玄象といふ琵琶鬼のために盗らるること

陰陽師収録 第一話のSpoilerっスから、良い子は読んじゃダメだよ。


 生まれたのは延喜二十一年の頃、醍醐天皇の世らしいが、この人物の生年没年は、この物語とは直接関係がない。

延喜21年はユリウス暦921年頃の事


 −−−これでは破れ寺ではないか。
 そういう表情が、博雅の顔に浮かぶ。


 源博雅朝臣が、安倍晴明の屋敷を訪ねたのは、水無月の初めであった。
 太陰暦の六月である。
 現代で言うなら、七月の十日をやや過ぎたくらいであろうか。

「おい。おれがいない間に、何かおもしろいことはあったか−−−」
 晴明が訊く。
「おもしろくはないかもしれないが、忠見が十日前に死んだ
「恋すてふの壬生忠見か−−−」
「ああ。痩せ衰えてな」
「やはり何も食わずに?」
「あれでは餓死も同じよ」
 博雅が答えた。
今年の三月−−−弥生だったか」
「うん」

壬生忠見の死から推察するにこれは天徳 4年 6月(ユリウス暦960年6月27日 〜 7月26日)になる。
しかし、太陰暦 6月初頭は太陽暦 6月27日 〜 7月3日に当たり、 七月の十日をやや過ぎたくらいの記述が不明である。 調べてみれば条件に合致する年もあるので単純に記述違いの可能性がある。


「さても、世には隠れたる秘曲があるもの−−−」
 博雅は思った。
 つい昨年の八月に、博雅は、琵琶の秘曲である、流泉、啄木を耳にしている。
 蝉丸という盲目の老法師が弾くのを聴いたのだ。
 三年もの間通い続けて、やっと聴くことができた曲である。

そして、三年目の、八月十五日の夜、月は朧にかすみ、そよそよと風の吹く晩のことだ。

蝉丸の元に通い始めたのは天暦 10年(ユリウス暦 956年)頃、 博雅が流泉、啄木を聴く事が出来たのは 天徳 3年8月15日(ユリウス暦 959年9月20日)の事である。


亡き式部卿宮が、ある時、名も何もわからぬ曲だがとおおせられてお弾きになった曲がございましたが、それがこのような曲であったかと思います」

問題はこの部分、実直に考えれば式部卿宮は 蝉丸が仕えたと云う敦実親王と考えられる。しかし、敦実親王の享年は康保 4年(ユリウス暦 967年)の事なので 前述の日付では矛盾が発生してしまう。
しかし、よく読めば、蝉丸は式部卿宮としか云っていない点に注目してみた。
式部卿宮とは、式部省の最高管理責任者、式部卿に親王が就任した際の役職名である。 此れが何を意味するかと云うと、つまり、敦実親王では無い可能性が或るのである。
この事から亡き式部卿宮とは存命の敦実親王ではなく、 敦実親王以前の式部卿宮職にあった親王の誰かの事と考えれば矛盾は発生しない。


ユリウス暦和暦記事
921-**-** 延喜21年 晴明誕生
957-**-** 天暦10年 博雅、蝉丸の元へ通うようになる
959-09-20 天徳3年8月15日 博雅、蝉丸の琵琶を聴く
960-04-28 天徳4年3月30日 清涼殿の歌合せ
960-06-** 天徳4年5月中旬 晴明、高野山に行く
960-06-** 天徳4年5月中旬 壬生忠見死亡。
960-06-2* 天徳4年5月終頃〜6月始め 玄象盗まれる。
960-06-2* 天徳4年5月終頃〜6月始め 博雅、羅城門へ行く
960-06-2* 天徳4年5月終頃〜6月始め 博雅、羅城門へ行く
960-06-2* 天徳4年6月始め 博雅、晴明の屋敷に行く。
晴明、博雅、蝉丸、羅城門へ行く。
960-06-2* 天徳4年6月始め 博雅、晴明、鹿島貴次、玉草、羅城門へ行く。
鹿島貴次、玉草、漢多太死亡。

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