海音寺潮五郎 私設情報局

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『寺田屋騒動』:維新史を複雑にした薩長の反目

幕末維新史を解く鍵として

海音寺潮五郎さんは、長い日本史上で革命と呼べる事件はたった2つしかなかったと言います。一つは、鎌倉幕府による武家政権の成立。そしてもう一つが明治維新です。
大長編史伝『西郷隆盛』の成立に心血を注いだ海音寺潮五郎さんは、幕末維新史を隅から隅まで詳細に知り尽くしていますが、その中で寺田屋騒動の重要性に注目しています。寺田屋騒動は、島津久光が藩内の最過激派を粛正した薩摩藩の内部闘争として一般には捉えられていますが、実は幕末維新史に多大な影響を与えているというのが、海音寺潮五郎さんの解釈です。そんな寺田屋騒動を扱った海音寺潮五郎さんの作品に、その名も『寺田屋騒動』があります。『西郷隆盛』同様、この作品も史伝です。

江戸時代も末期の文久二年。公武合体による幕政改革を掲げる薩摩の島津久光は、その実行を幕府に実力をもって迫るため、当時国内最強と謳われていた薩摩藩士を多数引き連れて上京します。そんな中、有馬新七を中心とする薩摩誠忠組の最激派グループは長州藩の志士と手を組み、この機を利用して一気に討幕の挙兵へとつなげるべく画策します。
それを聞き知った島津久光は使者を派遣して、寺田屋に集う有馬新七らに計画中止を命令しますが、有馬らは受け入れを拒否。ついに、力ずくで命令への服従を迫る使者たちと、有馬らのグループとの間で闘争が勃発し、薩摩藩士同士が血で血を洗うという凄惨な事件が起こるにいたります。これが世に言う「寺田屋騒動」の概略です。寺田屋事変、寺田屋事件などとも言います。

海音寺潮五郎さんの『寺田屋騒動』は、昭和50年から昭和51年にかけて雑誌「歴史と旅」に連載されたのが初出ということで、海音寺潮五郎さんの最晩年の作品です。昭和52年の末に亡くなる海音寺潮五郎さんにすれば、この『寺田屋騒動』を執筆しているのは「余命1年」という非常に切迫した時期にあたります。
もちろん、神ならぬ身でそんなことは海音寺潮五郎さんご本人には知る由もないわけですが、結果的にこのような作家生活の最晩年に、ましてや大長編史伝『西郷隆盛』の完成に全力で取り組んでいる時期に、この作品を執筆したのには深いわけがあります。

その理由とは、これまで重要な事件としてあまり取り上げられることのなかった寺田屋騒動が、幕末維新史を理解する上で避けて通ることのできない重要性を秘めていると海音寺潮五郎さんが解釈したことにあります。海音寺潮五郎さんはこの『寺田屋騒動』の中で、

寺田屋騒動は一見したところでは、単なる薩摩藩の内紛としか思われませんが、幕末維新史を複雑困難にした薩長反目の最初の契機をなしたものであることにおいて、なかなか重要な事件です。
(『寺田屋騒動』より)

と述べています。
この「薩長反目」こそが幕末維新史を複雑なものにした最大の原因であり、逆に言えば、幕末維新史を真に理解するには、薩長の反目を念頭に置いた上で諸状況を解きほぐす必要があるというのが海音寺潮五郎さんの主張になっています。
寺田屋騒動は薩長反目の最初の契機だと海音寺潮五郎さんは言いますが、その反目がどのような状況下でどのように醸成されていったのかについては、作品中に子細余さず記されていますので、機会があればみなさん自身で確認してみて下さい。

関ヶ原の恨みが討幕運動につながった!?

ところで、江戸幕府が薩摩藩と長州藩を中心とする勢力に打倒されたことは誰でも知っています。薩摩と長州が手を結ぶことになった密約を一般に「薩長同盟」と呼ぶこと、その成立に坂本龍馬が大きな役割を果たしたことなども誰もがよく知る事実です。
一方で、時間を遡ってみると、薩摩の島津家、長州の毛利家は、江戸幕府成立の契機となった関ヶ原の戦いで、共に西軍に属し、敗戦の憂き目にあっているという事実があります。戦場での人的被害が大きかった島津家もさることながら、戦後処理において、毛利家は取り潰しこそ免れたものの、所領を三分の一に減らされるという苦境に落とされています。

毛利家も島津家も、このとき江戸幕府から受けた惨い仕打ちと自分たちが味わった苦難とを子々孫々と受け伝え、長い年月の間にその恨みつらみが増幅し、それが幕末に至って爆発したからこそ、この両藩が討幕運動の中心として積極的な働きをしたと見る向きがあります。
しかし、海音寺著五郎さんは、こうした薩長両藩の怨恨説を否定しています。それについては『寺田屋騒動』に次のような記述があります。

三田村鳶魚老は、長州には年頭の秘密の儀式があって、家老が藩主の前に出て、「今年こそ関東御征伐を」と言上すると、藩主は「いや、まだ時機が熟さぬ、機会を待とう」と答えることになっていたと言いました。私は信じません。江戸初期から幕末の文久元年(1861)まで、長州藩は至って幕府に従順忠誠です。長州藩に限らず、どこの藩も、たとえば関ヶ原役で徳川家の敵にまわった藩、薩摩でも、佐竹でも、京極でも、いずれも従順です。関ヶ原で敵にまわった外様藩は、ずっと徳川氏を敵と見てひそかに復讐の刃をといでいたなどというのは、薩・長によって徳川氏がたおされた後に出来た、小説的発想にすぎません。それほど幕府の威力はすさまじかったのです。
(『寺田屋騒動』より)

三田村鳶魚氏は海音寺潮五郎さんの作品中にしばしば登場しますが、海音寺さんが言うには
 「私の江戸学の師匠」
だということです。
その道の専門家ですから、三田村鳶魚氏もけっしていい加減な情報をもとにこの「長州藩の秘密儀式」について語ったわけでないと思いますが、海音寺潮五郎さんが歴史を俯瞰的に捉えて、総合的に判断すると上述のような見解になるということなのです。幕末維新史に通暁する海音寺潮五郎さんの真価が伺える歴史解釈だと思います。
もっとも、長州藩も幕末の最終段階に至ると、「関ヶ原」をはじめとする過去の怨恨を思い起こし、それによって自らを奮い立たせることで活動の原動力としたことが述べられています。海音寺潮五郎さんのように豊富な歴史知識をもって、歴史的事実を正確に解釈できるのは素敵なことですね。

公卿という生き物を理解する

幕末維新史を解釈するにおいては、佐幕側と討幕側の両方を理解することが必要ですが、その範囲は武士だけに留まらず、公家にも及ぼさなければなりません。なぜなら、討幕側が幕府に対抗する権威として天皇を担ぎ出したことによって、その天皇の取り巻きたる公卿(高級公家)が政治の舞台に登場してきたからです。

この公卿については、海音寺潮五郎さんの非常に辛辣な解釈が『寺田屋騒動』に出ています。それによると、



一体、公卿などという手合は、ごく稀な特別な人物を別にして、性格的にはほとんどがいかがわしい連中です。人間は幾代も生産の仕事から遠ざかっていると、血統的にも肉体的にも精気がぬけ、精神的にも品性がいやしくなるものです。公卿は、大化の改新以来千数百年の間、天皇家の家臣であるということだけを特権にして、徒食して来たのですから、人間としてのよい性質を全部欠落しています。江戸時代、太平であった頃の公卿が、たとえば勅使となって江戸へ下向したり、たとえば日光奉幣使となって日光へ参詣したりする場合、その道中筋では厄病神のようにきらわれたものです。 (中略) 公卿は天皇家の世襲の直属家臣であり、直属家臣であるということだけで先祖代々遊んで衣食して来たのですから、天皇家にたいしては忠誠心があるべきは当然です。なければならないのですが、実際はどうだったのでしょうね。歴史は、戦国乱離の時期、多数の公卿等が地方に落ちて有力大名の家に寄食したことを伝えています。天皇家が京で筆耕のようなことをして衣食しておられるというのにね。私はこんな手合に忠誠心のあることを信ずるわけにはいきませんね。
(『寺田屋騒動』より)

ということで、まともな人間として扱ってもらえていません。私のような限られた歴史知識では、この海音寺潮五郎さんの解釈をどうこう言うことはできませんが、やはり当時の公卿と呼ばれた人々には、この批判を真摯に受け止めなければならないだけの理由があったのでしょうね。

海音寺潮五郎さんの史伝は、私たちに歴史の真実を知るきっかけを与えてくれる貴重な存在です。幕末維新史を知るには、海音寺潮五郎さんが丹誠を込めた大長編史伝『西郷隆盛』という格好の作品があるわけですが、何しろ単行本サイズで全9巻という膨大な分量ですから、手にとって読み始めるには少しハードルが高い感があります。
それに比べると『寺田屋騒動』は通常の文庫本1冊分の分量ですし、先にも説明した通り、海音寺潮五郎さんの最晩年に書かれた作品ですので、海音寺さんが生涯をかけて蓄積し、解釈してきた歴史知識が凝縮されています。そういった意味からも、ぜひ多くの人に読んで欲しい作品の一つです。



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