果たせなかった約束。   お前を裏切ってしまった俺。
何故、今俺はここにいる?   俺の眠りを醒ませたのは、誰?

……そして、お前は今何処にいる?


『継承』


夜。
照明のついたテニスコートに、甲高いスマッシュの音が響いた後で、沈黙が訪れた。

「……決まりだな」
がっくりとうなだれている人物とは反対側のコートで、低い声がした。
黒いラケットを肩に担ぎながら、成人の一歩手前くらいの年かさの青年が、ネット越 しの相手に冷たい目線を送っている。
「約束は約束だ。そのラケット、寄越しな」
ネットを跨ぎ越えると、青年は、相手の返事を待たずに、彼のそばに鎮座するラケットを 取り上げた。
「──やめろ!頼む!」
彼の悲痛な叫びも虚しく、青年は非情にもそのラケットを、ネット脇のポールに向かって、 力任せに叩き付けた。
瞬間、ラケットのフレーム部分は、あらぬ方向に捻じ曲がり、ガ ットが裂き切れる。
絶望の声を上げる相手の目の前に、青年は、理不尽な力によって変形してしまったラケ ットを放り投げた。

「恨むんなら…自分の腕のなさと、浅はかさを恨むんだな」

短く告げると、青年は踵を返し、コートを後にした。

「野郎…痛めつけるだけならまだしも、ラケットまで!」
ラケットを壊された彼の付き添いのひとりが、怒り任せに青年の背中を追う。
「やめとけ。悔しいけど、到底お前のかなう相手じゃない」
「だけど!」
「……勝負に負けたのは、俺だ」
諦めにも似た表情で、彼は傷ついたラケットを、それでも大事そうにケースの中 に閉まった。

最近、ストリートテニスをする学生たちの間では、週末の夜にだけ訪れて、『ラケ ットを賭けて勝負をする青年』の話題で持ちきりであった。
1セットマッチのシングルス勝負。
負けた者はその代償として、己の生命ともいえるラケットを壊されるという、 大変リスキーなものである。
これまでに、それなりに腕に自信のある者たちが挑んだものの、いずれも己の 身とラケットに、多大なる被害を受けて敗退していった。

「……一体、あいつは何者なんだ」
「さあな。近くの私立大に通ってるって話だけど、何処のクラブにもスクール にも所属していないらしい」
「体連に報告するってのは?これ以上、あいつの悪行をのさばらせておくのかよ?」
「それでも、あいつは挑まれた勝負を受けているだけだ。実際に、あいつ自ら ケンカを吹っかけたという事は、一度もない。それに、野試合をした俺達の 事を突っ込まれたら、言い訳に困る。…認めたくはないが、あいつの実力は 並大抵のものじゃない」
「俺…昔どっかで、あいつを見たような……?」
「ホントか!?」

不意に、青年の素性を匂わすような発言を聞いて、一同は、口を開いたひとりの 学生に詰め寄った。
「で?お前、何処で見たんだよ?」
「ど、何処って言われても…随分昔の話だから、確証はないんだけどな……」
「勿体ぶらずに言えよ!」
「……もう、5年以上も前の話だよ。俺が中学生の頃。そん時…学校のテニス 部が都大会まで行ったんだけど、その会場で、あいつによく似たヤツを見か けたような気がするんだ」
「本当か?そいつ、何処の学校だった?」
首を傾げながら記憶を辿る学生の姿に、先ほどラケットを壊された彼も、身を乗 り出してくる。
「…そこまでは。でも、都大会に出てたくらいだから、それなりの強豪中学だ ったって事は、確かだろうな」
「でも…どうしてそこまでのヤツが、こんな所で野試合なんか?」
「さあな……」

青年が去った後で、すっかり静寂が取り巻く夜のコートには、様々な思惑と、そ してやるせない想いが立ち込められていた。


6月。
地区大会を無事にクリアし、都大会を控えた青春学園中学男子テニス部 員の桃城武と越前リョーマは、その日、彼らの顧問である竜崎スミレの 珍しい姿を目にする事になった。
「どうしたんスか?その格好」
「……おお、桃にリョーマかい。いや、なに。ちょいと野暮用でね」
職員玄関前でスミレと出会った桃城とリョーマは、彼女の身に纏われた黒いスーツを 見つめる。
「それ、喪服?」
「…ひょっとして、葬式っスか?」
「法事だよ。毎年、この時期にはこうして出掛けてるのさ」
桃城の質問に答えると、スミレはちょっとだけ寂しそうに笑う。
「そういう訳だから、今日はアタシはいないけど、ちゃんと部長の言う事 聞くんだよ。いいね?」
「うぃーす」
「俺も、グラウンド20周は勘弁っスから」
「桃先輩は、20周ですめばいい方じゃないっスか」
「おいおい、走らされてもいねーのに、そういう決め付けはいけねーな、 いけねーよ」
「さっさとお行き!時間がないよ!」

時計を指しながら言うスミレに、ふたりは慌てたように部室へと駆 けていった。
そんなふたりの背中を見送りながら、スミレは梅雨の晴れ間に相応しい、紺碧 の空を仰ぐ。
「……あれから、もう4年も経つのかい。早いもんだねぇ」
徐に、バッグから写真を取り出すと、スミレはそこに写っているひとりの少 年の姿を捉えた。
昔のレギュラージャージに身を包んだ、誰よりも笑顔が似合う少年が、そこ にはいた。
『スミレちゃん、俺、将来テニスの先生になりたいんだ!』
『安心していいぜ。スミレちゃんがリタイヤした時は、俺が 跡を継いでやるからさ。それで青学テニス部は安泰!』

『いつか、俺の教え子が全国や世界で活躍するのを見れたら、最高だろ うなあ…ううん、そうじゃなくてもいいや。例え上手じゃなくてもテニ スが好きでいてくれるなら……ちょっとスミレちゃん、俺の話聞いてる?』


「……とかなんとか言ってたくせに…アタシの跡を継ぐ前にいっちまった のは、何処の誰だい?」
しんみりと呟きながら、スミレは目元を濡らし始めていた涙を、指で拭った。
「……今年も、夏が来たよ。あんたの後輩たちが、全国に向けて必死に頑張 ってる。どうか、見守ってやってくれるかい?……

タクシーのクラクションを聞いたスミレは、写真をしまうと、職員の通用口へ向 かって歩き始めた。



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