海音寺潮五郎 私設情報局

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『武将列伝 戦国終末篇』:加藤清正が憂いた豊臣家の行く末

戦後日本で最も人気のあった武将

海音寺潮五郎さんによれば、戦前の日本で人気のあった歴史上の人物は、源為朝と加藤清正が双璧だったそうです。戦後になり源為朝の人気は衰えたものの、加藤清正の人気は依然として高かったということです。現在では、清正に焦点があたるようなドラマも少なく、それほど人気がある武将とは呼べなくなってしまっているのではないでしょうか。加藤清正と言えば「賤ヵ岳の七本槍」というのが私の印象ですが、この言葉でさえも現在の認知度はいかがなものでしょう?
歴史上の人物を評する場合、そのときどきの価値観に応じて、毀誉褒貶が激しい傾向がありますが、海音寺さんはそのように揺れ動く人物評には否定的です。その人物が活躍した時代の価値観に沿って評価を加えるのが歴史を見る正しい態度だと言います。

加藤清正と言えば、秀吉の朝鮮出兵での武勇談でも有名です。そして、清正と対比される人物に小西行長がいます。この朝鮮出兵は愚かな戦争で、従軍した武将たちには厭戦感に基づく微妙な行動が多々見られるのですが、一般に加藤清正は戦争遂行派、小西行長は和平推進派の代表と目されています。
現代人の感覚では、
 和平派の小西行長は善人
 戦争派の加藤清正は悪人
と単純に発想してしまいがちですが、この両者の比較について、海音寺潮五郎さんは『武将列伝 戦国終末篇』収録の「加藤清正」の中で



今日日本人は戦争に懲りて和平をよしとし、主戦を悪しとする気風があるが、歴史上のことは今日的考えを単純に移して判断するわけでにはいかない。
(『武将列伝 戦国終末篇』「加藤清正」より)

と述べています。海音寺潮五郎さんは小西行長の方をこそ厳しく糾弾し、

・そもそも小西行長は、戦争開始前の段階で豊臣秀吉の意志を朝鮮側に正確に伝えておらず、また、朝鮮側の主張も秀吉に正しく伝えていなかったこと。

・和議交渉の中で、日本軍の秘密、弱点を朝鮮側に漏らし、日本軍の不利を図っていること。

などを理由に、



小西が終始一貫和平主義を堅持して努力をつづけた志は大いに諒とするが、そこは越えてはならない矩がある。方法はその矩の内で講ずべきが、主にも国にも忠なる所以だ。小西にはその弁別がなかった。彼にはついに士人の魂がなかったと論断せざるを得ない。
(『武将列伝 戦国終末篇』「加藤清正」より)

と、武将失格とも呼べる厳しい評価を下しているのです。海音寺潮五郎さんの歴史解釈に対する態度はこのようなものです。

出征した日本武将の鑑

朝鮮出兵中の加藤清正について、海音寺潮五郎さんは小西行長との比較から、



(前略)小西が終始一貫して和平主義であったのに対して、清正は終始一貫して秀吉の方針に最も忠実であったことだ。だから、その当初においては清正は主戦主義であり、明国まで攻め入ることをまじめに考えており、途中秀吉が和平を考えるようになると、彼もまた和平を考えるようになったが、その和平はあくまでも秀吉の意志に沿うてであり、和平になりさえすればどんな不利な条件でもかまわないという小西の行き方とは鋭く対立していた。
(『武将列伝 戦国終末篇』「加藤清正」より)

と説明しています。こうした愚直さが清正の魅力といえるのではないでしょうか。
豊臣秀吉は朝鮮戦地での将兵に対して、

殺すべからず、掠奪すべからず、放火すべからず、人をおさえ取るべからず、下人百姓らを徴発しほしいままに課役その他非分のことを申しかけてはないない

という厳しい訓令を出していますが、清正はこれを忠実に守ったということです。こうした点からも清正の人となりを伺うことができそうです。

豊臣家の行く末を憂う

朝鮮出兵を通じて醸成された武将同士の確執の結果、加藤清正は関ヶ原の戦いで東軍に加わります。結論から見ると、これは豊臣家にとって不利な結果をもたらしましたが、清正の豊臣家に対する思いは関ヶ原後も変わりませんでした。
当時、清正を含む多くの大名は勝利者たる徳川家康への忠誠心を表すため、江戸へ参勤を行うようになります。しかし、清正は江戸への途上、大坂を通過する際には豊臣秀頼の許への御機嫌うかがいを欠かしませんでした。
家康は清正の態度が気に入らず、家臣の本多正信に諫言させますが、それに対して清正は、



「拙者はご承知の通り、故太閤の一方ならぬ恩情によって成人いたした者でござる。御当家の世となって肥後一国の領主という大身になりましたことなれば、御当家の厚恩は忘れはいたさぬが、さればといって昔の恩を忘れるような軽薄は武士としていやでござる。(後略)」
(『武将列伝 戦国終末篇』「加藤清正」』より)

と答えたということです。これは「駿河土産」という書物に出ていることだそうですが、海音寺潮五郎さんは、



愚直なまでの清正の誠実さと、古武士ぶりと、豊臣家にたいする忠誠心とがよく語られている話である。
(『武将列伝 戦国終末篇』「加藤清正」』より)

と評しています。海音寺潮五郎さんの解釈を通して、加藤清正の人となりが手に取るように分かる気がしませんか? は

豊臣秀吉の子飼いとして成長し、大大名となった加藤清正。豊臣家への忠誠心は失わないものの、家臣達やその家族の生活にも配慮しなければならない立場で苦悩します。そうした清正の立場について海音寺潮五郎さんは、



誠実な彼は、勢いおとろえて行く豊富家にたいする憂慮、自分の家との安泰を望む気持ちの間に、苦しみなやむことが一方でなかったに違いない。彼が江戸往来の船中で論語を読みながら朱点を加えているのを、清正が可愛がって飼っていた猿が見て、彼が厠に行った間に、主人の真似をして書上に縦横に朱をなすくったところ、清正はかえって来てニコリと笑い、
「おお、おお、そちも聖人の教えが知りたいのか」
と言って、頭を撫でたという話は有名だが、論語を読む気をおこしたのは、悩みにたいする解決をもとめたためだと解釈することが出来よう。激烈果断を儒教の教えはきらう。二律背反的な条件があれば、そのいずれにも偏しない中庸中正の道のあることを教えるのが儒教だ。彼はそれを知って論語を愛読するようになったとぼくは解釈している。
(『武将列伝 戦国終末篇』「加藤清正」』より)

と解釈しています。聖人の教えと呼ばれた儒教にすがり、豊臣家と徳川家の中庸を何とか図りたいと願っていた清正の苦心。後世の私たちは、この悩みの結末を知っているだけに複雑な思いにとらわれてしまいます。

加藤清正は豊臣家の滅亡を見ることなくこの世を去りました。海音寺さんは、清正が生きていれば豊臣家の悲惨な最期は別の形になったかもしれないと考える一方で、それでも家康が無理押ししてきた際の清正の苦悩を考えると、
「(大坂の陣に)先立つこと三年にして死んだのは、清正の幸福であった。」
とまで述べています。
単身で身を立て、大大名に出世した清正の生涯、豊臣家の滅亡、清正の子供の代になっての加藤家の改易など、私たちはそれらの歴史の変遷を知っていますが、やはり諸行無常というべきでしょうか。歴史の中でうつろい行く人々の儚さを感じずにはいられませんね。



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