海音寺潮五郎 私設情報局

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うなる!長刀・同田貫!!

陸軍報道班員として徴用される

生前、海音寺潮五郎さんと親交の深かった作家に井伏鱒二氏がいます。お二人は太平洋戦争当時、旧陸軍の報道班員として徴用され、東南アジア地域に派遣された、戦友とも言うべき間柄です。他にも何名かの作家が一緒に従軍していたそうですが、後年、井伏鱒二氏は
 「一緒に従軍した中で、最も態度が立派だったのは海音寺潮五郎だった」
というコメントを残しています。

なぜ現役の作家、しかも海音寺潮五郎さんのような直木賞を受賞したほどの一流作家が従軍するのか、今の私たちには理解しにくいですが、要するに現地(戦地)で見聞きしたことを記事に起こし、それを日本国内で発表するためらしいのです。
もちろん、そこには作家を徴用した軍の意向が大きく作用するわけで、記事として書かれる内容は軍にとって都合の良いことであり、日本国民の戦争に対する世論を好ましい方向に誘導する目的を持っているわけです。

戦時中、こうした軍や政府などに迎合する形で、好戦的な言論や記事を発表し、後になって批判されている作家は少なくありませんが、海音寺潮五郎さんは違います。従軍中は無為に徹し、軍の要求には一切こたえなかったそうです。 この事実をもって、井伏鱒二氏は「最も態度が立派だった」と評しているのです。

ぐずぐず言うものは、ぶった斬るぞ!

井伏鱒二氏はこの徴用時のこととして、海音寺潮五郎さんについての面白い逸話を残しています。これは文春文庫出版の『豪傑組―歴史小説傑作集〈3〉』の「解説」に井伏鱒二氏の語った話として紹介されているのですが、



「(海音寺潮五郎さんと)知り合ったのは戦時中、南方に徴用されたとき。豪傑だったなあ。これは書いた話だけど、大阪の連隊で宣誓式というのがあったとき、輸送指揮官が『貴様らの命は俺があずかった。ぐずぐず言うものは、ぶった斬るぞ』と、いきなり言ってみんな動揺してね。卒倒した人もいる。その時、『ぶった斬ってみろ』と言ったのが海音寺です。その指揮官は、『あの中には非国民がいるから危ない』と言って輸送中、船室から出てきませんでしたね。」
(『豪傑組―歴史小説傑作集〈3〉』「解説」より)

だそうです。海音寺潮五郎さんの確固たる信念というか、権力に媚びない心意気が分かる逸話ではありませんか。海音寺潮五郎さんの生涯をドラマにでもするなら、必ず採用したいところですね。

この当時、海音寺潮五郎さんは40歳。よほどに威勢の良いオジサンですが、この逸話には実はオチがあります。同じく『豪傑組』の「解説」によると、



後年、文芸評論家の尾崎秀樹から、その件についてたずねられた海音寺は、「いや、あれは、バカなことをいうな、といって刀をどんとつき、むざむざと斬られませんぞといったのが、誤り伝えられたのです」と、大笑いしたそうだ。 その刀は、家代々の同田貫宗広の全長四尺という大業物であった。でき合いの革鞘ではまに合わないので、肥後ごしらえの朱鞘におさめて、真田紐で背中にななめに負っていたらしい。
(『豪傑組―歴史小説傑作集〈3〉』「解説」より)

ということでした。海音寺自身さんは笑い話っぽく説明されたようですが、真相はもっと凄まじかったのだと私には思えました。何といっても四尺の刀ですからね。
 「むざむざと斬られませんぞ」
なんて主張された日には、屁っ放り腰の上官でなくても相当にびびるでしょうね。

海音寺潮五郎さんはほぼ一年に渡って陸軍と行動を共にしていたそうですが、帰国後、極度の軍嫌いになってしまったそうです。そのせいもあってか、別途紹介する機会があると思いますが、『茶道太閤記』の中では軍の行動を批判する記述をしたり、無謀な戦争を遂行している参謀本部への直言を試みたりもしたそうです。
歴史を深く知る者として、軍のやり方、日本の行く末に大きな危惧を抱いていたものと思われます。こうした海音寺潮五郎さんの心配をよそに、その後の日本がどうなったかについては、皆さんもよくご存知の通りです。



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