さるたひこの神


ふたたび古事記の話です。国づくりが完了し、いよいよ天孫(=天皇家の祖先)が地上に降りてくる場面があります。そのとき、地上で待ち受けていて道案内をした神が猿田彦(さるたひこ)、天からお供をしてきた女神が天鈿女(あめのうずめ)、と言われています。

天鈿女は、やがて猿田彦の「猿」の字をもらって猿女(さるめ)と呼ばれるようになりました。道案内の神ゆえ、また仲のよい男女の神ゆえ、猿田彦・天鈿女が道祖神であるという考え方が、江戸後期〜明治初期に広まったようです。これは国学(こくがく)の影響によるものと言われています。


左:辰野町 上辰野。明治六年(1873)。円形中区。猿田彦命・天鈿女命。
右:辰野町 横川 一ノ瀬。ほこらの中に猿田彦命・天鈿女命の文字碑。ほこらには天保六年(1835)と彫られている。

江戸時代の中期〜後期は、国学が盛んになった時期です。本居宣長(1730〜1801)などの国学者が、古事記をはじめとする古典の価値を見直して、日本固有の文化を究明しようとしたのです。


左:三重県 松阪城址にある本居宣長の旧宅。古事記で猿田彦が溺れ死んだとされる阿邪訶(阿坂)も、この松阪市にある。
右:松阪城址の下。駒型光背。三重県にも双体神があるという情報は知らず、偶然見つけたときは驚いた。

やがて明治維新の際には、一部の国学者や神官たちが中心になって、多くの寺や仏像や経文が焼かれました。この騒動を廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と言います。廃仏毀釈は、仏教を排除し、神道を国教として、天皇中心の新しい国づくりをしようという動きでした。

同様に、さまざまな民間信仰についても、迷信や邪教であるから破棄すべきという風潮が起きたものと思われます。そこで、道祖神に「猿田彦・天鈿女」の名を彫り込んで、古事記に出てくる神であること、天皇家の降臨に関わりがある神であること、決して邪教ではないことをアピールしたのではないか、と推測されます。


そもそも古事記は、天地の初めから推古天皇に至るまでの歴史書ですが、“天皇の支配の正当性を説くために書かれた本”という側面を持っています。この世のありとあらゆる神々を、天皇家の系譜に組み込むようにして書かれているわけです。

道祖神も、さえの神・くなどの神・ちまたの神、という形で系譜に組み込まれました。「ふだんあなた方が拝んでいる道端の神だって、天皇家ゆかりの神なんだよ。そのくらい、天皇家の支配は正当なものなんだよ」とでも言わんばかりです。

それから長い時がたち、武士の支配が終わって明治維新。古事記は再び、新しい国づくりのため、天皇家支配の正当性を説くために用いられました。そんな中で道祖神も、猿田彦・天鈿女という新しい顔を与えられて、激動の時代を生き続けてきたのだと言えましょう。


諏訪市 四賀 赤沼。文久二年(1862)。円形中区。女神が乳房をあらわにしている。
ちなみに古事記には、アメノウズメが乳房をあらわにして踊るシーンがあるので、このような図柄の道祖神が彫られたのかもしれない。