井月の連句を読み解く連句は、五七五→七七→五七五→七七・・・というように、みんなで句をつないでいく「集団創作」です。井月は連句の達人でした。おどろくべき速さで句をつなぐことができたようです。しかし明治以降、個人文芸としての「俳句」が主流になり、集団創作である連句は、駆逐されていきました。ですから井月は、「連句の時代の最後のきらめきを放ちながら活躍した俳諧師」と言えるでしょう。
われわれ現代人は、連句の面白さがわかりません。わからないことは、わかるようにしたい、と思って、自分なりに連句の解釈に挑みました。井月は、実に67巻にもおよぶ膨大な連句を残しています。それを一冊の本にまとめましたので、よろしければお読みください。きっと、トボトボ歩くしょぼくれた井月ではなく、達人・井月の、生き生きとした姿が見えてくるはずです。
『井月の連句を読み解く』(ほおずき書籍)私がこの本を世に出した理由は、あとがきにも書きましたが、「この拙いものを我慢して読んでいただき、もっとよい解釈を試みていただきたい」と願ったからです。
たとえば、井月も愛読していた芭蕉の『俳諧七部集』は、過去300年間に数限りない解釈が試みられ、たくさんの注釈書が出ています。なかには、「あの人はこう解釈してるが、見当はずれも甚だしい」だとか、「そういう解釈も出来なくはないが、あまりに薄っぺらである」といったように、辛辣な言葉で激論を戦わせている本もあります。芭蕉の『俳諧七部集』は、そこまで研究者たちを本気にさせる、魅力をもっているのでしょう。
いっぽう、井月の連句はどうでしょう。『井月全集』に膨大なページ数を割いて載っているのに、ほとんど読まれず、議論の対象にもならない。こんな状況でよいのでしょうか。だからこそ、最初の一石を投じるつもりで、恥ずかしながら本を出しました。
願わくは、「一ノ瀬はこう解釈しているが、まことに見当はずれである」とか、「薄っぺらな解釈で話にならない」だとか、辛辣なご意見が出てきてほしいですし、そういう激論を何十年・何百年もかけて重ねることで、ようやく井月の評価が定まってくると思うのです。連句には、たくさんの決まり事があり、また「○○付け」といった“付け筋”の技法がたくさんあるのですが、この本では、あえて論じていません。それよりも、平易な言葉で書きつづり、連句の読者の間口を広げることが重要だと考えました。面白そうなものを、以下にいくつか紹介しますので、興味を持っていただけたら幸いです。
◆井月の人生の一場面が読み取れる連句◆
来る年も巣は爰ぞかし行乙鳥 梅塘
花にこゝろの残るそば畑 井月
梅塘は、善光寺の宿坊の住職。「伊那谷へ旅立つ井月さんよ、来年もこの巣に戻ってきておくれ」という送別の句です。
善光寺といえば、そばが名物。そこで井月は、「そばの花が咲いているのに、実りを待たずに旅立つのが心残りです」と付けました。上空のつばめに対し、地上に広がるそば畑を付け加えたことで、景色がぐんと広がっています。
出来立の越後縮の目に立て 梅春
刃ものゝ疵の汗拭ふ也 井月
越後ちぢみは、夏の着物に使われる高級な布地で、さらりと通気性が良く、越後の特産品として知られています。
井月は、汗をぬぐう仕草を付けました。着物の袖口をめくると、腕には刀傷が生々しく付いています。戊辰戦争のときに受けた傷でしょうか。井月は、いくさで傷ついた故郷の越後の様子を、この一句に込めたのかも知れません。
立そこね帰り後れて行乙鳥 井月
昼から晴て酒を盛る月 文軽
井月は、故郷の越後に帰る帰ると言いながら、いつまでたっても帰りませんでした。自分自身を「帰り遅れたつばめ」にたとえて詠んだ句です。
文軽は、「つばめは帰って行くのに、井月さんは今日も帰らず、昼間から酒を飲んで、ずるずると暮らしていますね」という意味で付けたのでしょう。井月のだらしなさをチクリと盛り込んだところが面白いと思います。たぶん井月も「やられた」と思ったでしょう。
返らぬは死に害ねたる不忠もの 井月
朽し花表に新しき宮 凌冬
不忠とは、主君の命令に背くことです。戊辰戦争から逃げ出した武士の様子でしょうか。北村皆雄監督による映画『ほかいびと』では、不忠者という言葉に苦しみぬく井月の様子が描かれていました。
凌冬は、いくさで荒れ果てた故郷にも、今ごろは新しいお宮が建っているだろう、と付けました。「いつまでもくよくよするな、新しい世の中になったのだから」といった励ましの言葉のようにも思えます。
◆井月の暮らしぶりが表れている連句◆蚊一つが耳に付ては眠られぬ 富哉
さぐり当たる徳利重たき 井月
寝苦しい夏の夜です。耳元でプーンと蚊が飛ぶと、思わず身をひるがえしてしまいます。
井月は、寝付けないので、ごそごそと暗闇の中で酒を探す様子を付けました。すると幸運なことに、とっくりには酒がいっぱい残っていた、というわけです。酒好きの井月の、「しめた」という顔が目に浮かぶような句です。
醒てから悔むきのふの友はぐれ 亀遊
折も有ふに葬の出がしら 井月
酔った勢いで、喧嘩別れをしたのでしょうか。「あいつ、今ごろどうしているだろう」と、ふと心配がよぎります。
井月は、葬列に出くわした様子を付けました。昨日の喧嘩と、今日の葬列には、因果関係がないはずですが、二つの出来事を並べることで、「なんとなく嫌な予感がする」といった心理を上手に描いていると思います。井月は若いころ、史山という旅の友がいたという説がありますので、ときにはこんな喧嘩をしたのかも知れません。
沢水の流るゝ音も躬に入て 凌冬
古屋の売をきゝ合すなり 井月
夏には涼しげだった水音も、冬になれば冷たく身にしみるように感じられます。
井月は、ちょうどそんな頃、いい物件が売りに出ている様子を付けました。旅暮らしの井月にとって、冬はつらい季節であり、家が買えたらなぁと思ったのでしょう。「芭蕉堂がほしい」と言い続けていた井月ですから、不動産情報には敏感だったのかも知れません。
望れて向ふ連歌の初りに 井月
丼で呑酔ざめの水 富哉
井月が、俳諧師として招かれて、これから連句の会が始まるのでしょう。
富哉は、酔い覚ましの水をごくごくと飲む様子を付けました。普段はだらしない酒飲みの井月が、これから本気を見せるぞ、といった場面です。
◆ユーモアのセンスあふれる連句◆
くふ柿もくふ柿もみな甘くなし 露鶴
眉をかゝれし犬の尾をふる 井月
柿をかじっては吐き出し、また別の柿をかじっては吐き出す、といった様子です。柿の木に登って盗み食いをする少年でしょうか。
井月は、庭の番犬を付けました。吠えるどころか、眉にいたずら書きをされても、しっぽを振っている、というわけです。役に立たない番犬の、おかしな顔が目に浮かぶでしょう。
今更に引れぬ恋の人頼み 凌冬
河豚とうなづく窓の目くばせ 井月
恋を取り持ってもらおうと、人に頼んだ様子です。意中の女性を誘い出してほしい、といった頼みでしょうか。
井月は、その見返りとして「ふぐを食べさせる約束」を付けました。「手はず通りにやってくれよ」「まかせとけ、成功したら、ふぐだぞ」と、目と目で会話する様子が、なんともおかしいです。
ひつそりと物おともなく月凉て 凌冬
厠をのぞく咳の挨拶 井月
虫の声もしなくなった、晩秋の景色でしょう。月明かりが冷たく照らしています。
井月は、冷えるので小便がしたくなった様子を付けました。美しい月夜から、下品な便所の場面へ急降下するところが、なんとも飄々としていて面白いです。でも、便所には先客がいました。物音ひとつしない夜に、咳払いの音をひとつ添えたことで、静けさが一層引き立っています。
ぬきさふにしては手間取居合抜 禾圃
水に影さす柳はらはら 井月
居合抜きの見世物を、道端でやっているのでしょう。見物人が集まっています。ところが、もったいつけてなかなか抜きません。
井月は、はらはらしながら見守る見物人と、道端の水路の柳がはらはら揺れる様子を、かけて付けました。ときにはこういった単なる駄洒落のような付け方をして、連句の座をなごませることもあったのでしょう。
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