『継承』


一方、その頃。

「部長、遅いっスね」
いつまで経っても開かない部室のドアを、桃城は、筋トレをしながら訝しげ に眺めていた。
「あの時間にうるさい部長が、いつまでも出てこないなんて、珍しいっス」
桃城から少し離れた所で壁打ちをしながら、リョーマが小さく応じた。
「きっと、アレだにゃ!オレたちを追い出した後、ひとりでこっそり写真を 楽しんでるに違いないにゃ!」
「……何スか?それ」
菊丸の言葉に、リョーマは目を瞬かせる。

「実はさっきね、部室で昔の写真を見つけたんだよ」
「ふーん」
「そうそう。んで、じっくり見ようと思ってたら、手塚に取り上げられた んだにゃ!」
「まあ、あの手塚がそんな事をしているとは 思えないが……確かに遅すぎるな」
「じゃあ…オレ、コレ戻すついでに見てくるっス」
筋トレの用具を手に、桃城が言う。
「本当かい?頼んだよ、桃」
「いいえ。もしかしたら部長、食い過ぎで腹壊して唸ってるのかもしんねーし」
「てめえじゃあるまいし、んな訳ねぇだろ。バカが」
「あんだと!?このマムシ野郎!」
「マムシって言うんじゃねぇ!」
絶妙なタイミングで入れられた、海堂のツッコミに悪態をつきながらも、 部室目指して歩き出す。
そんな桃城の後を追いかけるように、海堂もまた部室へと向かっていった。


「失礼しまーっす」
数回ノックした後でドアを開けると、桃城はキョロキョロと周囲を窺う。
「部長ー、桃っス。…いませんかー?」
室内の様子に桃城が眉を顰めていると、彼の背後から、海堂が顔を覗かせ てきた。
「……静かだな」
「っかしーなあ。部長、いねーぞ?」
「何処かへ出掛けたんじゃないのか?」
「だとしてもあの部長が、電気つけっぱなし・鍵も掛けないまま部室を殻に するなんて、ありえねーな、ありえねーよ」
海堂にそう返した桃城は、部室の中央にある机の向こう側に、何かを発見した。
「あれは…」
ヅカヅカと足を進めると、桃城は、床に無造作に転がっていたモノを拾い上げた。
フレームなしの、テニス部員たちにとって、説明の必要もないほどに見覚えの ある眼鏡。
「…部長の眼鏡じゃねーか。あっぶねーなー、こんなトコに置いといて、踏んじ まったらどうすんだよ」
「…おい…桃……」
その時。海堂が、些か緊張した声で桃城を呼んだ。
「あン?」
あきらかに表情を強張らせながら、一点を見下ろしているライバルの様子に、桃 城もまた、同じ箇所へと目線を落とす。
そして次の瞬間、信じられないものを発見した。


そこには、意識をなくした手塚の身体が、力なく横たわっていたので ある。


桃城は弾かれたように身を屈めると、床に倒れたままの手塚の身体を抱き起こ した。
「───海堂、先輩たち呼んでこい!」
桃城の言葉を聞いて、海堂は僅かに震えながらも頷くと、レギュラーたちの いるコートへと走っていく。
桃城は、手塚のジャージとシャツを緩めて胸元を寛げると、片手を手塚の口 元に当てた。次いで、手塚の左胸へと顔を傾ける。
「……」
弱いながらも、彼の息遣いと心音を確認すると、桃城は幾分か表情を和らげた。
乱れた手塚の前髪を直してやりながら、他に外傷などないか、注意深く見る。

「手塚は無事なのか!?」

程なくして、海堂に事情を聞いたらしいレギュラー陣が、バタバタと部室へ 入ってきた。
「…ええ。俺が確かめた限りでは、息もしてるし、脈拍も異常ありません。多 分、気絶してるだけだと思うんスけど……」
青い顔をしながら尋ねてくる心配性の副部長に、桃城は、肯定の返事を返した。
それを聞いた大石たちは、深く安堵の息を吐く。
「……でも、さっき会った手塚は、いつもと変わりなかったよね?」
「今日の手塚が、急激に体調を崩す確率は、1パーセントにも満たないと思 うのだが…」
不二と乾がそんな事を話していると、

「…く……」
掠れた声に続いて、桃城の腕の中で、手塚の身体がピクリと動いた。
「──部長?」
呼びかけに反応するように、それまでずっと閉じられていた手塚の瞳が、ゆっくりと 開かれた。
その様子を見て、桃城は勿論の事、他の部員たちも顔を綻ばせる。
「手塚!」
「良かった!心配したにゃ〜」
「…大丈夫っスか?」
先程よりも、腕の中の重みが増した事に安堵しながら、桃城が手塚に問う。
だが、

「………」
腕の中の手塚は、何処か要領を得ない表情で周囲を見回していた。
自分の身体や顔などをペタペタと触りながら、やがて部室に備え付けてある鏡に映 った姿を確認すると、


「───ちょっと待てええぇぇっ!夢じゃなかったのかよ!?マズイよこれ、 マズイってマジで!」


普段、とても想像もつかない人物の絶叫を耳にしたレギュラー陣は、思わずそ の場に凍りついた。
常に冷静沈着・自分にも他人にも厳しいと評されている手塚の瞳が、まるで子供の ように大きく見開かれ、腕を組む事と眼鏡を触る以外に使い道があまりなさそう な(失礼な)彼の両手は、折角桃城が直してくれた頭髪を、グシャグシャと掻き毟 っているのだ。


「…ちょっと手塚!きみ、一体どうしちゃったのさ!?」
周囲の沈黙からいち早く我に返った不二が、ひとり喚いている手塚に声をかける。
「……手塚?ああ、ひょっとしてこのコの事?」
「え?」
返ってきた言葉に、不二は一瞬言葉を詰まらせたが、挙動不審なチームメイ トの様子を観察している内に、手塚の外見がいつもと若干違う事に気がついた。
黒曜石のような手塚の瞳と髪が、ワンランク色素を落としたようになっているし、 いつもの険しい表情は、何処かあどけなさを残した年齢相応のそれへと変わっている。

そして、何よりも。
───今の手塚の眉間には、縦皺が「まったく」刻まれていなかったのだ。

「ねえ…改めて訊くけど、きみは何者?」
先ほどとは、若干ニュアンスを変えながら、不二は目の前の「手塚」に、もう一度 質問した。
「おかしいにゃ!あの手塚が、バカみたいに騒いだりわめいたり…絶対変にゃ!」
「…英二。言い過ぎだぞ……否定はしないけど」
「だ、大丈夫かい?手塚。どっか頭打ったりとかしてない?」
「……頭部の強打などによる、一時的な意識の混乱状態だとしても…今の手塚は 怪しすぎる。まるで、俺たちの知らない人間のようだ」


「はぁ?なに言ってんだよお前ら。ついさっきまで、俺と大和の写真見て笑ってた じゃねぇか」


言いたい放題の3年生たちの舌は、「手塚」の一言によって止められた。
「え!?」
「……そういや、自己紹介がまだだったな。俺の名前は。一応、はじめまして…になるのかな?」

手塚の姿をした少年はそう名乗ると、ぐるりと一同を見渡した。



それから5分後。
部室のドアノブには、『レギュラーミーティング中につき、立ち入り禁止』の看板が ぶら下がっていた。

』と名乗った少年は、封筒の中の写真を懐かしそうに眺めながら、部員たちの 質問に答えていた。

「……単刀直入にお訊きします。何故、ウチのOBであるあなたが、手塚に取りついた りしているのですか?」
胃の痛みを抑えながら、副部長としての使命か、元来の生真面目さからか、大石が「手塚」 の姿をした少年に尋ねる。
「それに、大和部長は今、高等部の2年生にゃ。あんたが大和部長のさらに先輩なら、 今頃は大学生の筈だにゃ!」
「うーん…普通に考えればそうなるんだけど……」
菊丸の突っ込みに、は、少しだけ表情を曇らせる。
「……今、青学(ウチ)の過去の卒業生のデータに、アクセスしてみたのだが…」
お気に入りのノートPCを操りながら、乾が眼鏡を光らせる。
「……最近のパソコンって、そんな事まで出来るんだ?」
乾の姿を見ながら、 は素直に驚いたような顔をした。
「……確かに、という名の学生が、第20期生及び第20代テニス部部長として在 籍していた。だが……」
そこまで言いかけて、乾は顔を動かすと、を見た。
「──いいよ、気にしないで」
途中で言葉を止めた乾の真意に気付いた は、小さく微笑むと続きを促す。
「乾…?」
「『……年6月×日、3年次在学中に死亡』──そう、続けられている」
「…そう。俺、今から4年前に死んじまったんだ。だから、俺の時間は、当時 の15歳で止まっちゃってるって訳」
そう言って、 は少しだけ寂しそうに笑った。
「って事はアンタ、ゴーストなんスか?」
の答えを聞いて、机の一番隅に腰掛けていたリョーマが、伏し目がちに問いかけてきた。
「えらく生意気なドチビだな、おい……1年が、この時期にレギュラージャージ着てる なんて、特例か?」
「…『ドチビ』は、余計っス」
「そーそー、オマエはちょっと『チビ』なだけだよなぁ」
「うるさいっスよ、桃先輩」
帽子ごと、頭をくしゃりとやる桃城に、リョーマは不機嫌そうに応じた。
「キミが、あの写真に載っていたOBだって事は判ったよ。だけど、何で今になって化け て出てきたの?」
「──化けてねぇっ!勝手に人を怨霊にすんな!」

涼しい顔で尋ねてきた不二に、は、弾かれたように机を叩いた。
「人も何も、キミ既に死んでるんじゃない。どんな未練があるのか知らないけど、迷惑 だから、さっさと手塚の身体から出て行ってくれない?」
「だったら、4年も待たずに死んだ直後から彷徨ってるわ!そりゃ、確かに心残りはあ ったけど…俺だって、あっちの世界でそれなりに人生エンジョイしてたんだぜ!?」
「あっちの世界に、人生なんてないじゃん」
「てんめぇ〜…見えてるんだか、見えてないんだか判んねぇ細目の分際で、好き勝手 ほざきやがって……」
「好き勝手ほざいてるのは、どっちだい?」


突然、部室内で起こった氷点下の舌戦に、レギュラー一同は、恐れおののいた。
開眼した不二の怖さもさることながら、その不二をものともせずに、表情豊かに睨み を利かせている「手塚」というのも、また恐ろしい。
一触即発か、と誰もが部室からの避難を考えた矢先。

『やめろ…不二。それに、お前もだ……』

何処か弱々しいが、意識の奥底から響くような声が、部室に轟いた。
同時に、「手塚」の身体が傾いだと思いきや、それまで明るかった彼の髪と瞳が、 徐々に元の色へと戻っていく。
「手塚?」
「部長!」
部員たちが見守る中、苦しげに呼吸を繰り返しながら、厳格なテニス部長は懸 命に言葉を振り絞った。
「信じたくはないが…今、俺の中にはという男の意識が入り込んでいるらしい。このままでは、都大会を控えた テニス部に悪影響が……早急に、手を打つ必要がある……それと、」
「?」
「不二・菊丸・大石・河村・乾……貴様らやはり、片付けと称して無駄な時間 を過ごしていたようだな。後で…グラウンド……20しゅ………」
それだけ告げると、手塚の身体は机の上に崩れ落ちた。


「…何処までも生真面目な人だね、『手塚くん』って」
再び、手塚の身体を支配したらしきが、しみじみと呟く。
「うん。存在自体が不真面目なキミとは違ってね」
「いちいちつっかかってくんじゃねーよ、おめーはよぉ!」
「──とにかく!」
地獄の舌戦が再開される前に、大石が先程よりも青い顔をしながら強引に 話を切り出してきた。
先輩。あなたの為にも手塚の為にも、こうなってしまった原因を探り、解決 しなければなりません。いくらあなたの意識の方が強いとは言っても、その身体 は、僕たちの大切な手塚のものなんです」
「──ああ。別に俺だって、手塚くんをどうこうしようだなんて、ハナっ から考えちゃいないよ」
「じゃあ、何でアンタは部長の身体に取り付いてるんスか?」
「それが判らないから、こうして悩んでるんじゃないか!」
眉を顰めながらの海堂の指摘に、 も、負けじと渋面を作っていると。


「……じゃあ、その原因が判ればいいって事?」
生意気な1年生レギュラーの言葉に、を含めた上級生たちは、一斉に彼の方を向いた。
「おちび?何か手があるのかにゃ?」
「ない訳じゃないっスよ。……アイツの手を借りんのは、ちょっと癪だけど」
やや語尾を濁しながら、リョーマはの傍へ歩み寄る。
「ねえ。あんたんちって、仏教?」
「──?あ、うん。多分そうだけど?」
「なら、話は早いや。今からウチに来てくんない?」
「へ?」
の返事に満足そうに頷くと、リョーマは呆気に取られている他のメンバーをよそに、 の手を引っぱっていった。




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