円形中区の道祖神は、今では道祖神の代表的な形ですが、長い道祖神の歴史からすれば、比較的に新しい形だと言えます。それまでの光背碑や破風碑などとはまったく違う、円くくりぬくという独創的でモダンなスタイルだったと思います。
特に安曇野・松本平に多く、辰野・岡谷あたりまで広がったようですが、茅野・富士見・高遠には、ほとんど見られません。それから東信地方にも飛び火したようですが、北信地方にはほとんどありません。いったい、いつ頃どこで作られ始めたものなのでしょうか。
円形中区の道祖神で、1800年よりも古いものは、筆者の知っている中では次の6基だけです。

左:松川村 東部。正保元年(1644)。近辺には、天保から明治までの、似た絵柄の道祖神が多数あり、本当にこれだけが1600年台のものか、疑問視されている。
右:辰野町 横川 川上。元禄三年(1690)。辰野町で年号が刻まれている円形中区は、すべて明治以降の作であり、これだけが元禄というのは、疑問視されている。

左:筑北村 本城 乱橋。安永二年(1773)。だいぶ風化して、石の表面がガサガサになっている。耕地の側面に道祖神がぽつんとある寂しい風景だが、その昔、乱橋は北国西街道の宿場だった。よって情報が行き来していたに違いない。円形のモダンな道祖神が早い時期に村に伝わっていたとしても、おかしくないと思う。
右:安曇野市 明科 光。安永七年(1778)。色が白く陰影に乏しい道祖神であるが、屋根の下に置かれているので、風化は少ない。安曇野では、道祖神に屋根や柵を作ることが普通におこなわれている。おそらく、風化に弱い石を守るためであろう。あるいは「道祖神盗み」が盛んだった地域なので、盗難から守るためであろう。

左:松本市 東耕地。寛政八年(1796)。完全な円形にはなっておらず、過渡的なものかもしれない。
右:諏訪市 豊田 文出。寛政?年。「猿田彦命・天鈿女命」と彫ってあり、辰野町の明治期に作られたものと類似している。寛政といえば本居宣長の存命中であり、「古事記伝」はまだ執筆中のはず。したがって、本当に寛政のものか疑問視される。

安曇野市 穂高 上原。文政七年(1824)。穂高にある円形中区の中では、早い時期のものである。円形の周りに刻まれた流麗な飾り文字を見れば、当時すでに円形中区のスタイルが円熟していたように思われる。ということは、もしかしたら、円形中区はずっと前に別のところで生まれ、安曇野に伝わって円熟した可能性もある。
では、なぜ安曇野で円形中区が円熟したか、という疑問が自然とわいてくるのです。いくつかの説があります。
(1)安曇野の道祖神は花崗岩が多く、石の色が白いので、陰影が乏しい。そこで中区を彫って、立体的に見せる工夫をしたのではないか。安曇野に彩色道祖神が多いのも、陰影が乏しいのを補うためだという。
(2)花崗岩は粒子の粗い石で、風雨に弱い。特に、水分が粒子の間にしみ込んで凍結すると、どんどん痛んでしまうのである。屋根や柵の中に入った道祖神が安曇野に多いのも、風雨から守るためだという。中区を掘って、風雨から像を守る工夫をしたのではないか。これは円形中区に限ったことではない。安曇野では、破風碑にも中区を掘っているものが多いのである。
(3)安曇野は「道祖神盗み」が盛んだった地方である。盗まれたあと、道祖神を作り直さなければならなかった。つまり需要が高かったため、新しい作風である円形中区が広まるチャンスに恵まれていたのではないか。なお、盗まれないように大型の道祖神が盛んに作られたらしい。