『部長の背中』


その日のテニス部の活動は、コートに整備業者が来るという事で、中止 になっていた。
それでも、自然と部室に集まったレギュラー陣は、ふってわいた束の間の 休息を、思い思いに過ごしていた。
「はぁ〜。関東大会も近いっていうのに、練習出来ないのはキツイにゃあ」
「とか言って。一番寛いでるのは、英二先輩じゃないっスか」
先輩の差し出したポッキーを受け取りながら、桃城はアクの強い笑みを その顔に浮かべる。
「丁度いい。関東大会もそうだけど、そろそろ定期試験だろう。勉強でも するか、英二」
「うぇー…俺、パス。そーいう事は、乾や手塚とすればいいじゃん」
黄金ペアの片割れである大石の提案を、菊丸は苦虫を噛み潰したような 表情で拒否した。
「そういえば…あのふたり、さっきから何してるんだろう?」
菊丸の言葉を聞いて、河村が机の一角に佇んでいる乾と手塚の背中を見つめる。
「乾はともかく…『アイツ』が何をやってんのかは、興味深いよね」
姿は手塚だが、本来の彼よりも色素の薄くなった髪と瞳を見て、不二は棘まじり の相槌を打った。


ウォークマンのイヤホンを左耳にはめたは、聴こえてくる放送に、本家をも凌ぐほどの縦皺を眉間に 刻んでいた。
「お前の気持ちは判らないでもないが…どうやら、これで決まりのようだな」
「──そんな事ない。ゲームセットにならない限り、勝負は終わらないんだから」
右耳にイヤホンをして、と一緒に放送を聴いている乾は、彼の横顔を面白そうに眺めやった。
手塚本人が試合中に浮かべるそれとは、また違った真剣な表情に、無意識に 口元を綻ばせる。
「俺の数少ないデータによれば…その選手の今季に於ける決定率は、確かに低く はないが、果たして今からこの劣勢を引っ繰り返せるかな?」
「前にも言ったでしょ。99パーセントはあっても、100パーセントは ないって。それと、ゴチャゴチャ言って選手の集中力が乱れるといけ ないから、解説は後にして」
部室から遥か遠く離れた競技場まで、自分達の声が届く筈 もないのだが、の顔からは、ジョークの欠片も感じられなかった。
それどころか、自分達とは対角の場所でふざけっこをしている桃城や菊丸に 向き直ると、珍しくいらついたように声を荒げる。

「ちょっと!今大切なオトナの話してるんだから、もう少し静かにしてくんない!?」
「うにゃっ!?」
「す、すいませんっス!」
「…コンビニプリン片手に、何偉そうに言ってんだか」
不二の突っ込みはきっちり無視すると、は再び聴こえてくる放送に集中する。
と、

『…打ったー!レフトスタンドへ一直線ー!逆転サヨナラ3ラン!』
「ぃやったあああぁぁっっ!」

先程とは打って変わった歓声に、周囲はもう一度驚いた。
そんな事はお構いなしに、は「これで3タテー!」などと、ひとりではしゃいでいる。
「あの、さん。さっきから一体どうしたんスか?」
「まーまー。めでたいから、桃くんもプリン食べなさい」
「…へ?」
プラスチックのスプーンでひと掬いしながら、は桃城に「あーん」と笑いかけてくる。
「…一体、何なのさ」
「いや。今とふたりで、野球の中継を聞いていたんだよ。何でも今日は、あい つの贔屓にしている球団の試合が、地方であったらしい」
「…それで、あのはしゃぎようなんだ」
苦笑しながら、乾は自分の耳からイヤホンを外すと、不二の疑問に答えた。
「どーだ、貞治さん!単なるデータと生身の人間との違い、思い知ったか!」
「ジャンルが違うとはいえ、確かに今日の試合は、考えさせられる一面もあったかな」
「そうだろ、そうだろ!」
得意そうに鼻を鳴らすと、は容器に残っているプリンを、一気に平らげる。
「てな訳で。貞治さん、賭けに勝ったのは俺なんだから、何か戦利品」
「…戦利品かい?」
空の容器を捨てたが、両手をヒラヒラと差し出してきた。
手塚からはとても想像のつかないような、子供じみた表情を見て、乾は暫し呆気に取られる。
「言っとくけど、もう『乾汁』はいいからね」
「そうだな…俺の鞄のポケットに、今朝買っておいたチョコレートがあるから、 それでどうだ?」
言い終わらない内に、早速の手が、机の上にあった乾の鞄に伸びた。
程なくしてお目当てのものを見つけたが、封が開いているのを確認すると、僅かに 不満そうな声を上げる。
「えぇー?食べかけ〜?」
「殆ど手をつけてないよ。いらないなら、別に構わないが…」
「誰もいらないなんて、言ってません」
チョコレートを、しっかりと両手ではさみ込むようにして、はわざと厳かな声で返した。

「まったく…君からテニスをなくしたら、『食い意地』と『お節介』と『泣き虫』 しか残らないようだね」
「腹黒率120パーセントオーバーのお前に、言われたくねぇよ」
不二の揶揄に、は、戦利品のチョコレートを開ける手を止めて、彼に向き直る。
「英二や桃にならともかく、手塚にとりついてるんだったら、もうちょっと 部長としての威厳を保ったらどうだい?」
「…不二(先輩)。それ、どういう意味だにゃ(っスか)?」
「お前に言われなくても、青学の部長がどれほどのものかってくらい、よーく 判ってるよ。確かに途中退場しちゃったけど、部長に相応しい働きは してきたつもりだぞ?」
「そういえば…は、2年生の時にJr選抜に選ばれていたな」
「うん。俺が目指してたのは指導者だったけど、レベルの高い学校の選手や スタッフに混ざれば、効果的な指導のテクを盗めるかなーって思って、参加したんだ」
乾の言葉を聞いて、は当時を懐かしむように目を閉じた。
Jr選抜のメンバーに選ばれた自分と、もうひとりの仲間と共に参加した合宿や遠征は、 本当に充実したものだったのだ。
「へえ…じゃあ、お前がJr選抜で一番思い出に残ったのは、何だい?」
「…え?」
「俺も聞きたいな。4年前の強豪校のデータなんかも、覚えているのなら、是非 教えて貰いたい」
「…えーっと……」
不二と乾の質問に、は困ったように眉根を寄せる。
暫し「うーん」と唸りながら、やがて顔を上げた彼の口から出た言葉は、

「……遠征先のカフェテリアで食べた、チリ・コンカーンかなぁ……」
『「ダメだ、こいつ…」』

実際声に出したのは不二だけだったが、他のメンバーたちも、心の中で魂の叫びを シンクロさせていた。


「大体、俺は幽霊なんだから。生前よりも記憶が曖昧なのは、仕方ないじゃな いか!」
『…それでも、強豪選手との試合を差し置いて、食べ物にしか意識がない というのも、些か問題だと思うぞ』
部室を出たは、頬を膨らせながら廊下を歩いていた。
「…ま、いっか。それより大切なのは、手塚くんたちの関東大会だし。折角の お休みだから、今日はのんびりしよっか」
『それについては賛成だが…。ながら食いはやめないか』
チョコレートを齧り付こうとしたを、手塚の鋭い声が止める。
「これが、美味しいのにぃ〜」
『家まで我慢出来ないのか?せめて、何処かに坐ってからにしろ』
「ちぇ〜…ん?」
手塚の叱責に、しぶしぶとチョコレートを仕舞おうとしたの視線の先に、見知った人物が通り過ぎるのを確認した。
「おーい、ドチビー!」
「あ…」
快活な呼びかけを聞いて、それまで俯き加減に歩いていたリョーマは、つと顔を 上げるとを見た。
「…何か用?」
「今日は部活は休みだぞ。これから帰るのか?」
「…っス」
小さく返して通り過ぎようとするリョーマを見て、は片眉を釣り上げた。
元々ぶっきらぼうな所がある、小生意気なルーキーだが、今日のリョーマは 何処かおかしい。
大股に歩を進めながら、はリョーマの腕を掴んだ。
「ちょっと待った。…ドチビ、お前ひょっとして具合悪いのか?」
「何でもないよ。離してよ」
制服の上からでも尋常ではない熱さを感じたは、そのままリョーマを引き寄せる。
「嘘吐くんじゃない。そんなフラフラの状態で、の前を素通り出来るとでも思ってんの?」
半ばぶつけるようにして、は自分の額を、リョーマのそれへくっつける。
じんわりと伝わってくる温度が、明らかに平熱を超えている事を 示していた。
「──ほらみろ。やっぱりお前、熱あるじゃんか」
科白と一緒に、ぺちんとおでこを叩かれたリョーマだったが、熱とそれ以上に 手塚の姿を通したの思わぬ行動に、抗議する気力も失せたまま、頬を赤く染めていた。


「保健室で休む?」
「いや…いいっス……寝たら、そのまま起きられなさそうだから……」
「俺の荷物の中に、解熱剤があるから分けてやるよ。昼飯はちゃんと食べたのか?」
「食欲なかったから…ファンタだけ……」
「ダメじゃん、それじゃあ」
リョーマに抵抗する隙も与えずに、彼の小さな身体を背負ったは、なるべく人気のない道を歩きながら、休憩する場所を探していた。
「いくら病気でも、ちょっとは食べないと。薬だって飲めないだろ?」
「そんな事言われても…飲み物ならともかく、今は何も食べたくないよ」
「むー…」
弱々しい返事を聞いて、は暫く考え事をしていたが、やがて顔を上げると、食堂横の自販機へ と向かった。
器用な仕草で、背中のリョーマを落とす事無く小銭を取り出し、は牛乳を買う。
「…これでよし。ドチビ、これから調理室へ行くぞ」
「調理室…?カギは?」
「平気、平気。あそこなら、におまかせ♪」


階段を上って、調理室の前に到着すると、は、リョーマを地面に下ろした。
授業時間以外は施錠されている調理室の上窓を眺めた後で、
「やっぱり、相変わらずだ。家庭科の先生、お前に負けず劣らずチビだから、 いつもあそこを閉めるのを面倒臭がるんだ」
ひとつだけ鍵がかかっていない上窓を指しながら、はリョーマに「ちょっと見張ってて」と告げると、まるで軽業師の ようにドアや窓の溝に足を絡めながら、上窓から調理室の中へと滑り込んだ。
中身が違うとはいえ、厳格が服を着て歩いているような手塚の粗野な行動に、 リョーマは目を丸くする。
「さあ、どうぞ」
中から鍵を開けて、は調理室のドアからリョーマを招き入れた。
適当な椅子にリョーマを坐らせると、机上に無造作に置かれた荷物の中から、 先刻買った牛乳を取り出す。
勝手知ったる様子で、棚の中から片手鍋を見つけたは、そこに牛乳を入れると、ガスの元栓を開いて火を点けた。
「モノが食えない時は、これが一番♪」
…俺、牛乳はちょっと……」
「大丈夫。これにもうひと工夫加えるから」
リョーマの科白を遮るように、は乾からせしめたチョコレートを、まな板の上で細かく刻み始める。
リョーマは熱で回らない頭を僅かに動かしながら、の背中を見つめた。

手塚とはまったく正反対な性格の、お節介な幽霊。
最初は、単なるウザいだけのヤツかと思っていたが、彼のテニスに対する想いと、 卓越した実力に、興味以上のものを抱くようになっていた。
いつか、手塚の時と同様に、に勝負を持ち掛けた事があったが、「過去の人間にそんな事して、 どうするの?」と、軽くあしらわれてしまった。
いつまでも今の状態が続く筈はないのに、気がつけば、この頃の自分は彼の 背中を追っている。
果たしてそれは、の背中なのか、それとも唯一自分を倒した手塚のそれなのか……


「はーい、出来たよ。あんまり熱くしてないから、飲めるだろ?」
快活な声に、リョーマは思考を止めると、顔を上げた。
目の前に出されたのは、マグカップに入ったホットチョコレートだった。
「これって、夏は何処の店も出してくれないから、たまーに飲みたくなった 時は、自分で作るしかないんだよねぇ」
鞄からビスケットを取り出しながら、は、早速マグカップの中身をひと口飲む。
そんなにつられるように、リョーマも又渡されたマグカップに口をつけた。
程よい温度に保たれた甘い液体が、乾いていたリョーマの口腔と喉に浸透し ていく。
「…美味いっス」
「エヘヘ、ありがと♪作り手にとっては、『美味しい』『ご馳走様』が、最 高の誉め言葉だよ」
ぶっきらぼうな賛辞に、それでもは嬉しそうに応えた。

「…ねえ」
「なに?」
「生きてる時のあんたって…どんな部長だったの?」
ふと、そんな興味がわいてきたリョーマは、カップを置くとに尋ねる。
『…越前!』
不躾な後輩の質問に、手塚は眉を顰めたが、は数回瞬きした後で、簡潔に答えた。
「今と変わらないよ。お節介で感激屋な、泣き虫部長だったかな」
「面倒見だけは、良さそうだもんね」
「そうかもね。家でも俺、兄貴だったから、そういうの慣れてたし」
って、弟がいたんだっけ。そいつ、何処でテニスやってるの?」
「弟は、テニスしないんだ。でも、俺なんかと違って、 すっごく頭がいいんだぞ。何しろ今年、進学校で有名な都立H高校に入学し たからね」
「え…『高校』って……」
さらりと出された単語に、リョーマは目を見張る。
「…うん。俺、ついに追い抜かされちゃった……」
カップを両手で弄びながら、はほんの少しだけ視線を落とした。
「いつかはこんな日が来るって、判ってたのにね。でも、やっぱりち ょっと複雑な気分かな」
「……ごめん」
「ううん」
小さく頭を下げたリョーマに、は笑って首を横に振る。
窓辺では、早くも鳴き始めたセミの声が、見詰め合うふたりをそっと包 み込んでいた。


「とにかく…いつも思っていたのは、『部長に相応しい背中を持とう』 って事だったかな」
「…背中?」
「そう」
調理室を出た後で、半ば強制的にの自転車に乗せられたリョーマは、彼の背中に身体を預ける格好 で、荷台の上に腰掛けていた。
いつぞやの爆走ぶりを思い出して、はじめは生きた心地がしなかったが、 思いのほか丁寧な運転に、徐々に全身の緊張を解いていく。
「仲間が、安心して背中を預けてくれるように。あるいは、後輩達が自分の 背中を追いかけてくれるようにね」
「……」
「俺の…の人生は、もう終わってしまったけれど、お前はまだまだこれから じゃないか。だから、単独行動ばっかしてないで、たまにはこうやって 背中越しでもいいから、誰かを感じるのもいいもんだろ?」
「………まあね」
「素直じゃないなぁ」
軽快にペダルを漕ぐの背に、薬が効いてきたのであろう、眠りの世界に導かれたリョ ーマがもたれてきた。
普段中々目にする事のない、12歳の少年らしい姿に、思わずはほくそ笑む。
「いつもこのくらい、可愛げがあるといいのに。ね?」
『…同感だな』
──転寝をするリョーマの耳に、果たしてふたりの部長の言葉は届いたの か、どうか。



2年後。

夕闇迫るテニスコートで、青学テニス部部長越前リョーマは、後輩の悔し泣きを、 背中越しに聞いていた。
「すみませんでした…越前部長」
「もういいよ。都大会には進めたんだし。今日の借りは、次で返せばいいだろ?」
「でも…俺の所為で、棄権負けなんて…っ」
「だから、お前が頑張った事は、俺もみんなもちゃんと判ってるって」
足に包帯を巻いた、レギュラージャージ姿の後輩を背負ったまま、リョーマはさした 苦労もなく歩き続ける。
「あ、あの、下ろしてください。俺、歩けますから」
「さっきの試合で、思いっきり足捻った奴が、何言ってんだよ」
1年生の後半から、既にレギュラーとして活躍していたその後輩は、反面他の選手との コミュニケーションが不足しがちで、それが元で誤解や衝突が起こったりもした。
彼の能力を知っているリョーマは、ある程度黙認していたが、流石に今日の事は放 っておく訳にはいかなくて、顧問のスミレに言われる前に、彼のケアを自ら買って 出た次第である。

「いくら実力が全てだって言ってもな。最低限のコミュニケーションくらいは、 ちゃんと取らないと。チームワークを乱す原因にもなるんだから」
「判ってます。…でも……」
「別に、いきなり馴れ馴れしくしろ、なんて言ってないだろ。ただ、こうして怪我した 時くらいは……」


(たまにはこうやって、背中越しでもいいから誰かを感じるのも、いいもん だろう?)


「──うるさいよ、
「……どうしました?」
後輩の呼びかけを聞いて、リョーマはやや慌てたように咳払いをすると、言葉を続けた。
「…なんでもない。たまにはこうやって、素直に部長に背中を預けろって事」
「はぁ…」
「いいから、行くぞ。あと、俺のシャツのクリーニング代のかわりに、あそこの自販機 でファンタ奢れよ」
『預けられるのが鼻水と涙って、いうのもなあ……』


口に出さなかったのは、この2年で成長した証だろうか。
それでも、大人しく背負われた後輩の重みを、リョーマは少しだけ満足そう に受け止めていた。


「幽霊君テキストの、なにか日常ぽい短編を。リョーマがいればベター」というリ クエストでしたが、ムダに長くなってしまいました。
何だかんだいって、青学(に限らずだけど)の部長というのは、代々それなりの 志を持った人間が引き継いできたんじゃないか、そして、将来はリョーマもそうな ってくれると面白いなあいいなあ(もっとも、カチローくんあたりに押し付け て、のほほんとしてそうな気も)、と夢想して書いたのが、今回の話です。
それにしても、やっぱり「テニス」で話を書くのは、本当に難しいですね;
お気に召さなかったら、本当にごめんなさい。



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