井月連句読解
~俳句を読むだけでは不十分。連句を読まなければ井月は理解できない~

概要


<幕末 修行をやり遂げて俳諧師に>

行脚修行のために伊那谷に現れた若き井月は、飯田と高遠の中間地点である中川村を活動拠点とし、最初の俳諧集『紅葉の摺もの』を刊行した。これはそのころの連句である。

連句3 文久2年秋・中川村四徳にて(表六句)

翌年、井月は高遠で第二俳諧集『越後獅子』を刊行。恐れ多くも藩の重臣に序文を書いてもらう機会に恵まれた。一体なにがあったのか。この連句は、そのときの事情を物語っている。

連句1 文久3年夏・伊那市高遠にて(表六句)

さらに翌年、北信濃で第三俳諧集『家づと州』を刊行。この本を手土産に、井月はいったん越後へ帰って母親の喪を果たしたという。そのときの送別の連句が、これである。

連句11 元治元年秋・長野市善光寺にて(半歌仙)

三年連続の俳諧集刊行という快挙を成し遂げた井月。今後は、伊那谷だけでなく、北信濃にも活動拠点を作って、さらに活躍しようと考えていたのだろう。この連句は、そのころのものである。

連句18 元治2年新春・長野市中条にて(歌仙)


<明治初期 前途洋々のはずが放浪生活へ>

戊辰戦争が勃発し、故郷の長岡は新政府軍に焼かれてしまう。明治初年、井月は故郷から遠く離れた伊那谷に再び現れ、この地で生きていくことにしたのだろう。そのころの連句がこれであり、活動拠点を中川村から伊那市東春近のほうへ移したようだ。

連句46 明治2年・伊那市東春近にて(歌仙)

明治五年、新政府は戸籍法を施行。井月は越後へ戸籍を取りに行くことになり、盛大な送別会を開いた。しかしそれが失敗の始まりだった。大赤字を出し、井月は多額の借金をかかえてしまう。これは、そんな大変な時期の連句。深刻なことは何一つ書かれていないが、このあと井月は放浪生活へ転落することになる。

連句48 明治6年・伊那市東春近にて(歌仙)

放浪生活に甘んじながらも、明治九年ごろの井月は精力的に活動し、数多くの仕事をこなしている。また、東京へ出てもうひと花咲かせたいという、新たな夢も持ち始めていた。これはそのころの連句である。

連句26 明治9年・伊那市福島にて(歌仙)


<明治十年~ 北信濃と伊那谷を行ったり来たり>

明治十年の新春、井月は放浪生活を打開しようと思ったのだろうか、北信濃を訪れている。この連句は、旅立つ直前の、明治九年十二月二十七日に行われたもの。

連句27 明治9年冬・伊那市手良にて(半歌仙、未完)

明治十年の井月は、伊那の俳人たちと盛んに連句をおこなっている。北信濃への訪問で刺激を受けて、創作意欲に火が付いたか。中でも、伊那市狐島の馬場凌冬という著名俳人の家から数多くの連句が見つかっており、これはその一つ。

連句52 明治10年前後か・伊那市狐島にて(歌仙)

明治十二年、井月は再び北信濃を訪れている。この連句は、旅立つ前にお別れの意味を込めておこなったものだろう。

連句65 明治12年春・伊那市福島にて(歌仙)

北信濃の中条で、空いているお堂を見つけて草庵にしようと画策した井月だったが、うまくいかなかったらしい。さらに北へ向かい、飯山市瑞穂に脚をとめた。この連句は、そのときのものである。

連句35 明治12年夏・飯山市瑞穂にて(歌仙)

明治十五年、井月は伊那市西春近の加納有隣という若き俳人と二人で、ささやかな新春の句会をおこなっている。この連句はそのときのもの。井月にとって激動の年となる明治十五年の始まりである。

連句37 明治15年・伊那市西春近にて(歌仙)


<明治十六年~ 伊那谷に骨を埋める覚悟>

北信濃で酒でしくじった井月は、伊那谷に舞い戻ってすぐ、連句の会に参加している。対立していた凌冬の一派と、仲直りするためであろう。

連句42 明治16年春・伊那市坂下にて(半歌仙)

生涯の総決算として、俳諧集の刊行を目指していた井月。だが、もはや井月自身の力では実現できず、仲間たちが『余波の水くき』という本を作ってやったのである。その後刷りに載っている連句。

連句45 明治18年秋か・伊那市美篶にて(半歌仙)




(少しずつ増やしていくつもりです)


《筆者紹介》
一ノ瀬武志
井月の個人研究家として執筆・講演多数。著書に『手紙で読み解く 井月の人生』など。

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