であり鴎外ファンである著者が、ベルリンに住んだ経験をフルに生かして登記簿等からエリスのモデルを探求した本。実証的な記述から学ぶところも多い。当時のヴィクトリア座のプログラムや出演者なども調べてあり、すごいものだと感心する。しかし鴎外への思い入れの強さのせいか、、鴎外と豊太郎を混同して???という部分もある様に思う。
 例えば「余は獣苑を漫歩して、ウンテルーデンーリンデンを過ぎ、我がモンビシュウ街の僑居に帰らんと、クロステル巷の古寺の前に来ぬ。」という部分。植木氏は当時のベルリンの地図から、「一介の旅行者の場合には、周りを見渡しながら徒歩で行くことも考えられるが、ベルリンで生活する人にとってはこの距離は遠すぎる。しかも途中は工事現場であり、迂回しなければならない。このため交通機関を利用することになろう。」と言う。そして「主人公は乗合馬車で・・・市役所前で下車し、歩いて『クロステル巷の古寺』に出たことになる。」と推定する。
 確かに徒歩では1時間ぐらいはかかりそうな距離は長いかも知れない。また、なぜモンビシュウ街への最短距離をとらずに回り道をしたのかという疑問もあるかも知れない。しかし
1,「余は獣苑を漫歩して」・・・時間に追われるのではなく、暇だった。

2,「かの灯火の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷に入り」・・・多くの灯火に照らされた大通り。それがちょっと脇へ入ると一転して古く貧しい裏町だった。このコントラストがエリスとの出会いという非日常の事件を起こさせる一因であるとすれば、豊太郎はたっぷりと明るく照らされた大通りの雑踏の中を歩き、しかもその中で一抹のよるべなさを感じていたのではないか?海を漂うもののように。
3,「この三百年前の遺跡を望むごとに、心の恍惚としてしばしたたずみしこと幾度なるをしらず。」・・・この教会はお気に入りの場所。ここを見るために今までもよく回り道をした。
と考えると、植木氏の推測はあまりにも散文的すぎるな〜。

◎豊太郎の人生相談
 豊太郎が天方伯からの帰国の誘いを受けた直後の場面の後下の相談に答えさせる。その際、豊太郎や明治の青年にとって「立身出世」がどのような意味を持っていたかを時代背景を踏まえながら考えるように指示する。「この手にしもすがらずば本国をも失い名誉を引き返さん道をも断ち、身はこの広漠たる欧州大都のの人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起これり。」という文をしっかり押さえて、単に功利的な観点からだけでは捉えられないのではないかということを強調しておく。
 生徒からの回答はいいのがあれば後日UPします。
  人生相談     (大田豊太郎 男性 ベルリン在住
 私はたった今ひどい事をしてしまいました。愛する恋人を裏切ってしまったのです。
私は幼時から立身出世して家名をあげる事を目標に勉学してきました。順調にエリートコースを歩み、望みが叶い官費留学生としてベルリンに来ました。3年が経った頃、自我に目覚めた私は官長とうまくいかなくなりました。丁度その頃踊り子のエリスと知り合い交際を始めたのですが、それを口実に私は免官になってしまいました。私は名誉回復を期してベルリンに残り、彼女と暮らしています。今エリスのお腹には私の子供がいます。
 しばらく前、天方大臣に仕える友人の相沢がベルリンに来て大臣に紹介してくれました。私は大臣の通訳として働き信用されるようになりました。その大臣からつい先程一緒に帰国しようと誘われたのです。私が以前相沢に「エリスと別れる。」と約束したことを聞いて復職のチャンスをくれようとしているのです。私のエリスへの愛は浅くはありません。しかし大臣に誘われた時「この手にすがらなければ自分は日本という国も名誉回復のチャンスも失い、この広漠とした欧州で一生埋もれてしまう。」という気持ちが湧き起こり、たまらなくなって承諾をしてしまいました。何も知らないエリスは「あなたが日本に帰るときは自分も一緒に行く。」言っていましたが、彼女を取るか栄達を取るか、この二つは両立しません。
 今、心の中は「自分は許されない罪人だ。」という思いで一杯です。帰ってエリスに何と言っていいかもわかりません。私の選択は間違っていたのでしょうか?これから私はどうしたらいいのでしょうか?

豊太郎さんへのお返事  回答者 3年( )組( )番(     )

◎ベルリンマラソン・テレビ観戦の勧め(「舞姫」の舞台が見られる)
 日頃マラソンなんかに関心のない私がたまたまTVをつけるとベルリンマラソンのスタート直後。ティアルガルテン(獣苑)→凱旋塔→ウンテルデンリンデン→ブランデンブルグ門・・・と、これはまるで豊太郎の散歩コースだわ〜と、食い入るように見てしまった。フンボルト大学(ベルリン大学)や王宮、大聖堂もしっかり映っていたし、もしかしてマリエン教会もと期待したが、残念ながらこれは映らなかった。
 ベルリンマラソンは9月、ちょうど「舞姫」の授業が始まった頃に開催されます。2001年は高橋尚子参加のためテレビ中継がありましたが、今後はどうなるのでしょうか?「舞姫」を勉強中の生徒には、オススメです。
 思うに「舞姫」は素晴らしい“ベルリンガイド”ですね。当時の読者は自分では行くことのかなわぬ新興都市ベルリンの様子を、「舞姫」を読みながらうっとりと思い描いていたのでしょう。

◎「秋の舞姫」(「坊っちゃんの時代第二部」関川夏夫、谷口ジロー:双葉社) について???
 恥ずかしながら鴎外についてはあまり知らないので、エリーゼ(エリスのモデル)が来日した時、長谷川二葉亭が面倒を見たことやエリーゼが侠客達と関わったことなどに驚いています。この漫画に書かれていることは本当かなあ?というのは素朴な疑問。不勉強を棚に上げて気が引けますが、これって事実なんでしょうか?

◎当時の舞姫(バレリーナ)の地位、作家とバレエ 
エリスの踊りは?
 個人的な興味から、エリスがどんな踊り子だったのか考えてみた。特に新しい事とかはないのだけれど・・
 「舞姫」の「十五の時に舞の師の募りに応じて・・今は場中第二の地位を占めたり。」「年は十六七なるべし。」という部分から、エリスも「バレエ」というよりも「ショーダンス」のような踊りを踊っていたのだろうと推測される。わずか1〜2年で爪先で軽々と踊れるようになるほどバレエは甘くないぞ、と思う。彼女は踊りよりも「すぐれて美」なる容姿でファンを獲得し、場中第二の地位に上り詰めたのでしょう。そう言えばエリスの部屋にも「ここにはふさわしからぬ値高き花」が飾られている。(尚学図書の指導書では、これが「エリスの父への心遣い」と説明されているが、エリスの部屋に飾ってあるわけだから、そんなはずはないと思う。)
 バレエと言えば爪先立ちで踊るというのが大きな特徴だが、初めて爪先立ち(ポアント)で踊られたのは1815〜1820年位らしい。1832年に初演された『ラ・シルフィード』は本格バレエ作品第1号であり、女性が白いチュチュを身につけ、爪先立ちで踊るほか、ケーブルで空を飛んだりガス灯の照明が使われたりしたそうだ。有名な『ジゼル』は1841年に初演されている。
 しかし、19世紀も半ばになるとバレエも急速に廃れていく。産業革命の進行と共に観客が新興ブルジョアジー層になり演目のマンネリ化もあって、踊り子というと特殊な階層の女性ということになっていった。女性が脚を見せるなんてもってのほかという時代に、「紳士」達が堂々と女性を「鑑賞」し「上客」は舞台裏で踊り子と「交渉」するという「裏」の世界が劇場であった。ちょうど鴎外がドイツに留学していたのはこの時代である。「舞姫」に「・・はかなきは舞姫の身の上なり。・・・さればかれらの仲間にて、賤しきかぎりなる業に堕ちぬはまれなりとぞいふなる。」とあるように、19世紀後半のバレリーナの状況は悲惨なものだったようである。
バレエと漱石、藤村、芥川
 バレエが芸術として復権するのは、19世紀末にロシアで確立された「クラシックバレエ」がヨーロッパに逆輸入?されてからである。ロシアではチャイコフスキーらもバレエ音楽を積極的に担当している。
それがどうした、と言われそうだが、作家達の見たバレエについて若干挙げてみよう。
 漱石がロンドンに留学していた1900~1901年頃には既に「眠れる森の美女」や「白鳥の湖」はヨーロッパで盛んに公演されていた。漱石はバレエ公演を見てたいそう驚いたようだ。1901/1/22の鏡子夫人への手紙に次のように書いている。
"芝居には三、四度参り候。いづれも場内を赤きビロードにて敷きつめ見事なることたまげるばかりに候。道具衣装の美なる事また人目を驚かし候。中にも寄席芝居のようなものは、五、六十人の女翩々たる舞衣をつけて入り乱れて躍り候様皆にも見せたきほど美しく候。その中この女がフワフワと宙に飛び上がり(ハリガネの仕掛けにて)てその女の頭胸手などに電気灯がつき、それに軽羅と宝石が映ずるといふ訳だから想像しても美しいと思ふだらう。"
 また、漱石は「眠れる森の美女」も見ている。1901/3/7の日記によると、
"夜田中氏とDrury Lane Theaterに至る。Sleeping Beautyを見んためなり。これはantomimeにて去年のクリスマス頃より興行し頗る有名の者なり。その仕掛けの大、装飾の美、舞台道具の変幻極まりなくして往来に遑なき役者の数多くして服装の美なる、実に筆舌に尽くし難し。真に天上の有様、極楽の模様、もしくは画ける竜宮を十倍ばかり立派にしたるが如し。"とある。しかもこの事を早速鏡子夫人に手紙で書いている。ゴージャスな西欧の芸術にたまげている漱石の顔を思い浮かべてにんまりしてしまいました。
 藤村の鑑賞はもっと本格的である。何といってもかの小山内薫と一緒に、あの、歴史に残るニジンスキーの「牧神の午後」を見たのだから。尤も藤村はニジンスキーよりも「サロメの悲劇」を踊ったカルサヴィナの方を気に入ったらしい。朝日新聞への通信には次のようにある。
 "一幕済む毎に私はその蒸し暑い桟敷を出て小山内君と一緒に廊下を歩きながら、バクストの意匠に成った舞台面やフォキンの調整(振り付け)した露西亜の舞踏劇の新味を語り合いました。パンの神に扮したニジンスキイが腰から明日を彩りまして、人間の身体でいながらそれで獣の形を失わずに、昼寝の夢から覚めたときの静かな詩のような戯れを見せましたが、その時なぞは万所の見物は熱狂したように「ブラボオ、ブラボオ」の声と熱心な拍手とで一度退場した男女の俳優を幾度となく舞台に呼び返しました。"その夜二人は遅くまで藤村の部屋で語り合ったそうだ。
 芥川は1922年に来日したアンナ・パブロワの舞台を見て非常な感銘を受けたそうだが、これはまだ全集を見ていず、又聞きである。(「バレエの魔力」鈴木晶(講談社現代新書)そのうちチェックしてみよう。            
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