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『天正女合戦』:千利休の偉大さを再発見

天正女合戦で直木賞を受賞

海音寺潮五郎さんは第3回(昭和11年)というかなり早い時期の直木賞を受賞しています。受賞作は一般に『武道伝来記』『天正女合戦』と言われます。まだ直木賞も創設直後であり、
 どの作品が候補作で、
 結果として受賞作はこの作品である
という規定が不明確だったために、海音寺潮五郎さんも「一般にはこの2作品だとされる」という曖昧な状態になっているそうです。

海音寺潮五郎さんは、受賞作であるこの『天正女合戦』の構想を発展させて、後に『茶道太閤記』を執筆しています。そこで扱っている素材は共通しており、豊臣秀吉と千利休という当時の二人の巨人の対立を軸に、かれらを取り巻く人物たちが入り混じり、確執を繰り広げていく物語になっています。

今日では、千利休が「茶の湯」という芸の道を究めた一代の傑人であったことは当たり前の知識として誰もが知っていますが、実は現代日本でこの事実に最初に気づいたのは海音寺潮五郎さんなのです。千利休と同時代の人々は利休の偉大さを認識していたでしょうから、「再発見した」というのが適当かもしれません。

『海音寺潮五郎全集』第8巻の「あとがき」に、海音寺潮五郎さん自身が『天正女合戦』で描いた千利休を評した文章が掲載されています。それによると、



わたしがこの作品を書くまで、利休は単なる茶坊主としか見られていなかったのです。利休が茶道という芸術界の巨人であり、それまでなかった新しい美学を創始した天才的英雄であることは、今日では常識になっていますが、それはこの戦後のことで、不思議なことにその以前はなかったのです。この作品はその新しい利休の発見者たる栄光をになっているのであり、それがこの作品のたった一つのとりえでしょう。

とあります。

千利休は単なる茶坊主ではない

この『天正女合戦』の発展系である『茶道太閤記』でも、
 千利休=芸術界の巨人
という解釈にそって、その人物像を描いていますが、この作品の連載当時には、
 国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!
という批判があったそうで、「千利休英雄説」が定着するまでにはそれなりの困難があったようです。 それが今では当たり前に受け入れられる常識的知識になったのですから、海音寺潮五郎さんの歴史解釈の正確さ、人物眼の鋭さを裏付ける一つの証拠とも取れるのではないでしょうか。

後輩作家への影響

海音寺潮五郎さんが初めて提示した「千利休と豊臣秀吉という二人の偉人対立の構図」は、その後、野上弥生子氏の『秀吉と利休』、井上靖氏の『本覚坊遺文』をはじめ、他の作家の作品にも受け継がれています。この一事をもっても、海音寺潮五郎さんがいかに優れた史観の持ち主だったが分かります。
ちなみに、「史観」というのは海音寺潮五郎さんの造語だそうです。

ちなみに『茶道太閤記』には、千利休が豊臣秀吉に対して朝鮮出兵の思い立ちを批判する場面が描かれています。これはこの作品連載当時の日本の置かれていた状況(日中戦争が始まっており、戦局が次第に悪化していった)を踏まえて、無謀な戦争にのめり込みつつある軍部に対する批判の意味が込められていたとのことです。

海音寺潮五郎さんは『柳沢騒動』が内務省の命令で連載打ち切りになったという前歴があり、ある種の要注意人物としてその方面からマークされていたのではないかと思われます。それでありながら、自分が正しいと信じる意見・考えを千利休に託して『茶道太閤記』の中で発言させており、これを読んだ周囲の友人らは相当に冷や冷やしていたとのことです。
これは海音寺潮五郎さんの逸話として取り上げるべき内容ですが、海音寺さんの人となりを端的に表していると思います。



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