親愛なるサムへ
尾藤さんがこんな話をしてくれたことがある。
「俺もこの街に来て、最初の頃は暇だったのよ。で、独り身だったしさ。休みになってもすることないから、ひとりで電車に乗って行けるとこまで行ったりしてた。あと、競艇場にも行ったりしたな」
「ギャンブルするんでしたっけ?」
「しないよ。競艇場に行っても舟券も買わないの。ただ、レースを見ているだけ」
「ふうん」
ロココ調と言うのだろうか、それとも名前が付いているのだろうか、チューリップのような形のカップが尾藤さんの前には置かれていて、中身のコーヒーが半分ほど減っていた。僕はチューリップの花を縦に引き伸ばしたようなグラスでアイスコーヒーを飲んでいる。あまり美味いとは言えない。が、尾藤さんはこの喫茶店が好きだった。
「映画を観るようになったのはその頃だね。あちこち行ったりしてたんだけど、家の近くに映画館があることに気付いたんだよ。映画館と言ってもアレだ、どういうの、超大作とかハリウッドの新作とか、ああいうのなんだっけ?」
「ロードショー」
「そう、ロードショーを上映するような大きなハコじゃなくてさ、こう、昔の映画とかをひっそりとやるというかね」
「ミニシアター」
「そうそう、ミニシアターってやつね。俺たちの頃は名画座とか云ったりしたけど、そういう映画館」
尾藤さんはコーヒーカップに口をつけた。この年代の男には珍しく、音も立てずにコーヒーを飲んだ。無頼な感じに見えて、変なところで品のいい人物なのだ。
「健康的だろ、競艇場に行くよりは。そうでもないか、映画館も暗いし。うん、まあ、俺の趣味に合う映画をやっていたしね」
「どんな映画ですか?」
「小津安二郎とか溝口健二とかね。あと、タルコフスキーなんかもあったね。ベルトリッチも観たかな」
ここが尾藤さんの侮れないところだ。惚けた顔をした営業所長だと思い込んでいると、寝首を掻かれる。なるほど、見た目はお調子者で軽薄な感じすら与える。たしかに仕事はあまりしない。ほとんどしない。いつもホワイトボードに行く先を書かずに外出し、電話して捕まえようにも一発で出た試しはない。夕方になればすでに飲み屋にいる有様。街じゅうの飲み屋でツケが利くほどだ。
誰もが尾藤さんのことを凡俗なサラリーマンだと思う。それでいて陰で、溝口健二やタルコフスキーなどを観ているのである。いつだったか話の合間に、カラマーゾフを読んでいることも教えてもらった。
「溝口とか、観たことある?」
「いや、ないです。小津安二郎は観たことありますけどね」
「そうだろうねえ。古いからね」
「70年代ぐらいの日本映画からですね、僕は。高校生の頃、地元のテレビ局でよく夜中に流してたんです。永島敏行とか森下愛子とか」
「ATGね」
「そう、アート・シアター・ギルド。あれが僕にとっては映画の原風景ですね」
僕はグラスの中でぼんやりと立っているストローを口に運んだ。まさか、尾藤さんとATGの話をするとは思わなかった。壁にある柱時計をチラッと見ると、昼休みが終わるまでまだ十五分ほどある。尾藤さんが窓の外を見ていた。何かあるのかと思ってつられて振り向いたが、何もない。ただ遠くを見ているのだった。
「70年代の日本映画だったのかな」とぼんやりした声で尾藤さんは言った。「タイトルが思い出せないんだけどね。今でもちょっと気にはなっているんだけど」
「誰が出ていたんですか?」
「それが知らない役者ばかりでさ。何だったんだろう、あの映画」
「監督は?」
「それもわからない」
「どんな話なんです」
「どこかの漁港が舞台なんだよ。大きい漁港じゃなくてさ、アジとかヒラメとか、そういう感じの。いや、俺もよく知らないけど、マグロとかは水揚げしない感じの小さな漁港」
「ふんふん」
「若い女の子が出てきてね、こう暗い顔をして、海を見つめてるわけ。で、どうやら海に出ていった恋人を何日も待っている感じなんだな」
「アジやヒラメの漁港で、ですか。そういうのは普通、マグロ漁船とかが出る港じゃないですか?」
「だよな。違ったのかな。マグロ漁船の基地だったのか」
「いや、まあ、いいです。それで」
「そこへ旅の若い男がふらふらとやってくるんだな。で、女の子に何をしてるんだと訊く。待っているの、と彼女は答える。何を待っているんだ、と男が訊くと、いいの、あなたには関係ないのと答える」
「なんか、つまんない感じの映画ですね」
「つまんないんだよ。いや、俺も困ったなと思いながら観てたんだけどね」
気の早いサラリーマンたちはすでに席を立って勘定を済ませていた。幸いというべきか、今日の我々二人には午後になっても大した仕事はない。オフィスにある観葉植物に水をやるぐらいだ。
「それでね、まあ、なんとなく付かず離れずというのかな、男と女が行く先々で顔を合わせるみたいな感じでね。女の方は定食屋で働いてるのよ。で、男はそこへ飯を食いに来たりしてるわけ。漁師たちが飲んでいる端っこで、こう陰気な顔をしてカツカレーを食ってたり」
「陰気な男がカツカレーを食べるもんですかね。大体、その男は何をしているんですか。働いているんですか」
「いいんだよ、いちいち。それで、なんだかんだ色々あって、女の家に男が転がり込むわけだね」
「転がり込むしかないですね。話の展開としては」
「そう、転がり込む。一緒に暮らし始めるわけ。男が何をしているのか知らないよ。女の方はあいかわらず店の合間に、岸壁に出て海を見ているわけだよ」
「ふんふん」
「ある日、男が女に言うんだな、どこか行きたい所はないのか、毎日海ばかり見てもつまらないだろって。それで女が、つまんなくない、でも、あなた車の免許を持ってるの、と訊く。で、男がああ、持ってるよ。どこか行きたい所はあるのか、と訊く。だったら、ちょっと行きたい所がある。父さんがよく連れて行ってくれたんだけど、死んでからは誰も連れて行ってくれないんだ、と」
「ふうん」
「それで二人は死んだ父さんの軽トラに乗って、ドライブに行くんだ。暗い顔ばかりしてた彼女もちょっと嬉しそうにサンドイッチを作ったりしてね。男も朝から車を洗ってたりして、ピクニックに出かけるみたいな感じなんだ」
「どこへ行くんですか?」
「男も同じことを訊く。彼女はこの海岸線をずっと走ってくれたらいい、と言う。それで車はずっとコンクリートの堤防が続く道を走っていく。季節は早春だ。海がキラキラし始める。男は彼女に水筒のお茶を飲ませてもらいながら、ハンドルを握っている。カーラジオからは『ホテル・カルフォルニア』が流れている。今まで暗い顔を付きあわせていた二人が、初めて笑顔を交わし合うんだな。車はいつしか海岸線を離れて、小高い丘を走る。丘のてっぺんで二人は車を降りると、そこでサンドイッチを食べ、食べ終わると花を摘み、花を摘むのにも飽きると寝転んで空を眺めたりする」
話を聞きながら、僕はふと、これは映画の話ではないんじゃないか。尾藤さんの幻想なんじゃないか、という気がしてきた。尾藤さん自身がこしらえた幻想が、どこかで映画館で観た記憶とすりかわっている。なぜ、と訊かれても答えられないのだが、そんなふうに思えてきた。
「再び車に乗った二人は、丘を下り始める。どこまで行くんだ、と男が訊くと、もうすぐそこよ、と女が答える。しばらく行くと、灯台があった。ここよ、と言って女は先に車を降りる。男が慌てて後を追いかける。女の子は灯台のふもとまで来ると、扉を開けて中にずんずんと入っていくんだな。入っていいのかよ、と青ざめた顔で男が訊くんだ。いいの、ついてきて。そう言って彼女は螺旋階段をカツカツと上っていく。彼女の白いスカートが階段の隙間から円を描くように遠ざかる。それを男は追いかける。男は彼女が逃げてしまうんじゃないかという気がしてるんだ。そんな顔で追いかける」
尾藤さんはコーヒーカップを口に運んだ。再び置かれたカップにはもうコーヒーは残っていなかった。柱時計がチーンチーンと鼻を噛むような鐘の音を立てた。その柱時計が鐘を鳴らすことを初めて知った。
「男が灯台の階段を上り詰めると、そこは展望台みたいになっていて、彼女が白いスカートをはためかせながら海を見ている。そして何羽ものカモメが彼女に近づいて取り囲むようにしている。どこかに連れ去ろうとしているみたいにね。でも、彼女は静かな笑みを浮かべてそれを見ているだけ。男は怖くなってカモメを追い払おうとする。でも、カモメは相変わらず二人の頭上を飛び回っている。振り向いた彼女は、ねえ、気持ちのいい場所でしょと答える。それがあまりにも無邪気な笑顔だったので、男は思わず彼女を抱きしめてしまうんだ」
もう喫茶店の店内には客は誰もいなかった。カウンターの向こうでマスターが洗いものをしているのが見えた。
「もう、帰ろうと男は言う。ここにいちゃダメだ。新しい街に行こう、そこで二人で暮らそう。そう言って、男は女の手を引いて螺旋階段を降り始める。彼女の白いスカートが花びらが落ちるみたいに螺旋階段を下っていく。灯台の下まで辿り着くと、開いた扉から二人は出てくる。そのとき、女が言うんだな。ちょっと忘れ物をした、取ってくる。それで引き返そうとするんだね。男が驚いた顔をする」
「うん」
「二人の繋いだ手がほどける」
「はい」
「そこで映画は終わるんだ」
「えっ!」
「終わるんだ。唐突に終わるんだよ」
「なんですか、それは。そりゃ、ないでしょう」
「そうなんだ、それでずっと気にかかってるんだよね」
尾藤さんはそう言うと、自分の役目は終わったというようにコップに入った水をごくりと飲んだ。それから儀式を締めくくるみたいに白いハンカチを取り出して口元を拭った。
釈然としないものを感じながらも、僕は本当は、その映画には続きがあるんじゃないかと思った。あるいは尾藤さんの幻想には。でも、それを尾藤さんは語りたくなかったのか、それとも記憶の底に沈んでしまったのか。そして続きがあるのだとしたら、二人のほどけた手はどうなったのだろう。再び繋ぎ直されたのだろうか。ほどけたままなのだろうか。そして、どちらががよかったのかもよくわからなかった。
「一時過ぎたね。そろそろ、行こうか」
「そうですね」
尾藤さんは立ち上がって勘定書を掴むと、マスターに「別々ね」と言い、我々はそれぞれの勘定を別々に支払った。外はすでに初夏の日射しで、オフィス街のどこに巣を作っているのかアシナガバチが所在なげに飛んでいる。
「俺、一件行くところを思い出したから、じゃあ、こっちに行くね」
そう言って、尾藤さんは我々のオフィスとは反対方向を指さすと、僕の返事などは待たずにもうさっさと歩き出していた。カバンも持たずにどこへ行くつもりなんだろう。映画館のあの暗がりの中。あるいは僕の知らない遠い場所、カモメの飛び交うどこかの岬なのかもしれなかった。
2012年5月1日(火)

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