東屯田人と中ノ沢
芥川 健
俺、屯田人(北区の屯田人ではないよ)。より正確に言うなら、新参者の、東屯田人。こないだまでは、西屯田人。その前はなんと、中ノ沢人。にはなりきれんかったなあ。今回は、札幌の人間しかわからん話かもしれん。札幌市南区中ノ沢。あなた知ってますか? 札幌に住んでる人間でも知らない人がいるかもね、中ノ沢。
今年の十月、西屯田から東屯田に引っ越す時、俺はふと考えた。俺は今まで、何回引っ越したのか? そこで最近おぼろに霞み始めた脳の奥底にある古いファイルをひっぱりだしつつ指折り数えてみた。十六回だった。これは多いんだろうか。少ないんだろうか。特殊なケース、たとえば転勤が異常に多い職業についてしまったとか、引っ越すさきざきで幽霊がでるとか、あるいは引越しが趣味だとかをのぞけば多いんじゃないだろうか。みんなどれぐらい引っ越しているかわからないけれど、まあ極端に多くはないにせよ、少ないほうではないだろう。
子供の頃、父親の転勤で三回引っ越した。訓子府、浦幌、広尾、平取。そのせいか俺には故郷と呼べる場所がない。しいて言えば子供時代を一番長く過ごした広尾のちいさな漁師街、音調津(オシラベツ)が心の故郷だろうか。そしてなにより人生で一番長く暮らしたのはここ札幌だ。札幌生まれの人には申し訳ないが、俺はここを故郷だと思っている。
十五歳で北海道の僻地から札幌に単身出てきた俺が最初に住んだのは東区の光星地区だった。その後、北光線沿いに北十八条、北二十七条と移り、いよいよ暗いことしかなかった東区から出た。西区は山の手、旧五号線沿いで琴似のそばだった。そこでもつらいことしかなく次は初回結婚時新居である発寒。やはり大変なことしかなく破局を迎えて家をおんでて白石区へと進出、南郷十八丁目。そこでは甘酸っぱいことや地獄に突き落とされるようなことや今思い出してもせつなくなるようなことしかなく恵庭へと敗走する。ひと冬で再び札幌に復帰しついに心臓部である中央区へ殴りこみに成功、鴨々川のほとりに住む。休む間もなくとある女とともに円山へ西進、三年後同じ円山でも違う女の住む部屋に転がりこむのだがこの部屋が初のマンション、初の八階、ああ窓から手稲山に沈む夕陽が見えるではないか、ワンルームだったけど。ここでまさかの再婚、そしてなにを思ったか南を目指し山の端っこ中ノ沢。ああついに南区も制覇しちまったなあと感心していると子供が生まれた。中ノ沢ではいいことなどひとっつもなく夫婦の危機へと発展、山暮らしの反動ですすきののホストのベッド、西屯田通りへ。そこでピークに達した夫婦の危機を無事乗りきったところでやっと今住んでいる東屯田通りに辿りついた。ああ、俺も年食ったなあ。俺はここを根城にしようと思っている。こんなふうに思ったのは生まれて初めてだ。なにせ居心地がいいのだ。
札幌に出てきたころはとにかくイナカモンで、札幌市内の地域別町内民俗学にまで思いをいたすことは当然なかった。どころか、そういったものがあると気づいたのは不覚にもつい最近、中ノ沢から西屯田通りの古くてせっまーいアパートに越してからであった。この中ノ沢と西屯田という物凄く強烈な凄まじいギャップ、それがこの俺に民俗学的ななにかを気づかせてくれたのだった。
中ノ沢と西屯田。この水と油、ウサギとネズミ、マグロとサンマ、ウルトラマンとミラーマン、ローソンとスパー、浜崎あゆみと宇多田ヒカル、あ、これはちょっと違うか。まあとにかく月とすっぽんなみに違うふたつの街。西屯田に引っ越した俺は、突然目覚めたかのごとく気づいたのだった。このまったくタイプの異なるふたつの街に、共通のキーワードがあることを。そのキーワードとは、退廃、である。ただし、このふたつの街が持つそれぞれの退廃は、言葉は同じでもなりたちも意味合いもまったく異なる。中ノ沢では夜窓から見える無個性な住宅の並ぶ街並(正確には、街並とは呼べないものだ。それはただ人々が寝るために帰ってくる無機質な箱のならびにすぎない。極端に言えば家は立派だが機能としてはカプセルホテルと変わらないように見える)によく茫然としたものだ。おおげさに言えば、俺にはその風景が日本の、この国の将来の幻とだぶって見えたのだ。
中ノ沢。石山通から西に進路をとり山のほうへ登っていくとある。まずいくつかの新しい巨大なマンションが現れ、一軒だけのスーパーマーケットであるホクレンショップがある。ここが中ノ沢の底だ。この底を起点に西側に向かってゆるやかな坂に沿うように、住宅街がひろがる。それだけである。他にはなにもない。蕎麦屋が一軒、セイコーマートが一軒。ほかはなにもなし。その味気なさは痛快なほどだ。住宅は一部例外をのぞいてみな新しく、個性らしい個性はほとんど感じられず(これは中ノ沢に限った話ではなく、日本全体に言えることだが)、中流階層の貧しい夢を具現化した家という象徴的な概念が並んでいる、俺にはそう見える(そのわりに高価な買い物だが。ちなみに俺は中流ではない。下流、である)。ひとけも、ない。朝になるとみんな出ていってしまう。主婦が出かける時は車を使う。だから歩いていない。生活感が、ない。もっと言えば、生活がない。生活は個々の家の中だけに限定されて、それが漏れてくることはない。簡単に言ってしまえば、地域というものがない。そんなのあたりまえだ、と思っている都市生活者も多くいるとは思う。多かれ少なかれ、どこだろうと都市での生活はこのような要素を持っている。しかし、俺が言いたいのは、それをこんなに強く感じたのは中ノ沢が初めてで、なにより大切なのは俺が住んできたなかでは中ノ沢が一番新しい街だ、ということだ。ちょっと前まではそこは畑だけだったのだ。
日本人は、まともな街さえ作れなくなったのではないか。俺がしばしば茫然としたのは、そのような感慨を持ったからだった。中ノ沢という、出来たばかりの街に。これからいたるところで作られるであろう街のモデルに。今日も中ノ沢では、昼間ひとけがなく、ごみステーションは清潔で、そこに住む人々はよそにある生活の場へと車で移動しているのだろう。もちろん、それで幸せならなにも文句はない。新しい持ち家、真面目に働く夫、そこそこきれいな奥さん、元気でかわいい子供達。なにも文句はない。でも、俺はしんどかった。ここは街ではない、と思った。円山が懐かしかった。けっきょく、ひとりの知り合いも作らず、俺達は中ノ沢を出た。中ノ沢は、退廃した時代が産み落としたはじめから退廃した街だった。俺達にとってみれば。
対して西屯田通りが持つ退廃は、ただの普通の退廃で、都会の古い街ならどこでも抱えている、老朽化であり、機能不全であり、衰退である。それは悪いことではなかった。たとえるなら現在の西屯田には、老朽化した工場の跡地を若者達がライブハウスとして使っている、そんな健全さがある。もちろん若者達が持つ生(き)のままの不健全さは健全に持ち合わせながら。汚くて、不潔で、狭くて、ごみごみしてて(西屯田の枝道はほんとうに狭い。そこをトラックが平気で奇跡的に通りぬける。ごみが散らばってない日はなく、ゲロ、犬のうんこはいつでも見られる。人間のも混じっているかもしれぬ)、そんな西屯田に俺はほっとした。安心した。最初はごみステーションを見て唖然としたが。冷蔵庫、テレビ、洗濯機、オーディオ、パソコン、ベッド、たんす、なんでもある。いつでも燃やせるゴミ、燃やせないゴミ、資源物、あるいはそれらの混合物がうずたかく積まれている。まこと業者泣かせの地域だ。俺が気の毒に思うほどである。西屯田のごみステーションは、この街のアンモラルの象徴だ。興味があるかたは、一度見にいくことをおすすめする。
それでも西屯田は、俺達にとって健全な街だった。あっという間に順応した。むかいのアパートのおばちゃん、おばあちゃん、中国人の留学生と近所づきあいもできた。札幌に住んで、ここまで地域性を持ったのは俺にとってはじめてだった。俺達はすぐに、西屯田人になった。幾人かの友人もできた。ちなみにマスターは、丘珠育ちの西屯田人である。
今は東屯田人だが、基本的なテイストはおなじなままだ。西と違うことは、まだ東屯田のほうが古い街のわりには活きている、ということ。やくざは多いけれど、それも気をつければすむことだ。むしろやくざがいない街のほうが不健全だと、俺は思う。
2002年12月15日