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『武将列伝』:黒田如水の裏と表

黒田如水も非道

海音寺潮五郎さんの『武将列伝』に収録されている「武田信玄」では、いかに戦国の世とはいっても、あまりに非道な振る舞いをすることは、当時の世間からも悪評を受けることになったという事例が紹介されています。それをもって、武田信玄には天下を取る器量に欠けていたとするのは、あくまでも私の勝手な主張ですが、あながち間違ってもいないと思います。
一方で、戦国時代は文字通り、闘争限りない乱世ですから、様々な人物が様々な場所、状況で非道なことを行っているのも事実であります。

戦国時代を代表する「知恵者」というと黒田官兵衛(如水)が思い浮かびますが、この黒田官兵衛もそういう「非道なこと」をやっている一人です。その「非道な」逸話は海音寺潮五郎さんの『三河武士』(六興出版)に「城井谷崩れ」という小説の形で紹介されています。

『三河武士』の巻末に記載してある説明によると、



本書は、戦前に発表された武士道をテーマとする短編のなかで、全集ならびに短編集に未収録の十一篇を収めた。

とあり、海音寺潮五郎さんの作品を語る上で相当に貴重な本です。

さて、黒田官兵衛が関わる「城井谷(きいだに)崩れ」の概略は以下の通りです。



秀吉の九州征伐が終わり、黒田官兵衛は豊前中津を領土として与えられましたが、九州は代々の土着勢力の強いところで、新領主である官兵衛も対応には苦労がありました。
懐柔できる地侍は懐柔し、帰農が適当なものは帰農させたりと手腕を振るっていましたが、城井谷に勢力を持つ城井谷友房は頑強に抵抗して、官兵衛に帰順しません。

そこで官兵衛は婚姻政策を用いることとし、自分の娘を城井谷家へ嫁にやることにします。城井谷家でもこの縁談を受け入れ、官兵衛と城井谷友房は義理の親子となったわけですが、友房は官兵衛に対する警戒を解かず、親子の対面もないまま月日は過ぎました。

政略結婚ではありましたが、官兵衛の娘と城井谷友房との夫婦仲は円満だったようで子供(官兵衛にとっては孫)も二人授かります。そして結婚から6年が経ったある日、ついに官兵衛と友房は初対面の運びとなります。 官兵衛の居城に出向いた友房でしたが、官兵衛の方では密かに計画していた通り、警護が手薄になった友房を襲撃し、殺してしまいます。
すかさず本拠地である城井谷にも軍勢を差し向け、嫁に行った娘、二人の孫含め、城井谷勢を一人残らず殺し、城井谷家を滅ぼしました。
(『三河武士』「城井谷崩れ」より要約)

文章力の不足により、読みにくい記述になったかもしれませんが、話の筋はお分かりいただけたかと思います。この逸話は海音寺潮五郎さんの『武将列伝』「黒田如水」には採用されていませんが、確かな事実をしてあったことだと、海音寺潮五郎さんが「城井谷崩れ」の作品中で明記しています。 繰り返しになりますが、戦国時代とは本当にひどい時代だったのだと思わずにはいられません。

ちなみに、これとほぼ同様の状況の話が海音寺潮五郎さんの『豪傑組』「一色崩れ」にもあり、ここでは細川幽斎・忠興父子が、丹後の守護大名である一色家を滅ぼしています。犠牲になったのはここでも、細川幽斎の娘です。これらは現代では到底ありえない、惨い事件です。

それでも黒田如水の評価は高い

こうした非道な行いがありながらも、黒田如水に対する海音寺潮五郎さんの評価には非常に高いものがあります。最高評価の西郷隆盛や上杉謙信には及ばないにしろ、立花宗茂には匹敵するレベルでしょう。
『武将列伝』の「黒田如水」で海音寺潮五郎さんは如水を以下のように評しています。



如水は不運な人である。一流中の一流の人物であり、稀世の大才を抱き、運と力量さえあれば、立身出世は思うがままであったはずの戦国のさなかに生まれながら、十二万二千石の小大名でおわらなければならなかったのだ。その才のゆえに秀吉の在世中には秀吉に忌まれ、家康の時代となってはまた家康に忌まれた。秀吉や家康と時代を同じくし、ややおくれて出発したことが、彼の不運であったのだ。
(『武将列伝』「黒田如水」より)

これだけ読むと黒田如水は単に不運だっただけで、もし少しの幸運に恵まれていたとしたら天下を取る立場になったかもしれないとも思えます。しかし、歴史を深く知る海音寺潮五郎さんは、
 運が良いというのは英雄としての絶対条件である
と主張(これについては別の場所で紹介したいと思います)しており、同じ考えは後に司馬遼太郎さんなども主張しているところです。

要するに、黒田如水は不運であったがために英雄たる資格には根本的に欠けていたわけですが、では海音寺潮五郎さんは黒田如水の何をもって高評価しているのでしょうか?
それは黒田如水の晩年の振る舞いにあります。詳しくは『武将列伝』を読んで確認して欲しいのですが、



しかしながら、彼が一旦俗世に望みを絶って以後の悠々たる生活を見ると、秀吉よりも、家康よりも、数等立ちまさった人物ではなかったかと思わせるものがある。家臣の幼児らにとりまかれて無心に遊んでいる老雄の姿を相察する時、無限の興趣なきを得ない。
(『武将列伝』「黒田如水」より)

とあり、海音寺さんが史記列伝中で一番好きだという陸賈を引き合いに出し、



如水のえらさは、陸賈にまさるともおとらないと、ぼくは思う。
(『武将列伝』「黒田如水」より)

と述べています。

陸賈とは?

司馬遷の「史記」に「レキ生・陸賈列伝」として登場。「客分として高祖の天下平定に随行し、弁舌すぐれた論客である、という名声をえて、高祖の身近に仕え、たえず諸国へ使者として出かけていた。」(岩波文庫「史記列伝(三)」より)と説明されています。

晩節を清廉に過ごせるかどうかというのは、人物をはかる一つの尺度として重要なようです。この考えは海音寺潮五郎さんの『孫子』にも受け継がれ、作品中に明確に表現されています。
ところで陸賈って誰?という人もいると思いますが、それには『武将列伝』を読んでいただいてもいいですし、岩波文庫から出ている「史記列伝」そのものを読んでもらってもいいと思います。



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