海音寺潮五郎 私設情報局

〜 塵壺(ちりつぼ) 〜

海音寺潮五郎の作品や逸話などを紹介するサイトです。 【RSS1.0】

トップページ > 海音寺文学の紹介

「直江兼続」:関ヶ原の戦いと上杉家の運命

義将・上杉謙信

海音寺潮五郎さんの代表作中の代表作は『天と地と』でしょう。ご存じの通り、上杉謙信の生涯を描いたベストセラーで、NHK大河ドラマの原作としても採用されました。逆に大河ドラマの原作になったからこそ多くの読者を獲得した面もありますが、これを語り出すと余談が長くなり過ぎますので、興味のある方はこのサイトに散らばっている逸話をご参照ください。

上杉謙信はいかなる武将であったか?これについて海音寺潮五郎さんは「直江兼続」の中で、



上杉謙信は、生涯、自分の戦争は義のための戦争である、と信じきっていた人です。これは、越後領内のいろいろな神社に謙信が奉っている願文、それから信州の神社にも奉っている願文、これらの中に謙信がはっきりそう書いています。自分は自分の欲望のために戦ったことはかつてない、自分は常に筋目のために、すなわち正義のために戦っている、と書いております。
 そして、常陸の佐竹家から、今、関東に入ってきてください。そうすると関東の諸将は戦わずしてなびくでしょう。今お入りになることは、あなたの利益でありますと言ってよこしたことに対して、自分は利のためには動かない、自分が動くのは常に正義のために動くのである、という返事を書いています。これも古文書として残っております。
(「直江兼続」より)

と述べています。義を重んずる謙信の行動美は、カリスマ的な君主のイメージを家臣に植え付け、上杉家に「謙信崇拝」の風潮を生み出したと海音寺潮五郎さんは言います。この「謙信崇拝」に強く感化したのが直江兼続です。
直江兼続は謙信亡き後の上杉家を支えた柱石ですが、新たに当主となった上杉景勝を謙信的英雄にしようという考え方を持って仕え、助けていたのではないかと海音寺さんは推測しています。

豊臣秀吉が直江兼続に与えた影響

作品解説

この「直江兼続」は単独の作品として出版されたことはなく、またそれだけのボリュームもありません。古くは『日本史探訪』の中に収録されていたのをはじめ、近いところでは『実伝 直江兼続』にも収録されています。後者の作品は今でも普通に入手可能な状況です。

最終的に上杉家が関ヶ原の戦いで西軍側に付き、そして西軍が敗れたことで大幅な減封を受けてしまう運命の中で、海音寺潮五郎さんは豊臣秀吉が与えた影響に着目しています。
身一つで立身出世してきた秀吉には譜代の家臣がいません。有能な一族も少なく、子飼いの大名たちも限られている。そうした中で、秀吉は豊臣家の勢力を盤石にすることを意図して、他大名の優秀な家臣たちをスカウトする方針をとったそうです。成功例として有名なところでは、徳川家康の家臣だった石川数正がいます。そして、そのターゲットの一人になったのが直江兼続です。

しかしながら、スカウトの多くは上手くいかず、直江兼続も上杉家に留まりました。そこで繰り出された秀吉の次の手が「諸大名に命じて、その有力な家老に大きな知行を割り当てさせ、その家老の心を引きつけておき、万一の際には主家を引きずって豊臣家に味方させるという方法」だったというのが海音寺潮五郎さんの解釈です。
そして、秀吉の政策の結果として、直江兼続は上杉家の中で三十万石という破格の所領を采配することになります。そして、関ヶ原の戦いで兼続が上杉家を率いて西軍に味方したのは、このときの秀吉の恩に報いる意味が多少なりともあったと海音寺潮五郎さんは述べています。

関ヶ原に向かう悲壮な決意

直江兼続が石田三成と共謀して徳川家康との一戦を決意し、会津に帰国する際、当時の有名な儒学者・藤原惺窩を訪れたという逸話があります。上杉謙信に感化され、義を重んじて行動する兼続は、豊臣家のための挙兵について藤原惺窩の意見を求めたのです。
そのときの様子を海音寺さんの作品から引用すると、



直江はたいへん喜びまして、惺窩を上座にすえて、自分は下座のほうに座りまして、たいへんに忙しい時ですから、たった一つだけお聞きしたいと言いまして、「絶えんとするを継ぎ、傾かんとするを扶(たす)く」という古語がございますが、今日の場合、それをどう先生はお考えでございますか、とこう言った。この場合、この古語は、豊臣氏を助けて安泰ならしめるということを意味することはおわかりでしょう。すると惺窩は返事をしないで立ち去り、旅館の軒下にたたずんで、「天下は再び乱れるか。民は気の毒なものである」とつぶやいて嘆息しました。直江は供の者から惺窩がそうつぶやいたということを聞いて、「惺窩先生は学者ではあっても男児ではない」と言ったという話があります。
(「直江兼続」より)

兼続は藤原惺窩に見切りをつけました。では、「男児」たる兼続はどう行動するのでしょうか?もちろん、豊臣家のため、弱きを助け強きを挫くのです。

関ヶ原の戦いの結果については皆さんご存知の通り。直江兼続の志は遂げられなかったわけです。海音寺潮五郎さんは『武将列伝』収録の「石田三成」の中で、「西軍は負けるべくして負けた。その原因は三成の人となりにある」という解釈を述べています。別途、こちらに掲載していますが、海音寺さんの歯に衣着せぬ論評が石田三成ファンにはいたく不評で、ブログの方にも囂囂たる非難のコメントをもらったことがあります。
私は海音寺さんの解釈を紹介しているだけで、文句を言われる筋合いにはありませんので、その点は平にご容赦を。

ともかく、関ヶ原の戦い後も、上杉家、直江兼続ともに命脈を保ちました。上杉家はその後、幕末まで続いていますし、直江兼続も上杉家を支えた名臣としての評価が不動のものになっています。生前の志は遂げられなかったものの、「名こそ惜しけれ」の武家としては最上の人生だったといえるかもしれませんね。



サイト内の関連ページ

【逸話】上杉謙信を書きたい!

【作品】『武将列伝 戦国揺籃篇』:武田信玄は天下を取れなくて当然だった?

【作品】『武将列伝 戦国終末篇』:黒田如水の裏と表

海音寺潮五郎とは  海音寺潮五郎作品一覧  海音寺文学の紹介  海音寺潮五郎の逸話 
このサイトについて  サイトマップ  リンク集

Copyright © 2007-2013 モモタ All rights reserved.