薄明の野に
喩、を超えてゆく意志
糸田ともよ「水の列車」を読む
磯村 健
薄明の野にみたされた光は水のように淡く、戯れるようにゆれながら、けれど乾き、そこをあゆむひとのあゆみは、夢遊するひとの、そしてなにかをもとめつづける巡礼者のあゆみに似て、そしてあまりにもひたむきで、みているものの胸を衝かずにはいない。
なぜ胸を衝かれるのか。
触れられることを怖れながら逃げることなくそこにたちつくす無防備の、ありつづけるために感覚するためには無防備でなければならなかった存在。魂よりも淡い(個、に収斂せず拡散しつつある、という意味で)霊のようなもののもとめた、のがれようもなく切実な表現、というもの。
その表現する、という行為にともなう避けがたい齟齬が、軋むような違和があらたなくるしみを生み続け‥‥
喩、に逃げ込むことは、歌を作るものにとって最大の誘惑のひとつであるのかもしれない。ともかくもそれで歌のかたちはまとまるのだから。
しかし、喩にとどまることの安易、の意味を、歌をよむものはすくなくとも問い続けなくてはいけないとおもう。
そして、その問い続けるということには、酔いから覚醒に向かうときのような、病いに似た気分をともなうものなのだ。
そして、手がかりはやはり感覚しかないのだろう。自らの病いのありさまにとどくためには。
そして、みずからの感覚に溺れないだけの一種の体力も必要だろう。糸田さんは息を止め、さらに耐え切れぬまでの深みにゆこうとする。
そのすがたを、ぼくも息を止めてみまもるほかはないのだが。
爪先で渉る歳月 水底にうすく重なる青い耳あり
その青い耳の、粘液にも似た触感は足の指から伝わり、からだを支配する。それは全体的な状況というべきもので、「歳月」をみずからのからだに飽和させつつ取り込む行為、なのである。ここには「喩」の距離は存在しない。肉体化し奥深く感覚化された「喩」はもはや「喩」ではないのだから。
さらに、糸田さんの「水の列車」には未踏の希有、と呼ぶべきうたを幾つも含んでいる。
風景とともに剥がれて飛ぶ車窓 天に吸われる花びらのごと
透明な鏡のような車窓。吸う吐息。
岐路うるむ灯下に佇み聴いていた胸の漂砂に混じる硝子を
砂と硝子は溶けあうように軋み
立棺のエレベーターに眼を眼を閉じて花茎をのぼる雨水のこころ
閉じられた眼の広げる空間、その移動
言葉だけが先に起きだし私を裏切ってゆく 空いっぱいの冬の蝶
もはや言葉はわたしを離れて、手のとどかない空に
ベッドから垂らす手首は水の輪に吸われ硝子の魚群あつまる
境界のない薄闇は碧、硝子の硬質なきらめき
海のようにシーツをめくるとあるのです 羽化したばかりのやわらかい不在
あかるいブルーグレイの、不在によって証明される存在
死の夢へ傾ぐからだをたてなおす尾ひれの波にゆられる夕ぐれ
「…ゆられる」という受け身の主体は、その夕ぐれ。わたしのおこす波に。
人声は驟雨にやぶれる翅の音 夢の中から犬がついてくる
あいてのいない呼びかけは乾いたつぶやきににて、生み出されてしまったものが‥‥
回転数くるう「雨だれ」ともに聴く家族である日の半煮えの耳
いつまでも硬い軟骨のような、異和。
なめらかな流木の手に抱きしめられて姿を変える石のいくつか
静かな流れの中の、変容。
真夜中に蔵い忘れた牛乳の人肌の温みとろとろ捨てる
そのぬくもりの、あるいは淡い憎悪にも似て。
水銀柱 無数に昇る夜の縁に靴をそろえて濤音を聴く
いつのまにかあゆみよっていた自死のあかるさ
四つ角より痛み少女の隠し抱くカバー無き文庫本の肌色
その肌色。時空的ですらあるほどの。
夜明けまで月の吊り橋漕ぐ子等の笑い声降る白き紙の野
そこですべてが途絶えてゆく「白き紙の野」
乾ききる坂道病める舌のごと虚空より垂れわれを水辺へ
誘われてゆくさきの、放棄、あるいは放心。
剪られたる樹に幻影枝その枝に弾かれて翔つ禽かもしれず
わななきつづける不在。鳥も骸めき‥
魂の副木抜かれてゆくような秋冷 そっと門がひらかれ
つらぬかれる痛みと虚脱。とおくできこえる笑い。
舟影の水紋ゆらめく水の脳 みずの麻酔にあわくあらがい
眠りにおちてゆくつかのま、あるいは昏睡と不眠のあわい。
これらの歌があまりに隔絶しているために、ここに挙げなかったうたに批評を呼び込む隙がないとはいわない。
また、現代の短歌の病である、発想の定型化、事象操作の定型化から免れていない可能性のある歌も、あるいはそれらのうたに混じっているのかもしれない。
けれども、ここに挙げた歌はやはり孤高とよべるはど比類がない。そしてその隔絶は、一種の断念によって支えられている、ということは言えるのだろうか。あるいは自己の放棄、といってよいものに。
そしておそらくはコミュニケートに向かうことのない言葉、言い換えれば自己顕示の汚濁を含まない言葉は、どこにも吸い込まれることなく墜ちることなくそこにありつづけることができる。そしてそのような言葉は、糸田さんにとって、ほとんど自分の分身とも言うべき探査子なのであろう。その探査は閉じた自己の内側に向けられるようでいて、そうではない。
アイデンティティクライシスを超え、その言葉という探査機のいまも飛びつづけているのは、ひとのひとりたつ世界の、同時に僕たちの共有する大空の無窮なのである。