干支(かんし)とは、十干・十二支の組み合わせのことで、十干は、
甲(きのえ)、乙(きのと)、
丙(ひのえ)、丁(ひのと)、
戊(つちのえ)、己(つちのと)、
庚(かのえ)、辛(かのと)、
壬(みずのえ)、癸(みずのと)
これは「え」と「と」の一対になっているので「えと」という言葉の語源になっています。それから十二支は、
子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、
卯(う)、辰(たつ)、未(み)、
午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、
酉(とり)、戌(いぬ)、亥(ゐ)
現在では、なぜかこちらのほうが「えと」と呼ばれるようになってしまいました。十干と十二支の最小公倍数、すなわち60とおりの組み合わせがあるのですが、甲子(きのえね)から始まって、乙丑(きのとうし)、丙寅(ひのえとら)・・・というように用います。
永正二年の道祖神が、疑われている理由のひとつに、「干支が入っていない」ということが挙げられます。永正二年は乙丑(きのと・うし)のはず。したがって「永正二 乙丑 年」と書かれるのが普通なのです。
干支が入っていない。
現代では、年号と西暦を「平成二十年(2008年)」のように併記することが多いのですが、昔は、西暦のかわりに干支を併記したのです。そのメリットは、次の2つが考えられます。
(1)年号は、数年でころころと変わるものだったので、連続した年の数え方が必要だった。干支を使えば、60年間を連続して数えることができる。
(2)年号は、国内でしか通用しないが、干支は、中国大陸や朝鮮半島でも通用する、国際的な年の数え方であった。
干支は、殷の時代から脈々と使われ続けているものだそうですが、近代に入り、西暦が広まるにしたがって、干支の必要性がなくなっていったのでしょう。親しみやすい動物の部分(ね・うし・とら・・・)だけが、いわばその年のマスコット的なキャラクターとして、現代に生き残っています。
道祖神は、村で金を出し合って立てる物です。ちゃんとした石工に依頼して彫ってもらうものですから、干支を入れ忘れるということは、ほとんど考えにくいのです。だとしたら、次の2つしか考えられません。
<仮説1>
像の左右に「永正二年・入沢底中」と四文字ずつ刻むのが、バランスがよい。もしこれが「永正二 乙丑 年・入沢底中」だと、バランスが悪いので、美的センスにしたがって四文字ずつにしてしまったのかもしれない。
<仮説2>
道祖神に、制作年や村名を刻み入れるのは必須ではない。実際、制作年や村名の入っていない道祖神のほうが多いのである。沢底の道祖神も、もとは制作年・村名の入っていないものだったのかもしれない。
しかし、道祖神盗みが流行するにつれ、盗難防止のために制作年や村名を彫り込んでおく必要が出てきた。「この道祖神は永正二年にできた」という言い伝えが、村にあったのだろう。ただし、過去にさかのぼって、干支が何であったのか調べるのは、非常に面倒なことである。そこでやむをえず、「永正二年・入沢底中」とだけ刻み込んだのではないだろうか。