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『江戸開城』:山岡鉄舟 江戸無血開城の立役者

江戸開城 陰の立役者

幕末維新史において、江戸城の無血開城はハイライトの一つといってよいでしょう。当時、幕府側の責任者として全権を担っていたのは勝海舟です。海舟は国内で民族同士が殺し合い、内戦が拡大することによって諸外国に付け込まれる事態を恐れていました。日本全体の国益を損なわないよう、何とかして戦いを避けたいというのが海舟の思いでした。
江戸に向けて進撃してくる新政府軍には知己の西郷隆盛がいます。しかし、その西郷に話をつけるすべがありません。そんな海舟のもとに突如として現れたのが山岡鉄舟でした。このときまで二人は面識がなかったといいますが、この出会いを機に生涯続く親交を深めていくことになります。後年、海舟は山岡鉄舟を評して
 ・「天下の傑士、日本の忠臣」
 ・「忠勇金鉄のごとき、至誠鬼神を泣かしめる愛国無二の傑士」
とまで述べています。この最大級の賛辞、その大部分は江戸無血開城で果たした山岡鉄舟の功績によると言えると思います。

勝海舟のもとを訪れた山岡鉄舟は、勝から西郷隆盛宛ての手紙を預かります。また同時に、同行人として薩摩藩士の益満休之助を紹介されています。薩摩藩は新政府軍の中心勢力であり、益満がいたことによって、比較的スムーズに西郷のもとまでたどり着くことができた鉄舟ではありましたが、相手は血気にはやる軍隊・武士たちです。決死の覚悟で向かったことは想像に難くありません。
現代のような便利な通信手段のない世界で、幕府側と新政府側が意思疎通をはかる橋渡しをしたのが、山岡鉄舟の何よりの功績です。そこで見逃せないのは西郷隆盛との談判で見せた山岡鉄舟の深慮と胆力です。そのときの様子について、少し長いですが、海音寺潮五郎さんの『江戸開城』から引用します。場面は西郷が鉄舟に対して、新政府側が検討した「幕府の降伏条件」を示したところです。



 西郷は、山岡が一カ条一カ条食い入るようにして見終わったのを待って言った。
「その条々が相立つことが実効であります。全部相立ちましたなら、徳川家にたいしても、寛典のご処置がありましょう」
「つつしんで承りました」
と、山岡は一旦平伏して、身をおこし、強い目で西郷を見て言った。
「一カ条だけ、すなわち、主人慶喜を備前藩へあずけることだけは、拙者の身分としてはお請け出来ません。なぜなら、これは徳川家恩顧の家来共が決して承服しないことでございますから。詮ずるところ、この個条は飽くまでも戦争を強行し、数万の者を殺そうとなさることであります。王師のなさることとは思われません。これでは、先生はただの人殺しとなりましょう。この条項だけは決してお請け出来ません」  西郷にしてみれば、山岡は知るまいが、「軍門に降伏」という条目を削ってやったのである。名誉を守ってやって、よいことをしたと自足しているところに、こう言われたので、虚をつかれた気持ちで、狼狽に似た思いであった。覚えず、
「朝命ですぞ」
と言った。
「たとえ朝命でも、拙者は承服出来ません」
「朝命ですぞ」
と、また言った。この時には立直っていたが、相手をためすためであった。
「それでは、お考え下さい。仮に立場をかえて、島津侯が今日の慶喜の立場になられたとして、先生はこのような命令を甘受なさいますでしょうか。君臣の義とは、一体なんでありましょうか。お考え下さい。切にお考え下さい。拙者には承服出来ないのです」
西郷は心を打たれて、しばらく黙っていた後、
「先生の言われる通りでごわす。わかりました。慶喜殿のことは、吉之助がきっと引受けて。はからいます。安心して下さい。かたく約束します」
と、誓った。
山岡は泣いて感謝した。
(『江戸開城』より)

山岡鉄舟の幕臣としての地位はごく低いものですが、西郷との談判においては幕府を代表する立場にあります。その交渉の場で
 「ここだけは絶対に譲歩できない」
という条件を確信をもって見極め、断固としてその旨を主張していることに注目してください。当時、こうした交渉は一期一会です。ちょっと席を外して誰かに相談することはできませんし、ましてや持ち帰って検討するような時間もありません。自分自身で考え、判断するしかないわけです。これは相当な覚悟がある者にして初めて可能なことであり、私はこのシーンに山岡鉄舟の人間修養の成果を見る思いがします。

西郷隆盛とも親交を深める

この会談をきっかけとして鉄舟は西郷とも親交を深めることになります。鉄舟の人となりを見込んだ西郷は、明治に入った後、天皇の侍従として新政府に出仕することを持ちかけます。こちらは海音寺さんの『幕末動乱の男たち』から引用すると、



翌五年、西郷は宮中改革に着手して、女官が内請によって政治に干与したり、人事を動かす途を杜ぎ、天皇の侍従にも武家出の剛直清廉な人を任命した。西郷はその侍従の一人に、山岡になってもらいたいと頼んだ。
 山岡は固辞したが、西郷は手をかえ品をかえて口説いた、さすがにことわれなくなって、
「十年だけ、おつとめしましょう」
と条件をつけて、承諾した。それは五年六月であったが、きっちり十年目の十五年六月に辞職し、何と引きとめられても、もう聞かなかった。
(『幕末動乱の男たち』より)

山岡鉄舟の出仕は、西郷による宮中改革の一環でした。ちなみに、西郷は明治10年の西南戦争で死んでいるため、山岡が侍従を辞したときには既にこの世にいません。しかし、もとより侍従の地位にしがみ付こうとするような鉄舟ではありません。しっかりと西郷との約束を守ったというわけです。
西郷が手掛けた宮中改革の狙いについて、海音寺潮五郎さんは『日本の名匠』の中で次のように述べています。



天皇の側近に侍する者は堂上の出身でなければならない制度であったのを、武士階級からも任用する制度に改めた。こうして任用された人々は、宮内大丞には吉井友実、侍従には村田新八、山岡鉄舟、島義勇、高島鞆之助、米田虎雄等だ。(中略)

 この人々は山岡や島義勇を見てもわかるように、いずれも誠実で、硬骨で、豪傑肌合の人ばかりだ。西郷は天皇を英雄・豪傑にしたてまつろうと考え、この人選をしたのであろう。当時の世界の大勢から見て、英雄的君主でなければ、日本は立ち行かないと見たからであろう。
(『日本の名匠』より)

こうした西郷隆盛の思惑からも、山岡鉄舟がいかなる人物であったか、うかがい知ることができるでしょう。武士の一つの理想像を見る思いがします。

山岡鉄舟の新政府への出仕については、福沢諭吉が勝海舟らを批判した『痩せ我慢の説』の対象範囲でもあります。これについて海音寺潮五郎さんは、



山岡が明治政府につかえたのをあきたりないとする人があるが、山岡は権勢欲や利欲のためにつかえたのではない。江戸開城の時世話になった西郷への義理でつかえたのだ。だから、約束の十年でさっさとやめたのである。ここを見てやるべきであろう。
(『日本の名匠』より)

と評しています。福沢の『痩せ我慢の説』が的外れであることは論を待ちません。しかし、いわれのない非難に対して何がしかの心情を表したかったのでしょう。鉄舟はこの時期に一つの歌を詠んでいます。それは、
 晴れてよし 曇りてもよし 不二の山 もとの姿は かはらざりけり
というもので、鉄舟の歌としては非常に著名なものです。

この歌は明治5年12月に鉄舟が書いた「朝廷に奉仕すること」と題する文章に添えられたものだそうです。その文章には、徳川の遺臣でありながら新政府に仕えることに対して非難の声があがっていることを認識しつつも、それに対する抗弁はせず、千載の後に知己を待つとする鉄舟の心情が述べられています。

山岡鉄舟は幕末維新史を語る上で欠かせない重要人物ですが、ドラマ等では取り上げられることが少ないようです。そのため、現代日本での知名度も低いと思われますが、高潔な人格、人間的な魅力はぜひとも多くの人に知ってほしい人物です。
海音寺潮五郎さんの作品では『幕末動乱の男たち』に収録された「山岡鉄舟」が彼の半生を知る格好の素材だと思いますので、一読されることをお勧めします。



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