道祖神盗み


道祖神に彫り込まれた年号を、鵜呑みにしてはいけない、と言われています。なぜなら、かつて「道祖神盗み」と呼ばれる風習があり、同じ道祖神がずっとその場所にあったとは限らないからです。

盗まれた後に、新たに作り直すとき、前の年号を彫り込むこともあったらしいのです。それで「永正二年」という年号も、後代に作り直したときに彫ったのではないか、と疑われています。


特に安曇野・松本平では、道祖神盗みが盛んだったようです。「力石」のところでお話ししましたが、力を持てあました若者たちが、道祖神を担ぎ上げて、隣の村まで運んでしまうのです。それで、盗難防止のために、大型の道祖神を作ったり、柵を作ったりすることが多かったようです。


安曇野市 豊科 光 野田。明治二十六年(1893)。円形中区。酒器像。木製の柵で守られている。

もし、それでも道祖神を盗むならば、「帯代(おびだい、結納金のこと)」を置いてゆけ、という習慣もありました。立派な道祖神があるということは、村が栄えている証拠ですから、他の村が欲しがるわけです。そうやって他の村に「嫁入り」していった道祖神が、けっこうあるようです。


松本市 島立 町村。右はその側面。「金十五両」と読める。

他の地域にも、道祖神盗みにまつわる話が、いろいろと伝わっています。

茅野市 南大塩の伝承によれば、「その昔、子宝に恵まれない集落があった。そこで隣の集落から、陽石を奪ってきて祭ったところ、子宝に恵まれるようになった」と伝えられています。現在では、奪い返して、もとの集落に戻っています。


茅野市 南大塩。双体道祖神のわきに祭られている陽石が「子宝道祖神」と言われている。

伊那市 長谷の伝承によれば、「その昔、他の村から来た人が、延享二年(1746)の銘のある道祖神を盗んでいった。このあたりでは、十三夜の夜には、盗みごとをしても罪にならないという習慣があった」と伝えられています。現在では、のちに寄贈された道祖神が祭られています。


伊那市 長谷 中尾。後年になって寄贈された小さなレリーフのような道祖神が、はめ込まれている。なんともアンバランスな感じを受ける。

辰野町 万五郎(まぐろ)の道祖神は、鶴亀を彫った非常に珍しいデザインのものとして知られていますが、もともとは辰野町 鴻ノ田(こうのた)にあったらしいのです。現在鴻ノ田には、盗まれないように、磨崖(まがい、岩に直接彫ったもの)の道祖神が刻まれています。


左:辰野町 万五郎。万延元年(1860)。頭上に鶴が羽ばたく。足元に亀が彫られているはずだが、現在は土に埋まって見えない。なお、この「万延元年」は、盗んできたときの年号を彫ったものだという。
右:辰野町 鴻ノ田。磨崖道祖神。松本市に多い跪坐像で彫られている。岩に直接彫ってあるので、これで二度と盗まれることはないだろう。ただし、現在では隣りにもう一つ円形中区の道祖神が祭られている。

諏訪市の甲州街道沿いには、盗難対策として、石で屋根を作ったものがあります。


諏訪市 四賀 神戸。石の屋形に収められている。これなら、うかつに盗めまい。