親愛なるサムへ
先日、片岡義男の『白いプラスティックのフォーク』(NHK出版)という本を読んだ。食についてのエッセイ集なのだが、その中に「スープはどうなさいますか」という小題の文章があって、こんな一節があった。
「日本でのもっとも平凡な生きかたとされてきたサラリーマンが、ひと頃は企業戦士と呼ばれた。戦士たちの現状には敗色の彩りが濃い。戦後の日本は人々がぼけるほどに平和だった、と誰もが言うけれど、平和だからこそ遂行することの可能な戦争、という種類の戦争が続いてきて、いまも誰もがその戦中にあるのではないか」
本が出されたのは2005年だから、「戦士たちの現状」とは4年前だと考えていいと思う。少なくとも「敗色」は今と同じぐらいか、今のほうがもっと悪いだろう。
片岡義男は、「平和だからこそ遂行することの可能な戦争」がどういったものなのか、具体的なことは何も書いていない。でも、そのとき僕の頭に浮かんだのは、菊地成孔が書いた加藤和彦の追悼文の一節だった。
菊地氏は2009年10月19日付の自身のブログで、加藤和彦が鬱病と診断されていたことに触れ、この病の克服に社会の全セクションが取り組むべきだと前置きした上で次のように書いている。
「あの、素晴らしい愛をもう一度。という痛切な『フォークのメッセージ』は、現在『ずっとそばにいるよ』『一生守ってみせる』『声を聞かないと不安になる』に変質してしまいました。我々は、アンチエイジングなどしている場合ではない。大人という、非常に贅沢な演技が全うでき、老人という、非常に贅沢な本質が全うできる社会を取り戻すために、全セクション総力を上げて闘って行かねばならないのです」
この中で僕の目を引いたのは、「ずっとそばにいるよ」、「一生守ってみせる」、「声を聞かないと不安になる」というメッセージが現在の特質だ、と指摘しているところだ。
というのは僕も、これらのメッセージにある種の気持ち悪さを感じていたからだ。その気持ち悪さの理由がわからないまま、一体いつの時代から「一生守ってみせる」という言葉は流布したのだろう、とずっと疑問に思っていた。でも、冒頭の片岡義男の文章を読んで、ふと思いついた。
「ずっとそばにいるよ」、「一生守ってみせる」、「声を聞かないと不安になる」という言葉は、じつは「戦場」で交わされているメッセージではないか。ずっとそばについて、誰かを守る必要があって、声が聞こえなくなると不安になる、そういう場所があるとしたら、「戦場」以外に考えられないのではないか。
僕が感じていた気持ち悪さとは、これらのメッセージの中身にあるのではなく、一見平和に思えるこの社会の中で、それらの言葉がまるで銃弾や砲弾の飛び交う戦場をイメージさせる、そのことにあるのかもしれない。
「あの素晴しい愛をもう一度」という曲はある意味で、「あの素晴しい愛」を回顧し、「もう一度」と希求できる社会を歌っていると言える。「あの」と言うとき、その社会にいる誰もが共通して思い描ける愛の姿があり、たとえ、心を通わせあうことができなくなったとしても、再び他の誰かと絆を結べることが前提としてある。これはそういう時代の歌なのだ。それは「信頼のインフラストラクチャ」を備えた社会と言ってもいいかもしれない。
しかし、現在の我々は、恋人に「ずっとそばにいて一生守ってみせる」と訴え続ける必要があるほど、社会の基盤となる信頼関係が破壊されているように見える。本当なら我々は、恋人がずっとそばにいなくても、守ってみせると言われなくても、声が聞くことができなくても、過剰に不安になったりせずに生きていけるだけの信頼関係をその社会、つまり恋人や家族以外の他の誰かに持ちうるはずなのだ。それは道ばたで倒れたとき、そばに恋人がいなくても、見知らぬ人が手を差し伸べてくれる社会である。我々が誰かを愛したり、誰かに愛されたりするなら、そういう場所のほうが戦場よりもはるかに幸せなはずなのだ。
もしも、我々が戦場にいるのだとしたら、それはどんな戦争なのか。我々は誰と戦っているのか、何と戦っているのか。ひょっとして、我々が戦っている相手は、我々自身の「心」ではないのか。我々は自分自身の心に爆撃を加え、粉々に破壊し、廃墟にしようとしているのではないか。何のためにそんな戦いをする必要があるのかはわからない。ただ、「平和だからこそ遂行することの可能な戦争」とはそんな戦争に思える。そして、「ずっとそばにいて一生守ってみせる」という言葉は、今まさに破壊されかけている心が、やはり破壊されかけている他の心へ呼びかける叫び声に聞こえる。
すべては僕の思い過ごしであればいいと思う。でも、そんな気がしてならないんだよ、サム。
2009年10月27日 火曜日
親愛なるサムへ
人ひとりがやっと通れる幅の小さな路地を歩いていた。時刻は夜の八時を回っていたかもしれない。飲食店が立ち並ぶ界隈だったが、くしゃみをしている間に通り抜けられそうな、この短い小道だけはひっそりとしていて、居酒屋の提灯がひとつ付いているほかは、灯かりらしい灯かりもなかった。
路地の途中の建物に、隠れるように小さな階段がついている。倉庫なんだろうか。そのまま通りすぎた。通りすぎた後になって、何かがおかしいと思った。一坪あれば商売になるような土地なのだ。こんなところにわざわざ倉庫なんて作るわけがない。仮に作ったとしても、階段を取りつける理由はない。地面が一段高くなっている場所で、荷物が水につかる心配はなかったからだ。
気になって階段のところまで引き返した。非常階段のような鉄のステップ。幅は大人の肩幅ぐらい。階段をのぼりきったところに、やはり鉄のドアがついている。思わせぶりなドアだった。
ただの倉庫には見えなかった。どこかの店の勝手口にしてはドアは立派すぎた。非合法のカジノだろうかとも思ったが、それにしては無防備だった。もしも何かの事務所だとしたら、謝ってそのまま逃げればいい。そこまで考えると、僕は好奇心を抑えきれずにドアを開けた。明るい光とともに、トランペットの音があふれてきた。
半ば予想はしていたが、そこはバーだった。ドアの向こうにも続いてる階段は、もう鉄のステップではなく上品な木目に変わっていた。バーテンダーが上から、ちらっと顔をのぞかせたので、僕は彼に引き寄せられるように階段を上った。すべて上りきると、白い塗装で壁が統一された、カウンターだけの細長い店内が見渡せた。
「いらっしゃいませ」
とバーテンダーが声をかけてきた。店の中には彼ひとりしかいなかった。カウンターの端のターンテーブルの脇には、中身を抜き取られたマイルス・デイヴィスのレコード・ジャケットが置かれていた。
「飲めますか?」
「もちろんです。どうぞ、お好きな席に」
僕はカウンターの中ほどのスツールに腰かけた。よく磨かれた白木のカウンターはしっとりとしていて、手のひらを置くと吸いつくようだ。オーセンティックなバーにはよくある話だが、メニューはなかった。僕はジントニックを注文した。
「いらっしゃるのは初めてですね」
とバーテンダーが訊いた。黒いスラックスに白いシャツ、喉元には蝶ネクタイが留まっている。僕よりも二つ三つ年上だろうか。オールバックにした額がかなり禿げていた。変なところに階段があるから、気になってドアを開けてみたのだ、と僕は正直に答えた。
「どなたの紹介もなしに来られる方は珍しいです」
とバーテンダーは笑いながら、薄手のグラスに入ったジントニックを僕の前に差し出した。ジントニックなどは誰が作っても同じようなものなのに、なぜか店ごとに味が違う。出されたジントニックはエッジが効いていて、風の吹き抜ける夏の木立ちにいるような気分にさせた。
「ふつうは店があるなんて気がつかないでしょうね。僕も最初は通りすぎた」
「隠れ家みたいだって言われるんですけどね、隠れすぎてお客さんが来ないんです。今日もどうしようかと思っていました」
ひとりで飲みにくる客にとって、バーテンダーがひまそうにしている店というのはありがたいものだ。カウンターの前に座って、酒を飲んでいるだけで、功徳を積んでいる気分になれる。
結局、その日は三杯ほど飲んで店を出た。メニューがないので飲んでいるときには値段もわからなかったが、彼が最後に差し出した金額は、思っていたほど高くはなかった。
僕はそれからちょくちょくとこのバーに通った。たいていは土曜日の宵の口にひとりで入った。平日よりも土曜日のほうが客が少なかったからだ。夜の七時ぐらいに店に入り、グラス三杯か四杯ほどを飲み、九時になる頃には店を出た。その間に一度も他の客が来ないときもあった。ときどき、店のオーナーがやってきて、カウンターの端で帳簿をつけたりしていた。
客の少ないそんな店だったから、作れないカクテルもあった。僕はあるとき、グラスホッパーを頼んだ。ペパーミント・リキュールとカカオ・リキュール、それに生クリームをシェイクしたものだ。
「グラスホッパーはできないんです。生クリームがないから」
「そうなの」
「ええ、生クリームは足が早いでしょ。そのわりに値段がかかるから置いてないんです」
だから、アレクサンダーも作れないのだと言った。しみったれた理由だったが、店の様子を知ってしまうと、むべなるかなだった。
その頃になると、僕はこのバーテンダーの名前も教えてもらっていたし、出身地も聞いていた。昔、どんな仕事をしていたかもわかっていた。店にいる間、我々はどちらもひまだったので、お互いのことをよく話した。そして、お互いのことを語る合い間に、くだらない話ばかりしていた。
「このあいだ、顔なじみのお客さんが血まみれになって入ってきましてね。どうしたんですか、喧嘩でもしたんですかって聞いたら、ついさっきまで女王様に鞭でしばかれてたって、こう言うんですわ」
バーテンダーはそう言って、クククと笑う。僕はそんな話を聞きながら、マティーニを飲み、ギムレットを飲み、ピスタチオをかじり、「ワルツ・フォー・デビー」のレコードに耳を傾け、名前のわからないカクテルを飲み、名前のついていないツマミを口に運んだ。料理を作れるほどのスペースはなかったので、ツマミは乾きものかチーズ、たまにオーブントースターで焼いたクロックムッシュみたいなものを出してくれることもあった。
今から思えばちっぽけな悩みだったが、当時の僕は慣れない環境に入ったばかりで、右も左もわからずに神経をすり減らしていた。いつでも木枯らしの吹きすさんでいる荒野でコートの襟を立てている気分だった。だから、このバーカウンターで過ごす時間は、木枯らしが一瞬だけ止んだ、小春日和の陽だまりに似ていた。僕はその陽だまりの中にいる間だけ木枯らしのことを忘れたし、無聊をかこっているバーテンダーを慰めに行っているようで、本当に慰められているのは僕のほうだった。
いつもみたいにこの店に入っても、頼みたい酒の名前がまるで浮かんでこないときがあった。疲れているせいで頭が回っていなかったのかもしれない。身体は酸味と甘みを欲しがっていた。僕は彼に、グレープフルーツを使った甘めのカクテルで、ソーダで割ったものを作ってくれないかと頼んだ。
彼はかしこまりましたと言うと、グレープフルーツを半分に切ってスクイーザーでぎゅぎゅっと絞りだした。それからカウンターの上に空のグラスを置き、氷を沈めると、深い紫色をしたクレーム・ド・カシスを注いだ。そこに絞ったばかりのグレープフルーツ・ジュースを、余分な繊維が混じらないように茶こしで漉しながら加えた。何という名前のカクテルなのか、と僕は尋ねた。
「シャーリー・テンプルって言うんです」
とバーテンダーは教えてくれた。アメリカのかつての子役女優の名前がつけられたこの飲み物は、ふつうはノンアルコールのカクテルとして知られている。ただ、今作ってくれているのはクレーム・ド・カシスがベースだから、アルコールが入っている。後でわかったことだが、このアルコールベースのシャーリー・テンプルは京都が発祥らしい。もしかすると、関西地方だけで飲まれているのかもしれない。
彼は最後にソーダを静かに注ぐと、僕の前にグラスを差し出した。グラデーションが掛かった赤紫色のグラスの中に、桟橋を離れる船のスクリューがかきたてるような泡が立っていた。それは夕日が沈んでいく港の海を思わせた。
口をつけると、カシスの甘ったるさがグレープフルーツの酸味で中和され、グレープフルーツのとげとげしさがカシスの甘みでまろやかになっていた。そしてソーダの泡が甘みと酸味を血管にのせて、身体のすみずみまで運んでいくような気がした。
「うまいですね」
「そうですよね」
と彼はまるで他人が作ったような口ぶりで言った。僕はおかわりをした。
その後も店に行くたびに、僕はシャーリー・テンプルを頼んだ。他の客にもこのカクテルを差し出しているのを見かけたことがある。それでだんだんと、これが彼の得意なカクテルなのだということがわかってきた。たしかに彼にしか出せない味なのかもしれない。僕は同じ材料を揃えて、茶こしも用意して自分で作ってみたことがあるが、甘すぎたり酸っぱすぎたりして彼と同じようにはいかなかった。グラスの色も、赤潮にやられたカキ漁の海みたいになったりした。
この店に足を向けなくなったのに、深い理由はなかった。僕のまわりで吹きすさんでいた木枯らしは徐々に弱まり、以前ほど小春日和の陽だまりを必要としなくなっていたせいかもしれない。あるいは、彼の店に客足が増えだしたせいかもしれない。土曜日の早い時間に訪れても、カウンターの半分が埋まっていることがあった。むろん、この店が繁盛するのは僕にとってもうれしいことだった。つぶれてしまったら二度と足を踏み入れることができない。しかし、以前のように二人だけで下世話な話をする機会がなくなったのは、たしかに淋しくもあった。どちらにせよ、バーの客というのは勝手なもので、毎日のように訪れていたのに何の前触れもなく来なくなったかと思うと、三年ぶりぐらいに、まるで昨夜訪れたばかりのような顔をしてやってくるものだ。
今でもときどき、あのシャーリー・テンプルの夕暮れの海の色を思い出す。僕のいないバーで、彼は今日もそれを作っているだろう。そして、木枯らしの中での陽だまりの日々は、たとえ僕が再び木枯らしに吹きさらされることがあったとしても、そこにはいつでも陽だまりがあることを思い出させてくれるのだ。
2009年10月23日 金曜日
親愛なるサムへ
屋上駐車場にはすでに数台の車しか停まっていなかった。いや、たとえ数台でも車が停まっている方がおかしかった。すでに店の営業は1時間前に終了していたし、何よりも今夜は大晦日だ。たいていの客は大晦日に車を放置したまま帰ったりしない。
しかし、我々はこの大型商業施設の従業員ではなかったし、明日から始まる「新春初売りセール」の垂れ幕さえ設置できればそれでよかった。そして数台の車の存在はまったく邪魔にはならなかった。仮に親切心を起こして、屋上駐車場の状況を店の担当者Hさんに知らせようと思っても、彼は1時間前にすでに事務所を後にしていた。
「それじゃあ、ポールさん、僕はもう帰るから。後はよろしく。よいお年を」
たぶん、今頃は「紅白歌合戦」でも見ているのだろう。本当なら垂れ幕を設置した状態を確認してもらわなければいけないのだが、Hさんにそう告げると、
「いいよ、明日の朝、早めに出社して確認しておくから」
と言い残して、そそくさと帰ってしまったのだ。もし、明日の朝確認して不具合があったらどうするつもりだろう。僕はまた明朝ここに来る予定だったが、設置作業をしてくれている職人たちは正月休みだ。しかし、このクライアントと付き合い出してからというもの、あまり先のことは考えない癖がつき始めていた。
「寒いなあ、ポール」
と上司の尾藤さんが足踏みをしながらこぼした。我々は作業の立会いに来ているのだが、職人たちが作業している間はとくにすることがない。
「明日も冷えそうですね」
と僕は答えた。職人を設置場所に案内し、作業の障害になるものがあれば店の担当者に交渉し、設置が終われば仕上がりを確認する、それが我々の仕事だった。だから、トラブルがなければ我々の出番はなかった。むろん、出番を望むつもりもない。
職人はいつもの飯島さん、その仲間の「つねやん」と呼ばれている中年の男性、そして飯島さんの息子らしい若い男の子だった。作業は思ったよりも難航していて、いつ終わるのか先が見えなかった。
「明日は何時だっけ?」
と尾藤さんが聞いてきた。
「8時半入りです」
「従業員入口の前で待ち合わせようか?」
「それでいいんじゃないですか。Hさんが来てるかどうかわかんないですけど」
「まったく、たまんないよな。大晦日もこんな時間まで働いて、元旦は朝の8時半から初売りの立会いだろ。普段の平日よりも忙しいじゃねえか」
「まあ、こういう仕事ですからね」
まあ、こういう仕事ですからね、というセリフを何度呟いたかわからない。
ふと振り返ると、遠くに見える山の中腹に点々と光の筋のようなものが見えた。何かのイルミネーションだろうか。しかし、なんということのない山だ。とくに飾り立てる必要もない。
「あれは何でしょうね」
「どうした?」
「あれですよ。山のふもとから頂上に向かって光が点々とついてるでしょう」
「どれ。ああ、ほんとだ。ありゃ、何だ、ポール」
「何でしょうね」
「ううむ。わかった、あれだよ。ロープウェイだよ。支柱をライトアップしてるんだわ」
「登ったことあるんですか」
「昔ね、一度だけね」
ひとりで登ったんだろうかと思ったが、そんなはずはないとすぐに思い返した。再婚とはいえ、奥さんもいるのだ。しかし、頭の中では、ロープウェイの中にひとり佇んでいる尾藤さんの姿を思い浮かべてしまう。
昔、すさんでいた時期があった、という話は聞いていた。社内でもうまくいかないことが重なり、この地にひとりで赴任してきたという噂だった。
「その頃は週末になると退屈だったから、ひとりで電車に乗って遠出したもんだよ」
と以前に話していたことがあった。それで遠くの競艇場や、うらぶれた廃寺に出かけたりしていたらしい。だから、ロープウェイにひとり揺られている姿も思い浮かべてしまうのだが、聞いてはいけないような気がして、結局聞けなかった。
作業は相変わらず難航していたものの、尾藤さんも僕もそのことには不平を漏らさず、辛抱強く待ち続けた。昼間ならどうということのない作業でも、夜間の現場となると勝手が違う。それに、今日中に帰ることはすでにあきらめていた。「紅白歌合戦」にも興味はなかった。そのうちに、時計の針が12時を指した。
「あけましておめでとうございます」と尾藤さんが言った。
「あけましておめでとうございます」と僕が言った。
「あけましておめでとうございます」と飯島さんが言った。
「あけましておめでとうございます」とつねやんが言った。
飯島さんの息子は、地上で作業していたので、我々の声は届かなかった。作業の手を休めている飯島さんに、忘れないうちに伝えておこうと思った。
「飯島さん、これ、また十日に撤去がありますから、よろしくお願いします」
「はあ、やっぱり、夜ですよね」
「はい、やっぱり夜の作業です」
飯島さんがほろ苦く笑った。つねやんも苦笑していた。おたくの仕事は夜の作業ばかりだよ、と言いたい様子だった。息子は地上で作業していたので苦笑しなかった。職人たちは再び作業に戻った。
屋上駐車場から見える夜景は、我々の周囲だけがぽっかりと闇に包まれ、はるか遠くだけが光の島のように輝いている。その光の島から、光の粒が運ばれてくるのが見えた。
「電車、まだ動いてるんですね」
「初詣客がいるからね。朝まで動いてるんじゃないかな」
ロープウェイのある山の方から、ときおり鋭い冷気をはらんだ風が飛んできて、我々のコートの襟を揺らした。
「今年は何かいいことがあるといいですけど」と僕が言った。
「ないだろ」と尾藤さんが短く答えた。
頭のてっぺんにはどこかの1等星が眩しいくらいに光っていたが、何の星かはわからなかった。尾藤さんにも聞かなかった。
2009年8月29日 土曜日
親愛なるサムへ
クラスメートの中には、必ずひとりは大人びた級友がいた。中学の頃にもいたし、高校でもいたと思う。大人びたというと、ませているように聞こえてしまうが、背伸びして大人ぶっているわけではない。いたって自然体なのだ。それでいて、言葉やふるまいはまさに大人そのものように見える。中学時代のクラスメート、西くんもそのひとりだった。
西くんはいつも穏やかな笑みを浮かべていたような気がする。あるいは、あきらめきったような表情をしていたかもしれない。どちらにしても腹を立てている姿を見たことがない。また、誰かに腹を立てられたり、絡まれたりしている姿を見たこともない。くだらない話にもふんふんと頷き、子供っぽい騒ぎには加わらず、困っている級友がいればそっとアドバイスを差し出し、自分から目立つことはしないかわりに、誰よりも世知に長けていた。本当に同い年なのか、と僕はしばしば思った。本当は40歳なのだが、14歳のふりをして僕らのクラスに紛れ込んでいるだけじゃないのか、と。
僕はブルック・シールズやフィービー・ケイツの裸体に狂喜しているような中学生だったので(当時の大半の中学生男子は狂喜していたと思うが)、西くんから見れば、ひどく子供っぽく映っただろうと思う。彼は「もう、そんなのは見飽きたよ」とでも言いたげな、それでいて僕らを見下すわけではなく、温かく見守るような視線を送っていた。そう、書き忘れたが、彼は人を見下すような態度もとらなかった。本当に大人なのだ。その大人が僕らの年齢に合わせているように見えた。
14歳の少年少女たちにとって、現実世界は未知なるものだと思う。子供たちの知らない仕組みやルールが満ちている世界だ。大人によって庇護された子供たちの世界には、子供たちなりのルールや仕組みがある。それが思春期になって、大人の世界の入り口に差し掛かったときに、わけもなく苛立ったり、苦しんだり、自分の殻に閉じこもったりするのは、直面している世界が自分たちにとっては未知であるにも関わらず、大半の大人たちにとっては既知であるからだ。自分たちの知らない仕組みやルールが充満している世界に、何も知らないまま入ってこいと大人たちは手招きをする。そしてルールを教えないまま、ルールを振りかざし、都合のいいときにだけルールを曲げる(ように見える)。それが少年少女が大人たちを憎む最大の理由だろうと思う。
しかし、西くんは、現実世界の仕組みやルールをすでに知っているように見えた。彼にとっては、大部分の子供たちにとって未知のはずの光景が、すでに既知であるかのようだった。僕らがジャッキー・チェンの新作映画に胸を躍らせているときに、西くんはすでにその映画をどこかで見ているのだが、先回りしてあらすじを吹聴することもなく、初めて見るような顔をして、それでも退屈顔は隠しきれずに、僕らがはしゃぐ姿に辛抱強く付き合っている。そんなふうに見えた。穏やかな笑みもあきらめきったような表情も、そう考えると納得できた。
実際のところはわからない。本当は彼も僕らと同じように、苛立ったり怯えたり、人知れずブルック・シールズに狂喜していたのかもしれない。でも、そんな内面はおくびにもあらわさなかった。だから、僕は西くんの姿が眩しかった。世の中の仕組みに精通し、人の心の動きに深い理解を示し、いつだって慌てず騒がず、肩に鳩が糞を落としても木の葉が舞い降りたかのように冷静にふるまう、彼のような人間になりたいものだと憧れた。いや、この年齢になっても、その気持ちは変わらない。ひょっとすると、今でも僕はブルック・シールズの「青い珊瑚礁」やフィービー・ケイツの「パラダイス」に狂喜しそうな気がする。
あの西くんは今、どうしているのだろうと思う。もし再会すれば、どこかの街角の焼鳥屋で、西くんは僕の話にふんふんと相槌を打ちながらビールグラスを傾け、ときおり「困ったやつだ」とでも言いたげに苦笑しながらレバ刺しをつつき、自分の愚痴などはまるでこぼさないままハツの串をたいらげた後、あの未来を見透かすような視線で「なんとかなるさ」と笑いそうな気がする。僕はやはり、こいつにはかなわないなと思うだろう。そうであってほしいと願う。そして、機会があれば、あの14歳の頃、何を考え何を感じていたのか聞き出してみたいと思う。
2009年7月21日 火曜日
親愛なるサムへ
桜の花が散る頃だったか、ふとしたことがきっかけで、日雇い労働者が多いことで知られる、とある街の一角を訪れた。ふだんはほとんど利用することのない駅で電車を降り、改札を出るとそのまま大通りに沿って歩いた。
しばらく歩くと男たちが集まっている場所があった。キリスト教の教会らしく十字架を掲げてある。何度かこのあたりを歩いたことはあるが、今まで気付かなかった。どういう教派かはわからない。炊き出しをしているのだろうかと思い、開け放たれたままのドアから教会の中をちらっと覗いてみた。
中では神父(なのか牧師なのか)が、静かな表情で講話を行なっていた。それを四十代から上と思われる中高年の男たちが貪るように聞いている。ざっと見ても五十人以上はいただろうか。椅子に座りきれない聴衆もいて、あちらこちらに立ち見ができていた。誰もが神父の言葉をひとことも聞き漏らすまいと身を乗り出している。彼らの熱気で、教会の中は蒸しかえるほどだった。
むろん、神父が壇上に立っている以上、それは主とイエスにまつわる話なのだと思う。魂の救済を求めない人々にとっては、とくに感興を催さない、むしろ眠気を催させる類の話だろう。しかし、ここに集まっている人々は違っていた。物狂おしいと言うのだろうか、まさに心の飢えを満たそうとするかのように神父の講話を聞いている。そういった興奮と切迫感が教会の中に漲っていた。
ふつう、中高年の男が貪るように他人の話を聞くことはほとんどない。ある程度の年齢になれば、我々は自我を持ってしまって、その自我を保ったまま話を聞く。それは言い方を変えれば、批評的な態度と言っていいと思う。我々は、誰かの話を聞きながら自分の自我に照らし合わせて、「おもしろい−おもしろくない」とか「頷ける−頷けない」とかを半ば無意識的に判断し、自分が受け容れるべき話とそうでない話を選別している。だから、そこにはいつでもわずかながら冷ややかな態度がこもっている。
しかし、この教会に集まった、おそらく近隣の安宿に居住して日雇いで生計を立てているであろう人たちには、この批評的な態度がまったく感じられなかった。神父が何を話していたのかは聞き取れなかったし、僕にとっては何を話していたかはあまり重要ではなかった。それよりも、人は状況によっては、これほど貪欲に「言葉」そのものを求めるのだという、その出来事自体が非常にショッキングだった。
信仰が生まれる現場と言うのだろうか、不信心ゆえに僕はそれがどういうものかわからないでいるのだが、イエスが最初にガリラヤだったかナザレだったかで教えを説いて回ったときも、こんな感じだったのではないかと想像した。そして、たぶん人は、信じられるか信じられないかの判断の後に信仰に至るのではなく、それ以前に、圧倒的な「言葉への飢え」があるのだと思った。差し出された一碗の水を、清水か泥水かを問うこともなしに飲み干すとき、おそらくそこに信仰が生まれるのだと直感的に思った。
教会を後にした僕は、自分がこの先、言葉への圧倒的な飢えに襲われることがあるだろうかと考えてみたが、とても想像できなかった。言い方を変えれば、僕自身を成り立たせてきた言葉が、今はまだ僕の中にも息づいているということだろう。
自分に投げかけられた言葉、自分が発した言葉、この世界を成り立たせている言葉、この世界の片隅で見出した言葉。それらの中には、僕を否認するものもあれば、僕自身が否認してきたものもある。ときに災厄をもたらし、ときに祝福を授け、面倒な約束事を押し付けることもあれば、もっと自由になれと囁く。そうやって、数々の言葉が自分のもとを出入りしながら、僕にはリュックサック一袋分の言葉が手元に残った。この言葉の集まりが今の自分を成り立たせ、この世界と自分とをつなぎとめ、まだ続いていく旅の糧になっていると言っていい。
だから、もし、これらの言葉が自分の手元から失われようとするとき、あるいはその大半が失われてしまったとき、我々は言葉に対する強烈な飢餓感に襲われるのかもしれない。そこに思いが至ったときに初めて、この教会に集まっている人たちが感じている孤独が何であるのか、なぜそこまで切実に言葉を求めるのかについて、ほんのわずか、触れることができるような気がする。
2009年6月10日 水曜日
親愛なるサムへ
ときどき、天保山にふらりと行ってみる。天保山には何があるんだろうか。たしかに海遊館という水族館があり、サントリーミュージアムという美術館があり、サンタマリア号という観光船の船着場がある。でも、僕が見たいのは海なのだ。
本町という大阪市の中心部から、地下鉄中央線に10分ほど乗って大阪港駅で下車。ときどきやりきれない気分になったり、自分の中で気持ちを持て余すようなことがあると、ここに来て海を見る。海というより、どちらかといえば安治川の河口と言った方が正確なのかもしれないが、それでも水を舐めれば潮の味がするだろう(実際に舐めようという気はまったく起こらないが)。
こう書くと、僕がロマンチストかセンチメンタリストのように君は思うかもしれない。しかし、この天保山から見える海の景色にはまったくロマンやセンチのかけらもない。アジだかクロダイかを釣っているおじさんたちが岸壁に鈴なりになり、ポンポン船がひっきりなしに運河を行き交い、サンタマリア号の出港を知らせるアナウンスが鳴り響く。見上げれば阪神高速湾岸線。船荷を降ろすためのクレーンも乱立している。それでも海は海だ。近づけば波の音がする。
日本の大都市の多くが海に面しているのは、都市に生きる人々にとって、やりきれない気持ちをどこかに捨てるための場所が必要だからかもしれない。上田正樹は、さよならを捨てると歌っていたが、捨てるのはたぶん、さよならだけではない。やり場のない怒りや、一人では抱え切れそうにない不安や、神経をすり減らす喧騒も捨てられているのだと思う。それらは波に洗われる必要があるのだ。
ベンチに座りながら行き交う船を見ていると、何とかなるんじゃないかという気持ちになってくる。もしかしたら、何人もの先人たちが同じ気持ちでこの景色を見てきたのかもしれない。ここは都市に生きる人たちのためのひっそりとした場所なのだろうと思う。
2009年5月29日 金曜日
親愛なるサムへ
大阪はすでに初夏の気配。この季節になるといつも、アーウィン・ショーの「夏服を着た女たち」という小説を思い出す。話の中身はまるっきり覚えていないが、題名だけを思い出す。これは「夏服を着た男たち」ではいけないのだろうか。男にとって夏服とは何か。羽田元首相の半袖スーツなのか。それはどんな小説になるのか。何にせよ、「礼服を着た男たち」の方がまだイメージはしやすい。
靭公園ではきれいな薔薇が咲いていた。薔薇の名前を見ているだけで楽しい。忘れないように書き留めておく。靭公園と鶴見緑地に咲いていた薔薇の一部。ちなみに靭公園は「うつぼ公園」と読みます。
・スピリット・オブ・バンクーバー Spirit
of Vancouver
・キャスリン・モーリー Kathryn Morley
・グラハム・トーマス Graham Thomas
・ジェーン・オースチン Jane Austen
・メアリー・ローズ Mary Rose
・ライラック・タイム Lilac Time
・マリア・カラス Maria Callas
・ブルームーン Blue Moon
・オフェリア Ophelia
・マグレディス・イエロー McGredy’s Yellow
・サマー・スノー Summer Snow
・ドナルド・プライア Donald Prior
・スヴェニール・ドゥ・アンネフランク
Souvenir. d’Anne Frank
・プリンセス・ミチコ Princess Michiko
・オードリー・ヘップバーン Audrey Hepburn
・プリンセス・サヤコ Princess Sayako
・アイスバーグ Iceberg
・金閣 Kinkaku
・黒真珠 Kuroshinju
・ゴールド・バニー Gold Bunny
・たそがれ Tasogare
・桜貝 Sakuragai
・プリンセス・マサコ Princess Masako
・かがりび Kagaribi
・ミセス・オークリー・フィッシャー Mrs.
Oakley Fisher
フィッシャー夫人はイギリス生まれの、白い夏服を着た素敵なご婦人でした。
2009年5月13日 水曜日
親愛なるサムへ
ひさしぶりに東山あたりをぶらっと歩いてみようかなと思い、京都に行ってきた。3年ほど前に大阪に移ってきて以来、気が向けば京都の寺々を訪問し、抹茶と茶請けを頂きながら庭をぼんやりと眺めたりしているんだよ、サム。「おまえ自身が枯山水になっているんじゃないか」と言われれば返す言葉はないが、そういうことが面白いと思う年齢になってきたということかもしれぬ。もうね、流行のものとか、どうでもよくなってきちゃった。
京橋から京阪電車に乗り、祇園四条で降りる。とりあえず四条通りの「珈琲家あさぬま」で、アイスコーヒーを注文。近隣の「フランソア喫茶室」などに比べてあまり有名ではないせいか、昼飯時でも席は空いていたが、昭和の匂いがする俺好み。商談によし、時間つぶしによし、別れ話によしという、とても便利な店である。
店を出てそのまま東に向かい、八坂神社(右写真)へ。『寺社勢力の中世』(伊藤正敏、ちくま新書)の中で、比叡山延暦寺が支配下にある八坂社を通じて、中世の京都の経済を牛耳っていたことが書かれてある。鴨川の東西両側の地域は延暦寺の広大な寺領であり、だからこそ白河法皇が、ままならぬものとして山法師(比叡山の僧兵)を挙げていた、と。言ってみれば八坂社は、延暦寺コンツェルンの営業本部みたいなところだったのかもしれない。僕みたいな日本史好きにとっては、やはり関西の方がおもしろいね。
八坂神社の奥が円山公園。公園を抜けて、知恩院へ。ここには御影堂(左下写真)という100人ぐらいは入れそうな大きな本堂がある。回向を申し込めば、お堂の中でお坊さんがお経を上げてくれるし、それを他の参拝客も一緒に聞くことができる。
御影堂の板間に座り込んで、しばらく読経を聞く。五月の風がそよそよと入ってきて気持ちがよい。そこにお坊さんの声がかぶさってくる。抑揚のあるリズム。客の心をむんずと掴んで盛り上げたかと思うと、次の瞬間には突き放し、また引き寄せる。ここぞ、という場面では木魚を叩く。仏殿には、何という名前がついているのか、キンキラキンの装飾がいくつも垂れ下がっている。たぶん、この空間はその昔は一種のライヴハウスだったんじゃないかと思う。そこで、衆徒に浄土という名のパラダイスを垣間見せること。今の人たちがライヴに行く理由とまったく同じだろう。高揚感や陶酔感を伴わないものを、我々はありがたいとは感じないと思う。今の葬式仏教と呼ばれるものからは想像しにくいが、昔の仏教には元々、そういう官能性が備わっていたのではないか、そう考えてしまう。
知恩院を後にする。青蓮院に行こうかと思ったが、人が多そうだったし、一度訪れたことがあったので、まだ入ったことのない高台寺へ。秀吉の正室ねねが建てた寺。キャッキャとはしゃいでいる中年夫婦多し。不倫旅行なのかとも思ったが、「お父さん、こっちよ〜」と言ったりしているので、やはり夫婦なんだろう。この寺の裏テーマは、秀吉とねねの仲睦まじさにあやかった「夫婦愛」なのかもしれぬ。
僕はとくに作庭に関する知識があるわけではないのだが、いろいろと見て回ってると、どの庭にも「ここを見てほしい」という力こぶの入った場所があることがわかってくる。それはとくに声高に訴えているわけではないので、参拝する側が自分で発見しなければいけない。ある季節の、ある場所の、ある角度から見た眺めがかっこいい、と。この高台寺の庭は小堀遠州の作らしいが、右の写真はたぶん、ここが力こぶなんだろうという僕なりの回答。小堀遠州は「うん、わかりやすいところに気付いたね。でも、本当はもっとたくさんの仕掛けがあるんだよ」と笑うかもしれないが。あるいは「おまえは全然わかってないな」と怒り出すかもしれない。
高台寺を出て、石塀小路を抜け、祇園の中を通ってそのまま鴨川を渡る。仏光寺通りの「cafe
marble」という町家カフェで、キーマカレー。紫蘇ごはんにカレーの組み合わせは初めてだったが、意外といけるもんだな。歩きすぎて足が痛くなってきたので、そのまま京阪電車に乗って退散。いつも日が暮れる頃には帰っているので、夜の京都はまったく知らない。
2009年5月3日 日曜日
親愛なるサムへ
夕方になって、近所のスーパーマーケットまで買い物に行く。春の空はまだ明るい。日脚が伸びている。俳句の世界では「日脚伸ぶ」は冬の季語。春の季語では「日永」あるいは「遅日」。「永き日」とか「遅き日」とかにも変化する。そういう言葉のストックを持っていると何かと楽しいのだが、僕もふだんから知っているわけではなくて、今、『現代歳時記』(金子兜太・黒田杏子・夏石番矢編、成星出版)を見ながら書いている。与謝蕪村の句、「遅き日のつもりて遠きむかしかな」が載っている。なんとなく春の夕暮れがアップルパイの生地のように甘く折り重なっている感じがする。もちろん、蕪村はアップルパイを口にしなかったとは思うが。本歌取りをさせてもらうなら「遅き日のつもりてアップルパイの歌」か。どんな歌かは僕にもわからない。
スーパーマーケットでは、ゆで蛸、キュウリ3本、茗荷、絹豆腐、薄揚げ、ベーコン、ディチェコのパスタ、サッポロ一番みそラーメン、フルーツ入り杏仁豆腐を買う。なんとなく、蛸とキュウリの酢の物に、冷奴、それに揚げの味噌汁でも作るかなと思っていたのだが、全部カゴに入れた後で惣菜コーナーに来てみたら、ちょうどタイムセールで海鮮巻が百円引きになっていたので、結局、これを今夜の夕食に買う。ここの海鮮巻はおいしい。
買い物袋を提げながら住宅街の路地を歩く。間口が狭く、奥に細長い町家ふうのつくりが並ぶ。家々の戸口には子供たちの自転車や、消火用の赤いバケツ、若草色のじょうろ、パンジーの咲いている植木鉢、長く首を伸ばしたカラーという名の観葉植物、そういうものが肩を寄せ合うように置かれてある。バルコニーには朝から干したままになっている男物のパジャマが揺れている。手をつないだ中年の夫婦が通り過ぎていく。知らないうちにリラックスした気分になる。
どこかの台所から、野菜を煮込む匂いがしてきた。ルーを入れる前のカレーかシチューの匂い。玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、それに幸福が溶けてゆく匂い。僕もカレーにすればよかったな、と思う。違う家からは焼肉の匂いがしてくる。タレに漬け込んでいない生の牛肉を焼く匂い。焼肉屋のように刺激的ではない、家庭で焼く肉の匂い。いい肉だな。僕も焼肉にすればよかったなと思う。
ひとつひとつの台所の窓から、夕餉の匂いがゆっくりと空に上っていく。遅き日の玉ねぎにんじんじゃがいもカレー。空に上った匂いは春の夕暮れを溶かしていき、やがて甘くまろやかな夜がやってくる。
2009年4月19日 日曜日
親愛なるサムへ
動物を飼ったことがないと、動物にも心があることはなかなか実感しにくいんじゃないかと思う。じつは僕もそうだった。あれは人間が勝手に「動物にも心がある」と思い込んでいるんだろうと考えていた。飼い主の願望や思い込みを、ペットに投影しているのだと。
初めて大きな動物を飼ったのは、二十代のとき。そのとき、僕は実家で暮していて、親が真っ白な毛並みの猫をペットショップの軒先から拾って帰った。白いので名前はシロである。猫と一緒に暮していると、猫にも心があることは自明の事実としてわかる。
例えば、シロが食卓に上がってきて粗相をする。それを叱る。飛び降りて、うつむくシロ。しょんぼりと肩を落とし、しっぽをだらりと垂らしている。廊下の向こうにとぼとぼと消えていきながら、ちらっと僕の方を振り向く。じつに悲しそうな顔をしている。哀願するような表情である。再び歩き出したところで、また、ちらっと振り向く。行きかけて止めて、また振り向く。とにかく、シロは悲しそうな顔で振り向くのが得意なのである。これを二、三回やられると、たまらずによしよしと抱き上げてしまうことになる。こういうしぐさを見せられて、尚、猫に心はないと信じることは難しい。
一度、ペットショップで水槽の金魚を眺めていたときに、どこかのおばさんが隣にやってきて話し掛けてきた。僕は東錦という名前のじつにバロックな姿をした金魚に見惚れていたのだが、そのおばさんも自宅で大きな金魚を飼っているという。
「金魚にも心があるのよ。寝る前に、おやすみって言ったら、ちゃんと挨拶を返してくれるの」
挨拶をする金魚。にわかには信じがたい話である。が、僕は金魚をきちんと飼ったことがないので、否定することも肯定することもできない。金魚がウィンクしている姿を想像することぐらいしかできない。案外、愛好家の人たちに言わせれば、「金魚にも心があるのは当たり前」なのかもしれない。
むろん、悲しげな猫にせよ、挨拶する金魚にせよ、動物たちの無作為なしぐさや表情に、人間が勝手に感情移入しているだけだ、という主張はできるだろう。しぐさという「記号」に、意味のある解釈を当てはめようとしているだけだと。しかし、それを言い出せば、人間同士の場合でも同じではないだろうか。我々は恋人が見せる冷たい表情に不安を感じたりするが、それは自分への愛情が醒めたからではなく、たまたま鳩に糞を落とされて機嫌が悪いだけかもしれないのだ。あるいは歯と歯茎の隙間に冷たい水が沁み込んでいた可能性もある。
そう考えると、そもそも他者の心とは、理解と誤解の波間で浮かんだり消えたりする泡のような幻想ではないか、という気もする。たしかに人間同士の場合、動物と違って言葉が通じるから理解しあえるとも言える。ただ、それが余計に複雑な状況をもたらすとも考えられる。言葉が通じることでわかりあえるなら、世の中、もう少し円満な人間関係に満ち溢れてもいいのじゃないかと思う。理解できないからこれだけ多くの約束事があるのだとも言えるだろう。だいたい、自分自身の心だって、どこまで理解できているかわからない。
シロが眠っている姿を見ていると、ときどき何かを食べているみたいに口をもごもごと動かしたり、悪夢にうなされているみたいに眉間にしわを寄せていることがある。猫も夢を見るのだろうか。僕の母は、猫もぜったい夢を見ていると信じているが、僕は半信半疑である。見ているとしたら、どんな夢を見ているのだろう。フロイトやユングの夢分析は通用するのだろうか。エディプス・コンプレックスが認められたりするのだろうか。もしも、猫と話せるとしたら、まず聞いてみたいのは夢の話である。
2009年4月17日 金曜日
親愛なるサムへ
東海道新幹線の車中から見える浜名湖あたりの景色が好きだ。ふだんの暮らしの中でも、ふとした瞬間にその光景が頭に浮かんでくることがある。
新幹線に乗るときはたいてい指定席で、細かい座席指定ができない券売機を利用することが多いから、どこに座るかはJR任せになる。僕の場合、上りでも下りでも九割方は通路の北側の席を指定される。富士山を見せてやろうという配慮かもしれない。しかし、配慮してもらって申し訳ないが、僕はあまり富士山には興味がない。ああ、富士山だなと思うだけである。それよりも北側の席ばかりが続くと、たまには南側の席で海が見たくなる(海が見える区間は限られてはいても)。どちらかを選べるように「富士山」と「海」というボタンを券売機に追加してくれたらありがたいのだが。
ただ、浜名湖近くを通過するときには北側の席からの眺めの方が美しい。春から夏にかけてなら、遠くの方まで青々とした稲が広がって、厚いガラス窓で遮られているとわかっていても深呼吸したくなる。途中からキラキラと光る水面が現れて、たとえそこに競艇場があったとしても瑞々しい気持ちになる。東京から新大阪への下りの車中なら、いっそ名古屋で降りて引き返してみようかと考えることもある。
あの非現実的なまでに青々とした田園風景に立つと、どんな気分になるんだろうと想像する。いや、わかっているのだ。一度もそこに降り立ったことはないけど、自分がどんな気分になるのかはわかる。おそらく、僕はそよそよと潮風に揺れる緑一色の田園の中に佇みながら、そこを真っ直ぐによぎっていく白い新幹線の車体に想いを寄せると思う。そして、こう思うのだ。
「あの人たちはどこに行くのだろう。あの人たちは大きな都会でどんな暮らしをしているのだろう」
車窓の風景を眺めるとき、僕はあそこへ降り立ってみたいという気持ちと、その場所から新幹線を眺める気持ちの両方を味わってしまう。
「良さそうな場所だね。こんなところに住めるなんて羨ましいよ」
「君の方こそ都会に住んでるじゃないか」
「都会なんて、君が思っているほど楽しいところじゃないよ。人が大勢がいるだけさ」
「でも、そうやってどこかに行けるだけでもいいさ。僕なんか生まれてからずっとこの町に住んでるんだ」
「帰ってこれる場所があるってのは、いいことだよ」
なにか、最後のセリフは村上春樹の『風の歌を聴け』に出てくるジェイズ・バーのバーテンダーみたいだが、見つめる視線と照り返してくる視線の交差点で、僕は何かに憧れながら、僕もまた誰かの憧れの中に生きているのかもしれないなと思う。いや、本当のところはわからないよ、サム。あの田園地帯に降り立ったら、あんな怪物じみた棺桶のような乗り物には間違っても乗りたくないし、その怪物が連れてゆく得体の知れない場所にも関わりたくないものだ。そう思うかもしれないけどね。
2009年4月2日 木曜日
親愛なるサムへ
厄除けをしてもらいに伊勢神宮に行く。今年が本厄なのである。もう、のほほんとホットミルクを飲んでいる年齢ではないのだ。
何かにつけて信心がない方で、初詣などにも行かないし、むしろそういう宗教行事に対しては皮肉屋に見られがちなのだが、厄年だけはなんとなく信じている。自分ひとりの力で生きてきたようなつもりになっている、そういう思い上がりをちょっとチューニングしたい年頃でもある。
昨年の今頃に前厄のお祓いをしてもらったので、伊勢神宮にお参りするのは今回で2回目。前回は、外宮から内宮へと神宮本庁推奨の正式ルートで参拝したのだが、時間がかかるので、今年は宇治山田駅から直接内宮へと向かう。宇治橋は式年遷宮に向けて今年の11月まで工事のため、仮橋がかけられていた。そのまま砂利道を歩いていくと、鳥居とその背後にそびえる巨きなヒノキの杜が見えてくる。ここの巨木はすばらしい。伊勢神宮を訪れる目的の半分は、この巨木を見るためと言ってもいい。
たぶん、自然ありのままの状態の樹ではないと思う。放置しておいたらここまで成長することはないだろう。かといって、人工的に加工された樹でもない。樹が持っている生命力を最大限に活かせるように人間が手を添えている、そういう感じがする。そして、それこそが古代から続いてきた日本人の「杜の思想」なのではないかと思う。
この列島に国家を建設しようとしたときに、古代の人々は否応にでも自然と対峙しなければいけないことに気付いた。一年を通じて四季がある、安定しない気候。人間の営みを時には暴力的に破壊しながら、一方では豊潤な恵みをもたらす自然。その中で国家を建設することは、不安定な環境の中に人間の社会システムを作り出し、維持することだったと思う。
自然を征服しようとすると、恵みも受け取れなくなる。かといって、なすがままにまかせていては、人間社会を維持できない。現代的に言うなら、「この豊潤で暴力的な自然といかにつながり続けるか」あるいは「対話するか」が古代の人々にとっての命題だったはずだ。
この人と自然が対面する場所こそがおそらく「宮」だったのではないか。「宮」で人は自然からの恵みに感謝しつつ、自分たちが自然に対して何ができるかを示す必要を感じた。そこで「宮」の周囲に、「森」のミニチュアールである「杜」を作り、人間が今後自然とどのように関わっていくかをプレゼンテーションすることにした。収奪を図りつつも、決して野放図に行なうわけではないこと。また、人間の手が入ることで自然の持つ生命力がより発揮されること。それらの意図が反映された「杜」というモデルを示すことで、今後も人間社会が維持できるだけの恵みを寄与してほしいと、背後にある自然そのものの「森」に訴えようしたのではないか。そのように想像する。
だから内宮にあるのは木々だけではない。すぐそばには五十鈴川という川も流れていれば、池には鯉も泳いでいるし、尾長鳥まで飼われている(ついでに言えば狸もいた)。宮全体が人と自然との付き合い方を示すミニチュアールとして機能しているように思える。日本全国の神社に必ずと言っていいほど、それこそ干拓地の上に祀られた神社にも「杜」があるのは、それが理由ではないかと思う。
と、いつもながら学問的根拠の全くない「でたらめ文化人類学」なので、サム、そのあたりのいいかげんさは勘案してほしい。ただ、訪問する機会があるなら一度参拝してみると何かと刺激的だと思う。
厄祓いは滞りなく終わった。15分間強の正座にすっかりしびれを切らしてしまった僕は、よろめきながら御饌殿(みけでん)を退出すると、ふらつく足元でそのまま、おかげ横丁へと消えていった。
2009年3月19日 木曜日
親愛なるサムへ
深夜にホットミルクを作る。ふだんはコーヒー党なのだが、ときどきホットミルクが欲しくなる。琺瑯のミルクパンという、大人の男には似つかわしくない調理器具も家にはあったりして、それに「明治のおいしい牛乳」と沖縄黒角砂糖を二欠片ほど入れて、コトコトと沸かす。ミルクの表面に膜が張らないうちに火を止めて、大きめのマグカップに注ぐ。黒砂糖の甘みが利いた、やさしい味である。
ホットミルクを飲むと、チャーリー・ブラウンを思い出す。それは永遠の子供時代のような味である。チャールズ・M・シュルツの「ピーナッツ」の中にこんな話がある(『スヌーピーの50年』(朝日文庫))。
ある日、ペパーミント・パティがチャーリー・ブラウンにこう尋ねる。「安心感って、どんなものだと思う?」
チャーリー・ブラウンは答える。それはパパとママと一緒にドライブに行った帰り、車のうしろの座席で眠ることだと。君は何も心配しなくていい。前の席にはパパとママがいて、心配事は全部引き受けてくれる。すべて面倒を見てくれる。でも、それは長く続かない。ある日、突然、君は大人になって二度とそんな気持ちは味わえなくなるんだ。チャーリー・ブラウンは彼女にそう諭す。
この話を読んだときに僕が感動したのは、幼い頃に家族でドライブした帰り道とまったく同じ気持ちだったからだ。車の後部座席に寝転びながら、僕は国道沿いに立つオレンジ色の街灯を見上げるのが好きだった。それは車のスピードに合わせて、夜空をやさしく照らしながら飛んでいく。ずっと見ているとうっとりとした。前の席には父と母がいて、何も心配する必要がなかった。安心感に包まれながら僕は知らない間に眠った(とはいえ、僕はもともと心配性の子供だったので、父親の運転が気になってそんなにぐっすりと寝た記憶はない)。
チャールズ・M・シュルツが優れているのは、実はこの後だ。ペーパーミント・パティが「二度と味わうことはできないの?」と尋ね、チャーリー・ブラウンが「うん、二度とね」と答える。ペパーミント・パティが叫ぶ。
「チャック、わたしの手をにぎって!」
我々は車の後部座席で眠れなくなったのと引き換えに、誰かの手を握ることを必要とするのだ。それが大人になることだとシュルツは言っているんだと思う。そして誰の手を握ることもない深夜2時に、大人になった我々はホットミルクを飲むのである。
2009年2月28日 土曜日
親愛なるサムヘ
ほぼ7年ぶりのサイト大改装。タイトルが意味もなく大きくなり、左上にあった手紙のマークが消えてしまったが、このマークはファビコン(IEの場合だと「お気に入り」の中で表示されるアイコン)として残った。自分としても気に入っていたマークなので、ページ上から消えてしまうのは淋しいが、時として、変化というものは前触れもなく、なおかつ自発的に起こってしまうものである。
だいたい、僕はあまり変化は好きではない。マンネリズム、大いにけっこうという人間である。水戸黄門もサザエさんも、もう20年近く見ていないが、なくなってしまうことには反対だ。毎回似たような話が何十年も延々と繰り返される。それは我々の営みそのもののようでもある。だから、見る気はしないが、僕の知らないどこかで水戸黄門やサザエさん一家が、そういう営みを続けていくことは望んでいる。俺の暮らしも、サザエさんの暮らしも同じことの繰り返し、似たようなものだ、と思わせてくれる意義は大きい。もっとも、俺の生活の方がサザエさん一家よりは変化に富んでいるが。
この君への手紙は2000年9月に始めたことになっている。ただ、本当は1999年から始まっている。当時の手紙はすでに消失にしているが、僕としてはひそかに祝10周年という意味合いでもある。まさか、こんなに続くとは思わなかった。これからも宜しくお願いします。
2009年2月25日 水曜日

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