「沈黙」 遠藤周作
◎初発の感想に見る問題点
 ほぼ全員が「苦しんでいる人を救うために棄教するのは当然だ。ロドリゴは穴吊りにかけられた信徒のうめきを聞いて辛かっただろうに、もっと早く転ぶべきだった。でも最後に彼らを救うことが出来てよかった。」と書いた。
★生徒の感想を読んでいく内に、これはちょっとまずいという思いが強まっていった。「ロドリゴさんは優しい人でよかったね。メデタシメデタシ。」という理解しか出来ていないのではないか?ロドリゴの葛藤や痛みを感じ取っていないのではないか?と思った。
 こういう感想が多くある背景として次の3点が挙げられるだろう。
1)生徒の多くは「神」「宗教」に対する意識が希薄である。教科書収録部分だけでは、どうしても「神、信仰」という主題が際だってしまう。これでは今の殆どの生徒達にとっては自分の問題とはなりにくいのではないか?だから、「棄教」の持つ重みや痛み、それを巡っての葛藤を生徒達が理解できないのは当然であるのかもしれない。
 例えばキチジローのことをもっと取りあげていたとする。(教科書収録部分の直前に、キチジローが裏切りの許しを請いにロドリゴの牢屋を訪れる部分がある。)そうすれば「人間の弱さについて。またそれは許されるのか。」といったテーマに重点を置けたのにと残念である。
2)今の風潮として「やさしさ」「思いやり」は、何よりも優先される”よいこと”とされているのではないか。水戸黄門の印籠のように、その言葉の前には全ての価値観が有無を言わさず相対化される。生徒達は公式のように、苦しむ人を救う=優しさ=素晴らしい行為と受け止めるのだろう。
しかし、これでは「やさしさ」がその実行には非常な痛みを伴う場合があることも理解されず、現実に生きていく上での力として身に付かないのではないか?
3)「命が何よりも大切であり、生命や身の安全を守ることが優先されるのは当然だ。」という意見があった。勿論命を守ることは大切である。しかし自分の身の安全を守ることが人の命を奪うことに繋がりかねない事は多くある。例えば「いじめ」は生徒に身近な例だ。また、教師である自分自身も戦時中のような状況に置かれれば,軍国主義教育に加担せずにいられたか自信はない。以前の言動をころっとひっくり返して自らを守ることに汲々とするかも知れない。こういう弱さ、危うさを我々は皆抱えているという認識が大事であり、その地点に立って初めてスタートできるのかも知れない。
★以上を踏まえて、この作品を生徒達が他人事としてでなく読んでいくためにはどうすればいいか?と考えてみた。
 「信仰」を「信念」と置き換えることは、この作品を読む上で邪道であるかも知れない。が、その置き換えによって、ロドリゴが突きつけられた選択と似た問題が生徒達にも起こりうることを実感させられるのではないか。究極の選択を突きつけられて葛藤したことと、自らの信仰を変質させることによってしかそれを乗り越えられなかったことを理解させることを目標とした。

◎ポイントとなる発問
1、P25L13「この怖ろしい疑問」とは何か?なぜそれは「怖ろしい」のか?
  ロドリゴの心の中に、神の沈黙に対する疑問が広がり、それは突き詰めると“神の不在”への疑いと繋がりかねない致命的な問いであることを理解させる。
 それに関連して、L9「あなたが厳としている」という言葉の意味も確認させておく。
2、フェレイラの言葉を踏まえた上で、「殉教」「棄教」のどちらを支持するか?それはなぜか?
★最初は棄教支持の意見ばかりが出たが、「では、棄教することのマイナス面はないか?挙げてみよう。」という発問によって、活発に意見交換が出来た。
 棄教のマイナス面として生徒の挙げた点。
 ○苦しむ人を見るのが辛いという感情に流された弱さからでた情緒的なものである。
 ○目の前を信徒は救えるが他の大勢の信徒の心の支えを奪う裏切り行為であり、司祭(指導者)としてはとってはならない態度だ。
 ○信仰(信念)を捨てることは自分自身への裏切り行為である。
 ○吊られている信徒達は既に転んだ裏切り者なので、そういう裏切り者(弱者)を救おうとするのは愚かだ。
★こういうマイナス面があることを踏まえた上で、生徒達は殉教か棄教かを考えたようだ。結果的には結論は同じであったとしても、「にもかかわらず、自分は信徒の苦しみを救う行為を支持する。」と考えることは、初発の時とは違ったより深い納得であると思われる。また、「優しさの実行は痛みを伴い、死よりも辛いことがある。」ということを生徒は感じてくれたのではないか?

◎踏み絵について(信念は言われねばならない)
 
加藤典洋『日本の無思想』(平凡社新書)
「踏み絵を提案したのは元キリシタンの転向者だったと推測する。信仰を曲げ踏み絵を踏んでも内面の信仰を保ちその後信仰に邁進すればいいと多くの日本人は考えるのではないか。むざむざ異教徒の迫害者に摘発され殺害されるだけだと分かっていても、それを問われれば口に出し態度に示すのが信仰だというキリシタンの考え方は多くの日本人には想像もつかなかっただろう。愚直にちょっと嘘をつけばいいのに次々この方法で摘発できた時には幕府の役人は驚いただろう。しかし、宗教、信念、思想というものはそういうものであり、人間の”内”と”外”に風穴を開けることなのだ。」(p103〜104要旨byりっか)
 「沈黙」の通辞はロドリゴに「ほんの形だけのことだ。形などどうでもいいことではないか。」と言う。これはまさに加藤の上記の指摘と通ずるものである。
★この指摘は私には非常に耳が痛い。今までの自分は”内”に閉じこもっていた。それによって自分の本心は信念といえるほどの強さや客観性を持たないただの自己満足となっていたと思う。ずるくて、実りの少ない生き方だと思うようになった。そこで心の中に漠然とある想いにカタチを与え”外=この公共の広場”で発信していこうと思うのである。
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