海音寺潮五郎 私設情報局

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『西郷隆盛』:井伊直弼を再評価する

開国の恩人・井伊直弼

江戸幕府が倒れ、明治新政府が樹立するに至る過程には様々な事件があり、それらが複雑に絡み合っています。その奔流を遡っていくと、ペリーのいわゆる「黒船来航」にたどり着きます。軍事力を背景にして、ペリーは当時の政府に開国を強要しました。これをきっかけに日本国内では、国の行く末を憂う人々の間で紛々たる議論が起こりましたが、その要点を絞ると、
 ・開国是非の具体的内容を取り決める諸外国との条約調印をどうするか?
 ・日本としての政府強化の観点から将軍の世子(跡継ぎ)を誰にするか?
の2つになると海音寺潮五郎さんは『西郷隆盛』の中で述べています。

こうした重要問題が協議される中、幕府の大老となり、議論に決着を付ける役割を担ったのが井伊直弼です。結果として、将軍の世子は紀州藩主の徳川慶福となり、開鎖の是非は開国が政府の方針となり、諸外国との間でそれに伴う条約が結ばれました。
こうして江戸時代の200年以上に渡る鎖国は終了したわけです。これをもって井伊直弼を日本開国の恩人とするむきがあり、今なおそのような言説に出合うことがあります。しかし、これは全く的外れであると海音寺潮五郎さんは言います。『西郷隆盛』で書いているところによると、



井伊を進歩主義者と見る人がいる。『開国始末』を書いた島田三郎以来、そういう説をなす人が絶えない。専門の史学者にはいないが、一般にはまだずいぶん多い。その論拠の最も大なるものは、彼が多数の反対をおしきって条約に調印したことにあるのだが、福沢諭吉は『福翁自伝』の中で、井伊のことをこう言っている。
「大老井伊掃部頭は開国論を唱へた人であるとか、開国主義者であつたとか云うやうな事を、世間で吹聴する人もあれば、書に著はした者もあるが、開国主義なんて大嘘の皮、何が開国論なものか、存じ掛けもない話だ。この人が京都辺の攘夷論者を捕縛して刑に処したることはあれども、これは攘夷論をにくむためではない。浮浪の処士が横議して徳川政府の政権を犯すが故に、その罪人を殺したのである。開鎖の議論に至つては、真闇な攘夷家といふより外に論評はない」
(『西郷隆盛』より)

と福沢諭吉の言説を例に引いて説明しています。
福沢諭吉は当時を代表する知識人ですから、その批評は謙虚に受け止めるべきものです。その福沢をして、
「井伊直弼は攘夷主義者だった」
と言わせているのですから、開国の恩人だなんて考えもつかないことです。井伊直弼は当時の日本を背負って立つだけの才覚もなく、不見識なままで諸外国との条約締結を進めました。これはその後の日本にとって大きな不幸でしたが、当の井伊直弼にとっても大きな不幸の始まりでした。

人間万事塞翁が馬

「人間万事塞翁が馬」という故事成語があります。井伊直弼が江戸時代末期の動乱時代に大老に就任したことは色々な意味で「不幸であった」と思います。「塞翁が馬」の話が最もよく当てはまる事例の一つが井伊直弼の人生です。
良く知られている話ですので、簡潔に説明するに留めますが、井伊直弼は彦根井伊家の藩主であった父・直中の14番目の子供でした。当然、井伊家の跡継ぎになれるような立場ではありません。こういう場合、他の大名家などへ養子に行けるように運動するのですが、井伊直弼の場合はその運動もうまくいかず、ただ年老いて死ぬのを待つばかりの日々でした。

ところが、井伊家の跡継ぎであった直元が病死した際、代わって跡継ぎになるべき兄たちは既に死んでいたり、他家へ養子に行っていたりしたため、生き残っていた直弼が跡継ぎになりました。それから程なく井伊家当主の直亮が死んだため、直弼が当主として立つことになったわけです。井伊直弼にとっては思いも掛けぬ藩主の座、さぞ喜ばしいことだったでしょう。
こうした奇異な経緯で直弼が井伊家の当主になったのが、ペリー来航の2年前というのですから、日本にとってはいかにもタイミングが悪いと言うしかありません。しかも、井伊家というのは単なる大名ではありません。徳川家の譜代大名であり、さらには幕府政権の最高職である大老に就任できる家柄だったのです。井伊家の当主であっても誰もが大老になれるわけではありませんでしたが、井伊直弼はその大老に就任しました。つまり幕臣としての頂点を極めたのです。これぞ井伊直弼の生涯の絶頂。しかし、これも全て「塞翁が馬」です。
井伊直弼は動乱時代に幕府政治を取り仕切るだけの知識も手腕も持ち合わせていませんでした。施策は多くの人々の反感を買い、それは井伊直弼個人に対する恨みへと増幅し、ついには桜田門外の変で暗殺されるに至ります。井伊家の当主の座は、直弼にこれ以上ない不幸をもたらしたわけです。

井伊直弼は暗殺されて当然!?

大老として強権を振るった井伊直弼が人々から嫌われ、恨まれ、憎悪され、結果的に暗殺されるに至るにはそれだけの十分な理由があります。十分過ぎてとても簡潔には説明しきれませんが、例えば「安政の大獄」の処分に関するものでは次のような事実があります。
これは越前福井藩主の松平春嶽の家臣として幕末に活躍した中根雪江の記した『続再夢紀事』に書かれていることとして、海音寺潮五郎さんが『西郷隆盛』で引用しているのですが、中根雪江が書いているには、



一つは安政大獄において、はじめ評定所では水戸の執政安島帯刀のような者は叱りおく程度のものにし、橋本左内のような者は国許へ送り返して慎しみ程度のものにすることに罪案をつくり、すべて軽罪にするつもりでいたところ、井伊はこの罪案に附箋して(原注=大老の附箋した案記が現存しているという)、安島を切腹に、橋本を斬罪にというように、その他もすべて重罪に改めたのである。
(『西郷隆盛』より)

とあるそうです。井伊直弼が橋本左内を罪に問うたことについて、海音寺潮五郎さんは、

その左内を井伊が逮捕したのは、将軍世子問題について井伊に同調せず、井伊の擁立しようとしている紀州慶福(家茂)の最も有力なライバルである一橋慶喜派の最も優秀な闘士であったからである。要するに、私憤を晴らそうとしているに過ぎないのだ。
(『西郷隆盛』より)

と述べています。
その私憤の果て、しかるべき部署が軽罪に済ませる案を作成してきたのを翻し、死罪にしたのですから、井伊直弼の仕打ちがいかに世の中の憎悪をかったか想像に難くありません。しかも斬罪というのは単なる死罪ではありません。武士を武士らしく扱って死罪にするのであれば、切腹を命じるべきところ、武士らしい死ではない斬罪に処したのです。かれこれ考えるに、井伊直弼は恨まれて当然だと言わなければなりません。

明治政府に欲しかった逸材

海音寺潮五郎さんは維新後早々と堕落の様相を呈した明治新政府に対し、「もしこの時期に松陰が健在で、西郷とならんで新政府の中心にいれば、その欠陥は大いに救われたろう。もう一人橋本左内がいれば、保守的になる心配はない。最も完全であったろう。日本のその後の歴史はちがっていたはずである。」と述べています。それが叶わなかったのはここで述べた井伊直弼の大罪のためです。

これは一例に過ぎませんが、海音寺潮五郎さんは別の場所で
「橋本左内一人を殺したことだけでも、井伊直弼の罪は絶対に許されない」
と述べています。井伊直弼が「安政の大獄」という恐怖政策を振り回すまでは、現行政権である幕府を機能強化し、動乱の時代を乗り切っていこうという考えが当時の有識者の主流だったのです。ところが、井伊直弼の仕打ちに人々は失望し、それが憎悪に変わり、
 「こんな幕府は無用だからつぶしてしまえ!
という倒幕思想が生まれるに至ったのです。
海音寺潮五郎さんは「井伊直弼にも幕府に対する忠誠心は当然あっただろう」と推測していますが、その井伊の所行が幕府の寿命を縮めることになったのですから、何とも皮肉なことです。

この桜田門外の変での井伊直弼暗殺に対して、海音寺潮五郎さんは



ともあれ、桜田の挙は密雲に閉ざされ、窒息せんばかりになっていた当時の日本における雷電の一撃であった。正論すべて発露の途をふさがれてどうしようもなくなっていた日本が、この雷電の一撃によってひらけて来たことは事実である。
(『西郷隆盛』より)

と述べており、土佐藩での吉田東洋暗殺と共に、この2件の暗殺事件はどうしてもやむを得なかったものとして認めています。

汚名を千載に残す

大老暗殺は幕府にとって大事件です。当然、関係者はその知らせに接して驚倒したことと思います。しかし、暗殺された井伊直弼自身はその死を惜しまれたでしょうか。これについて、海音寺潮五郎さんは『西郷隆盛』の中で次のような話を紹介しています。
これは福地桜痴が『懐往事談』に書いている内容を引用しているのですが、井伊大老が暗殺されたという情報を聞いた福地桜痴は、



「変報を聞いたのは三日の正午であった。くわしく聞きたいと思って、雪の中を友人の宅に行ったところ、いずれも皆愉快愉快と叫んで、一人として憂え悲しんでいる者は、幕府の進歩党や開国党の中にはなかった。森山多吉郎(外国局上司)氏のごときは、これから開国の気運が盛んになるであろうと、うれしげであった」
こうなると、井伊は攘夷党からも開国党からもきらわれていたと言わなければならない。
井伊に愛国心がなかったとは思われない。尊王心がなかったとも思われない。幕府にたいする忠誠心はもちろんあったはずだ。だのに、こんなにきらわれたとは、気の毒な人である。
(『西郷隆盛』より)

井伊直弼にとっては本当に気の毒な話です。身は殺されて、それを知った幕府関係者が悲しみもしないのですからね。もちろん、こういう結末に至る原因は井伊直弼本人の身から出た錆であることは既に述べた通りです。

井伊直弼はなぜこれほどまでに糾弾されなければならないのでしょうか?これについて海音寺潮五郎さんは『西郷隆盛』の中で、



政治家は志がよければそれでよいというものではない。うまくやらなければならない責任がある。うまくやれなかった政治家は当代からも後世からも非難されることを覚悟しなければならない。井伊はその政治手腕が拙劣であっただけでなく、その強い我意に根ざす恐怖政治によって国民の憂国心を弾圧し、国民中の優秀分子を虐殺した。非難をまぬかれることの出来ないこと、東条英機と一般である。
(『西郷隆盛』より)

と述べています。
東条英機が引き合いに出されているところはひとまずおくとしても、井伊直弼が後世から繰り返し非難されなければならない理由がここにあるのです。

海音寺潮五郎さんの『西郷隆盛』は単に西郷の伝記を執筆しているに留まらず、幕末維新史全体を記述することで、その中から西郷隆盛の真の像を浮かび上がらせることを意図して作られています。そのため、直接西郷が関わっていない事件にも多くの紙面が割かれているわけです。
そうしてくると、当然、悪い意味での幕末の重要人物である井伊直弼のことも色々と言及せざるを得ず、何かと厳しく批評されるわけですが、これこそが井伊直弼の日本史上での正しい評価なのです。
井伊直弼を「開国の恩人」とする反動的な言説に惑わされないための羅針盤としての役割も、海音寺潮五郎さんの『西郷隆盛』は担うことができると言って良さそうです。



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