海音寺潮五郎 私設情報局

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『歴史余話』:源義経は死なず

源義経についてのトンデモ説

今、インターネット上でまことしやかに飛び交っているトンデモ説に「上杉謙信は女性だった」というものがあります。海音寺潮五郎さんは、
 論理というものは鳥もちと同じで、付けたいところにならどこにでも付く
という表現を使って、
 歴史知識の不足した一般人に白を黒と思い込ませ、事実を誤認させることは難しいことではない
と自身の考えを述べています。「鳥もち」をたとえに用いているところが時代を感じさせます。この考えに従えば、男性を女性ということも可能だということになり、こんな説が飛び交っているわけで、それを面白おかしく取り上げる人もいるという状況です。もちろん、好ましいことではありません。

そんなトンデモ説で言えば、古典の部類に入るのが源義経に関わる伝説です。私が子供の頃には、
 源義経は日本では死なず、大陸に渡ってチンギス・ハンになった
というのがありました。
残念ながら、具体的にどのような場所に記載されていたのかは覚えていません。9割がたは「ウソだろう」と思いつつも、いつの頃からか私の中の知識のひとつとして染み付いてしまっていました。

さて、海音寺潮五郎さんの『歴史余話』に、この「源義経=チンギス・ハン」説をあつかった作品があり、「義経と弁慶」というタイトルで収録されています。
源義経は日本史上の悲劇の英雄の代表格ですが、義経不死伝説というのは非常に歴史が古いものだそうです。以下、海音寺潮五郎さんが調査された結果を掲載すると、



・江戸時代中期の説:
 源義経は衣川で生き延びて蝦夷地(北海道)に逃れた

・江戸時代中期の末頃の説:
 源義経は衣川で生き延びて蝦夷地に逃れ、さらにそこから大陸に渡り、その子が金の将軍になった

・幕末から明治にかけての説:
 源義経は衣川で生き延びて蝦夷地に逃れ、さらにそこから大陸に渡り、清朝の祖になった

・大正時代の説:
 源義経は衣川で生き延びて蝦夷地に逃れ、さらにそこから大陸に渡り、チンギス・ハンと名を変えて活躍した

・昭和時代の説:
 同上。源義経こそがチンギス・ハンである
(『歴史余話』「義経と弁慶」より要約)

ということで、この伝説は歴史上で繰り返し、繰り返し現れているそうです。

民衆から愛された源義経

このような現象をとらえて海音寺潮五郎さんは、義経がいかに民衆から愛されていたかの傍証だとしています。しかし、そうは言っても、この伝説の真偽については別問題で、海音寺潮五郎さんの結論は
 義経がチンギス・ハンなどということはあり得ない
として、いろいろな説明を加えています。
ネタばらしになってしまうため、ここでは詳しい説明を省略しますが、理由の一つとして取り上げられている
 「源義経とチンギス・ハンの性格の違い」
などは、いかにも海音寺潮五郎さんらしい解釈だと思います。

これはあくまでも私の理解ですが、海音寺潮五郎さんは歴史というものを、無機質な客観的事実の積み上げではなく、各時代に確かに存在していた生身の人間の生活が積み重なって作り上げられたものだと捉えています。
この考えを裏返せば、歴史を理解するには人間を理解することから始める必要があります。それには、歴史事実に関係する人々の呼吸や心臓の鼓動までも聞き分けるように耳をすまし、心をすます姿勢が求められることになるでしょう。そうして歴史上の人物を理解した結果、
 「性格が異なっているから、義経とチンギス・ハンは別人だ」
という理由を海音寺潮五郎さんは引き出しているわけです。

関ヶ原での真田父子

この他にも
 「生身の人間が歴史を築きあげてきた」
という海音寺潮五郎さんならではの人間理解に基づく歴史解釈を示す例があります。関ヶ原の戦いに臨んだ真田父子に関するものです。
関ヶ原の合戦当時、当主である真田昌幸には信幸、幸村の2子がありましたが、この戦いに臨むにあたり、兄である信幸は東軍(徳川家康側)に組し、弟の幸村は父と西軍(大阪・石田三成側)に属することになったのですが、この事実を解釈する際に、
 天下分け目の大決戦であるため、どちらが勝っても真田家の滅亡だけは避けるようにと、両方に別れて戦いに参加する
という策を立てたからだと、しばしば説明されます。

ところが、海音寺潮五郎さんは『武将列伝』の「真田昌幸」の中で、この説に対して、
 人情に遠くて信ぜられない
と、賛同しない旨の意見を述べています。
この一文だけでは海音寺さんの意図は分かりにくいですが、同じく『歴史余話』の「真田父子と為朝父子」という作品に詳しい説明が載っています。それによると、



ぼくが人情に遠いと書いたのは、こういうことは小説家などが机の上で人ごととして考える時にはよく湧いて来る工夫であるが、現実に自分のこととしてその場にある者には出そうもない考え−つまり、現実の人情には遠いという意味であった。
(『歴史余話』「真田父子と為朝父子」より)

とあります。
具体的には、兄の信幸は長年家康に仕えている上に、家康の養女(実際には本田忠勝の娘)を妻に迎えており、一方の幸村は秀吉に数年近侍して豊臣家の恩を感じるところが多く、妻は石田方の参謀長的立場にある大谷刑部の娘であるため、この二人が東西両軍に分かれることになったのは、肉親の情からして、ごく自然なことであると説明しています。

他にも傍証となる事実の説明がありますが、この歴史解釈の仕方が海音寺潮五郎さんの真骨頂です。
海音寺さんは歴史上の人物を理数的・無機的に捉えるのではなく、その人々を生きている一人ひとりの人間として捉え、人間らしい(あるいは、人間くさい)判断基準、行動基準があったはずだという考えに基づいて歴史的な諸事実を解釈しているのです。
もちろん解釈ですから真の事実は当事者にしか分からないのですが、その真実が失われてしまって誰にも分からない現在において、海音寺潮五郎さん以上の説得力ある解釈を導き出せる人は他にはないのではないかと思います。



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