海音寺潮五郎 私設情報局

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マレー半島での驚くべき戦争体験

徴用された作家たち

海音寺潮五郎さんが先の戦争中、陸軍の報道班員として徴用されました。その一部は本サイトで『うなる!長刀・同田貫!!』として紹介しています。この逸話は日本国内で召集されたときのものですが、実際に戦地に行った海音寺潮五郎さんはどんな体験をしたのでしょうか。そして、その体験はその後の文筆活動にどのような影響を与えたのでしょうか?

海音寺潮五郎さんが旧日本陸軍に招集されたのは昭和16年のことです。一般に軍隊への召集といえば「赤紙」が連想されますが、海音寺潮五郎さんの場合は「白紙」だったそうです。兵隊として軍隊に「召集」される場合は「赤」。兵隊ではなく、軍事を周辺から支援する活動に「徴用」される場合は「白」と決まっていたそうです。
この際に徴用された作家は多数にのぼっており、海音寺潮五郎さんと同じくマレー、シンガポール方面の戦線に送られたのは、会田毅、秋永芳郎、井伏鱒二、大林清、小栗虫太郎、北川冬彦、小出英男、境誠一郎、里村欣三、神保光太郎、寺崎浩、中島健蔵、中村地平といった面々だったそうです。
この他にもジャワ・ボルネオ方面、ビルマ方面、フィリピン方面と多数の作家が従軍しています。

現地入り前 早くもひと悶着引き起こす

マレー半島に向かう輸送船の中で、海音寺潮五郎さんは上官となる中佐とトラブルを起こします。きっかけは些細なことでした。入隊にあたり、軍は従軍している報道班員に様々なものを支給しましたが、その中に飯骨柳、菜骨柳という今で言えば「弁当箱」が含まれていました。余計な荷物は邪魔だと思った海音寺潮五郎さんは身の回り品としてこれを携行せず、荷造りした他の私物と一緒に船倉にいれてしまっていたのだそうです。

そんなとき、サイゴンに到着したある日、軍から
「明日は自由行動を許可する。それにあたり弁当を支給するから飯骨柳、菜骨柳を出せ。出さない者には弁当を支給しない」
という指示が来ました。 折悪しくというべきか、報道班員たちは酒盛りの最中で、酔いの勢いも手伝ったのでしょう、わざわざしまってある荷物を出すのは面倒だと思い、海音寺さんたちは再三にわたる軍からの指示を無視しました。 ついに怒り心頭に発した上官は報道班員らを呼び集め、指示に従わないことを叱りつけたのです。



中佐はぼくの名を呼んだ。
「海音寺さん、どう思います」
 ぼくは最年長者と思われていたから、ぼくが一番穏健にちがいないと考えたのだろう。
 ぼくは進み出た。強い酔が一時に発した気持ちだった。
「命令なら、単に出せと仰っしゃればよいのです。あなたは、出さんものには弁当をやらんと仰っしゃった。そうなると、命令ではない。ぼくらの自由意志におまかせになったのです。ぼくらは弁当がほしくないから出さなかったのです」

中佐はおこった。
「あんたらは、理窟ばかり言っている。そんな理窟は軍隊では通りませんぞ。あんたらは地方ではえらい人かも知れないが、軍隊は別世界ですぞ。軍隊に入った以上、上官たるわしにそんな口をきいてよいと思いますか」

「ぼくらも軍隊が別世界であることは知っています。しかし、ぼくらはぼくらの技能によって徴用されたのです。社会におけるぼくらの地位は、そのぼくらの技能によって得られたものです。軍がぼくらの技能を必要として徴用した以上、その技能に附随する地位も重んずるのが当然でありましょう。ぼくらは兵隊として召集されたのではありません」
ぼくは腹を立てると冷静な調子では口がきけない。ガンガン怒鳴り立てる調子になった。

中佐は青くなった。
「わしはあんたらのような人をもう連れては行けん。ここには総軍の司令官の寺内閣下がおられる。わしはこれから行って、任務を解除してもらう!」
と言って、立上がってへやを出て行こうとした。ぼくは呼びとめた。
「お待ちなさい!あなたはわれわれに用事があると言って呼んでいながら、途中で中座するとは無礼でしょう」
中佐はオロオロしながら席にかえった。
(『海音寺潮五郎全集第21巻』より)

若き日の海音寺潮五郎さんの雰囲気を彷彿とさせるエピソードだと思います。しかし、いきなり上官と衝突してしまうようでは、戦地という厳しい世界での今後が心配になってしまいますね。

軍への協力を拒否し無為に徹する

マレー半島に入った海音寺潮五郎さんは、シンガポールに立てこもる英国軍に降伏を促す文章の原案を作成するなど、多少は軍に命じられた作業をこなしたそうですが、次第に反骨心を表に出し、ついには軍の命令を全く無視するようになります。
このあたりの様子を海音寺さんと同行した井伏鱒二氏の作品から引用すると



私たちには(タイピンで宿営中)太陽が出る前に朝の訓辞をして歩行演習というのと敬礼演習というのをさせた。(中略)
髭の准尉は、教練のときは一生懸命で、むきになった。敬礼演習では、「お前の敬礼は駄目だ。老将軍の真似をするような手つきだ」と私は叱られて、二度までやりなおしをさせられたことがあった。海音寺潮五郎は敬礼演習にも歩行演習にも、腹痛だと云って一度も出たことがなかった。准尉も海音寺さんの腹痛には異論を出さなかった。貫禄の至すところではなかったかと思う。
(井伏鱒二『徴用中のこと』より)

海音寺潮五郎さんは「軍には協力しない」、「軍の命令は聞かない」という態度を硬化させていき、ついには次のような態度に達したと井伏鱒二氏は語っています。



(海音寺潮五郎は)輸送指揮官のお粗末な傲慢ぶりに腹を立て、「軍は、我々の取扱い方を知らんから、僕は何もせんつもりだ」と云って、マレーに行ってからはコーランポーにいたが何の職も持たなかった。最後に宣伝班全員の帰還が近づいて、宣伝班長がシンガポール集結の命令を出したが、海音寺はその命令に従わなかった。軍は一度出した命令は二度出すことはないそうだ。それで班長は仕方なしに、シンガポールからコーランポーに行って、雑談の体裁でシンガポールへ来させるようにした。
(井伏鱒二『徴用中のこと』より)

帰国命令まで無視するのですから、その徹底した態度には頭が下がりますが、そのままマレーに取り残されたらどうするつもりだったのか?と、読んでいるこちらがハラハラします。

病を得て 満身創痍での帰国

海音寺潮五郎さんは約1年間マレーにいました。主な滞在地はクアラルンプールです。同時期に戦地入りした報道班員の中には戦死した人もいますが、海音寺さんは無事に帰国できましたが、日本とは異なる過酷な環境は海音寺さんの身体を蝕み、肺浸潤や胃潰瘍を発症しての満身創痍の状態でした。そして、帰国直後には高熱を発してチフスと診断され、入院生活を強いられることになります。

その後、海音寺潮五郎さんは憂国の情やみがたく、参謀本部に直言しようとして知人(和田芳恵氏など)に止められるという事件を起こしています。これは『鷲の歌』(講談社 大衆文学館―文庫コレクション)に収録された磯貝勝太郎さんの「海音寺潮五郎年譜」に記載されていますが、ことの詳細については分かりません。
直言を断念した海音寺さんは故郷・鹿児島へ疎開し、そのまま終戦を迎えています。

海音寺さんの従軍経験と帰国後の様子について、親族の方が次のような逸話を紹介しています。内容は海音寺さんが陸軍に徴用され、残された家族の生活が苦しかったというものですが、



昭和十六年、陸軍報道班員として徴用されます。佐官待遇の給与を受けますが足りるはずはなく、集結地の大阪で早速、ある新聞社に戦地から原稿を送るからという約束で借金をします。

太平洋戦争の開戦を知ったのは南方への船の中。サイゴンに寄港したところでまたもや新聞社に借金を申し込みます。支社長が本社に許可を受けなければならない位の額だったようですが、虎の皮などを購入しています。十七年暮れに、極端な軍人嫌いになって帰国しました。
(『海音寺潮五郎記念館誌第21巻』より)

「極端な軍人嫌いになった」という点については、これまで紹介した従軍中の海音寺の行動からもうかがえるところですね。

ご存知の通り、戦争は日本の敗北によって終わります。戦後の日本では、占領軍による検閲のため言論の自由はありませんでした。その方針を乱暴に表現をすれば、
 日本の伝統的なもの一切を発表禁止とした
と言えるでしょう。
海音寺潮五郎さんも、占領軍の検閲・言論統制に相当苦しめられたことは『占領軍の言論統制と戦う』に記載していますので、あわせてご覧ください。



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