尾崎豊と、ワッツラヴ?
中編
芥川 健
尾崎豊が死んだ。1992年の春先のことだった。特に驚かなかった。ただ、とても空虚な気持ちになった。しばらくは尾崎の遺作、「放熱への証し」が鳴っていた。遺書みたいなアルバムだった。
夏が過ぎて、秋になった。その時つきあっていた女が、俺の友達と失踪した。そのふたりも、尾崎が好きだった。俺は恋人と友達とを、同時に失った。喪失感だけが残った。夏はもう戻らない。そう思った。まあ今考えてみると、それは大間違いだったわけだけど、若かった俺にはなにもかも終わったように感じられた。
いつまでも尾崎ばかり聞いてちゃいかん。そう思った俺は尾崎の音源をぜんぶ捨てた。とてもさっぱりとした。それからひと冬かけてレンタルショップに通いつめ、CDを借りてはカセットテープに落としていった。
ビートルズ、ドアーズ、レッドツェッペリン、レイ・チャールズ、ナットキン・コール。スティービー・ワンダー。ジャクソン・ファイブ。ボブ・ディラン。サイモンとガーファンクル。ビリー・ジョエル。エリック・クラプトン。坂本龍一。オルゴールで聴く子守唄。なんじゃこりゃ。
新しい音楽は聴く気になれなかった。古い音楽は心を落ち着けてくれた。もっと心をしんとさせたい時は、ベートーベンのピアノソナタを聴いた。それらの音楽は俺のなかでふるいにかけられた。最後に残ったものが、つぎのテーマソングになるはずだった。なにもそんなことしないでいろんな音楽を聴けばいいだろうに。人はそう思うかもしれない。しかし、辛い人生をなんとか生きぬくためにはテーマ・ソングが必要だ。そしてテーマ・ソングはひとつで十分だ。俺はかたくなにそう考えていた。これは性癖なのだからしょうがない。ちなみにこの困った性癖は、今も直っていない。
長い冬がやっと終わるころ、テーマソングは決まった。最終的に、ザ・ドアーズが勝ち残った。ビートルズじゃないところが俺らしくて非常によろしい。
それからのたまらなく退屈で暗くて長いトンネルのような数年間、いつも俺のなかではドアーズの「ジ・エンド」が流れていた。まるで呪いのように。
暗いな。暗い。俺は暗い高校生から、もっともっと暗い若者に成長していた。正常進化、と言ってよい。その当時の俺は、めまいがするようなめまぐるしいラテン・ビートや、身体が勝手にたてに動きだすスカのリズムとまだ出会っていなかった。ドアーズに飽きた時は、ケイト・ブッシュの新しいアルバムを聴いた。身体から熱が奪われるような寂寥を感じた。もう一度言う。俺はまだラテン・ビートともスカのリズムとも出会っていなかった。
俺はその頃ある女と同棲していた。恋愛感情なんてたいしてなかったけれど、結局三年間同じアパートに一緒に暮らした。彼女は俺に負けないぐらい暗い性格で、俺とおなじぐらい過去の出来事にとらわれていて、マイナーなダウナー系の話題に流れやすくて、変なことでくすくす笑って、面白いことはなにひとつ言えなかったけれど、大変にセクシーな身体を持っていた。まあぶっちゃけた話し、人生において取り返しがつかないほどの傷を受けたと勘違いしている若い二人が、傷をなめあうためにおなじ部屋にこもっていただけなのだが、そんな暮らしにドアーズはよくあっていた。ドアーズを聴きながら酒を飲んでいる時、彼女はよく「狂ってるよ。狂ってる」とつぶやいていた。狂っているのはジム・モリソンの書いた詩なのか、無音でつけっぱなしにしているテレビの画面なのか、世間のオジサンオバサンのことなのか、あるいは俺のことなのか、それとも自分のことなのか、俺にはわからなかった。
人生に「もし」はない。ないのはわかってるしないのはないのだから、こんなことを言う必要はもちろんないのだけれど、やっぱり、もし、あの頃の俺がラテン・ビートをすでに知っていたら。もし、スカのリズムを知っていたら。俺と彼女の生活はまったく違ったものになっていたのではないか。俺は時々、そう思う。なにしろ俺はラテン・ビートに出会ってようやく世界を肯定できたのだ。自分が生きているという事実を許すことができたのだ。彼女は、ラテン・ビートと出会って以後の俺を、知らないままだ。
だいたいにおいて、俺はおおげさな人間だ。俺はたかが音楽ひとつで、性格、考え方、行動、しゃべりかた、酒の飲みかた、女の子の見かた、セックスのしかた等々が変わってしまう。つまり人生そのものが変わってしまう。俺はたしかにおおげさなオチャメ野郎かもしれないが、ある種の音楽には、人生そのものを変えてしまう力が確かにあると、俺は思う。昨日まで不幸だった人間を、明日の朝には幸せな人間に変えてしまうことだってある。そう俺は思う。そしてそうでなければ、それは音楽ではないと俺は信じる。疲れた時に好きな音楽を聴いてふっと身体のこわばりが抜ける。物憂い気持ちの時に速く激しいビートに身体をさらして意識を目覚めさせる。楽しい気分には逆立ちしたってなれそうもない時、メチャクチャにうまい演奏を聴いて気づいたらすげえすげえと思いきり感動している。これは、音楽の力だ。そして、音楽との新しい激しい出会いがあれば、人生は変わる。
大昔、俺達の祖先はアフリカで生まれた、らしい。いや俺も詳しくないんだけど。まあとりあえずアフリカで生まれた、と。で、東へ東へと大移動を開始した人達がいたらしい。旅の途中で北に分かれていってヨーロッパ人になったり、南に下ってインド人になったり、いろいろ環境にあわせて肌の色や顔つきなんかを変えながらあちこちに定住していった人達も大勢いたけれど、それでも旅をやめなかった人達がいたらしい。何世代もかけて旅は続いて、極東の島国に落ち着いたのがモンゴロイドに変化した俺達の祖先で、いわゆる縄文人とゆう人達。このわれらが縄文人、定住せずにさらに旅を続け、なんとアメリカ大陸に渡って南アメリカの先っぽまで行ってしまったのだそうだ(「GO」という小説からのパクリ)。
本でこの話しを読んだ時、俺は思った。この話しがもし本当なら、俺達、全員アフリカ人じゃん。いや俺の言い方が極端だって言うなら、俺達、全員、もとアフリカ人じゃん。じゃあなに? エデンの園って、アフリカのこと? もしかするとラスタファリズムってめちゃくちゃリアル? 俺達の、ひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひい・・・・・・・じいちゃんやばあちゃんは、もしかして、太鼓のリズムでたてのりで踊ってたの? いや、踊っていたのだ。たぶん。アフリカン・ビートに乗ってノリノリのモンキー・ダンスを踊っていたのだ。たぶん。
話しがそれた。なかなかワッツラブ?とデタミネィションズに辿りつかない。アフリカン・ビートの話しはまた後で話したい。そのまえに、ラテン・ビートの話しだ。
ラテン・ビートとの出会い。これが俺の人生を劇的に変えた。
今のかみさんと暮らし始めて、だんだんドアーズを聴かなくなっていった。彼女とはちゃんと楽しく生きてゆこうと思っていたので、深く精神の闇の中へ沈んでゆくようなドアーズの曲がマッチしなくなっていったのだ。そう、俺は孤独ではなくなってきたのだ。そんなわけで、彼女が持っているCDのなかで抵抗なく聴けるものをBGMとして聴いた。そのなかではシャーデーが一番よかった。でも俺は音楽を聴かなくなっていった。いや、嘘。正確には俺は自分から音楽を聴かなくなっていったのだ。なぜなら俺は仕事中、いやというほど音楽を聴かされていたのだ。レゲエを、げっぷがでるほど。俺はその当時、すでにこの店にいた。仕事が終わって家に帰ったら、音楽なしで俺はリラックスした。
レゲエは、好きでも嫌いでもなかった。でも、毎日毎日何年も聴かされたおかげで、知らないうちに音楽を聴く耳が鍛えられていたらしい。よい音楽とクソ音楽の境界線が自分なりにわかるようになった(と、本人は思っている)。おそらく音楽の基準とでもいうものが自分のなかにできたのだろう(専門知識はないままなんだけど)。そんなわけで、マスターとマスターのレゲエコレクションには感謝している。
でも、俺には長い間テーマソングがなかった。ほんとうに、心から好きだと言える音楽がなかった。もう世界には、俺が好きになれる音楽はないのかもしれない。おおげさな俺は、おおげさに絶望していた。
そんなある日、俺のラジカセが壊れた。CDも、カセットテープも、ラジオさえも聴けなくなった。音楽が消えた。さすがにこれはまずいと思った俺は、急遽ミニコンポを買うことにした。ミニコンポを買った帰り、CDショップに寄ってあるアルバムを買った。音楽がふたたび鳴り始める記念になるようなアルバムだといいな、俺はそう思って丹念に選んだ。結果、そのアルバムは記念になるどころか俺の斜にかまえた音楽観を根底からくつがえす、いやひっくりかえすようなアルバムだった。
そのアルバムはブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クラブ。
あんまりベタで申しわけないが、それが俺と、ラテン・ビートとの出会いだった。
2003年1月18日