蚕玉


かいこの神を「蚕玉(こだま)」といいます。その昔、養蚕が盛んだった地域では、蚕玉神、蚕神、蚕玉大神、蚕玉神社、などと書かれた文字碑が多く見られます。なお「蚕」の旧字体で「蠶」を使ったものが多いです。


左:下諏訪町。蠶神。かつて中山道のショートカットだった「塩尻道」沿いにある。
中:富士見町。蠶玉大神。
右:茅野市。蠶玉神社。神の字が異体字になっている。

「玉」の代わりに「魂」を使ったものもあります。


塩尻市 奈良井。蠶魂大神。

ほかに、養蚕神、蚕影(こかげ)などと書かれたものもあります。


左:岡谷市 柴宮。岡谷といえば、かつて製糸産業で非常に栄えた街。「あヽ野麦峠」で、飛騨から女工を連れてきて酷使したことでも有名になった。
右:安曇野市 豊科。蚕影山は茨城県にある霊山。

「神虫」と書いて、「かいこ」と読ませる異体字も、ときどき見かけます。養蚕は、農村地方にとって、現金収入を得られる貴重な産業でした。神の虫と呼ぶくらい大事にされていたことがうかがえます。


左:富士見町。右:辰野町。

かいこの神として、女神が彫られたものを見かけます。波に乗っていて、繭玉(まゆだま)を手にしていることが多いです。この女神の名は「金色(こんじき)大天女」という説もあります。


岡谷市 川岸。中区が繭玉の形をしている。

また、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)が蚕の神であるという説があり、馬に乗った石像も作られています。貧しい人々に衣服をさずけてくれる菩薩です。ちなみに馬鳴菩薩は、実在した人物であるとされています。


辰野町 横川。馬鳴菩薩。ここは辰野町の中でも過疎の進む奥地であるが、こんな立派な像を作るほど、かつては養蚕で潤ったのであろう。

蚕蛾(かいこが)そのものを描いた碑を見つけました。わりと珍しいのではないでしょうか。えさとなる桑の葉や、繭玉も描かれています。


辰野町 宮木 公園内。桑の葉が一枚脱落している。この碑は、もとは諏訪市の上野にあったという昭和四十年代の文献がある。どういう経緯で宮木に移されたのだろうか。上野区でお年寄りに聞き取り調査をしたが、分からなかった。

こんな碑を見つけました。かつて日本の経済を支えていた製糸産業の、実態を描いたルポルタージュ「あヽ野麦峠」にちなんだものだと思います。


辰野町 上野。文字碑「あヽ野麦峠、岡谷製糸、飛騨高山」。どういう経緯でここに建てられたのかは不明。

「あヽ野麦峠」によれば、製糸産業によって得た外貨で、軍艦を買い、国力増強に努めたのだそうです。野麦峠を越えてやってきた乙女たちの手がつむぎ出す、細い絹糸が、まさに国の命をつないでいたのであります。


辰野町 平出 法性神社。「戦艦大和最期の日」。艦長・有賀幸作氏は、辰野町平出の出身であった。沖縄戦に向かう途中、ヤマトは米軍の激しい空襲を受けた。有賀氏は、自らの体を羅針盤に縛りつけ、艦とともに海中に沈んだと伝えられており、帽子だけが靖国神社に残っている。辰野町民は、この碑を見るたびに、戦争の悲劇を再び繰り返さないことを誓わねばならぬ。