『継承』


自分の名を呼びながら微笑む少年に向かって、青年は必死で手を伸ばしていた。
直ぐ目と鼻の先にいる筈なのに、どうしても自分の手は、少年を掴まえる事が出来ない。

「待てよ!どうして俺から離れるんだよ!」

いくら叫んでも、少年はまるで聴こえていないかのように、青年から背を向けて、暗闇 の彼方へと去ってしまう。

「行くな…頼む!俺をおいて行くな!」

懸命に足を動かしながら、青年は少年の後を追った。
暫く走った所で、青年は足元に転がる何かを見つけた。
フレームに彩られた黄色のラインも眩しい、ウィルソンのテニスラケット。
拾い上げてみたものの、そのガットには穴が開き、フレームも何処かにぶつけたのか、 奇妙に変形していた。

「なんで、アイツのラケットがこんな所に…?」
『やったのは、お前だろう』
「!?」

すると、突然背後で声がした。間違える事のない少年の声を聞いて、青年は振り返る。
だが、次の瞬間目にしたものは、血の海で横たわった少年の姿だった。



『起きろ』
「う〜ん…あと10分」
『さっさとしろ。何時だと思っている』
「お願い…あと9分30秒……」
『いい加減にしないか!朝練に遅刻をするぞ!』
「…ぇ?……あーっ!」

脳裏に響いた怒声と、枕元の時計に目をやったは、絶叫を上げた。

「何で起こしてくれなかったんだよ!?」
『俺は、何度も起こした。お前が目覚ましを止めたのだろう!』
「…そうだっけ?……うわ〜ん、ゴメ〜ン!」
『泣いている暇があったら、手を動かせ!』

手塚に促されて、はバタバタと支度を始めた。向こうで着替えるのを諦めたのか、 レギュラージャージに袖を通すと、学生服とYシャツをカバンに突っ込み、ラ ケットケースを肩に担ぐ。

「コラ、国光!何じゃその様は!行儀の悪い!」
炊飯器から掬い取ったご飯を、しゃもじごと口に運んでいる手塚の姿に、祖父の国 一が声を荒げる。
「ゴメン、おじいちゃま!俺、今マジで遅刻しそうなんだ!お説教は帰ってか らにして!」
普段の孫からはとても考えられない言動に、国一が呆気に取られている隙を突い て、は、口元に付いた飯粒をペロリ、と舌で舐め取ると、騒々しい足音を 立てながら廊下を駆け抜けた。

『お前は、おじい様に何て口の利き方をするんだ!』
「後々!う〜ん…全速力で走っても、間に合うかどうかだな……」
玄関の置時計を確認したは、手塚の糾弾もそこそこに、ひとり眉を顰めていた。
『まったく…テニス部部長が遅刻など、論外もいい所だ』
「流石に、それは避けたいよね。俺もやんなかったし」
『誰の所為だと思っている!……お前は、遅刻をした事がなかったのか?』
辛辣に返した後で、手塚はの言葉に重ねて質問する。
「これでも一応、青学部長の看板背負ってたんだぜ?何度か危ない時もあったけ ど、ちゃんとギリギリセーフで間に合…って、そうだ!手塚くん、きみ自転車持ってる?」
『…あ?…ああ。車庫の隅に1台あるが…何の変哲のない、ただの自転車だぞ?』
「充分、充分!」
手塚の返事に、は顔を輝かせた。小走りに車庫まで近づくと、型は旧いものの、キチン と手入れをされた自転車を見つけた。

「凄い!昔なつかし氷屋さんの自転車じゃん!」
年代もののそれに、は歓声を上げた。
『だから、言っただろう。便利な機能などない、ただの自転車だと』
「えー?何で?カッコイイじゃん。俺、こういうの大好き!」
今ひとつ判らないの感覚に、手塚は内心で首を傾げる。
そうしている間にも、は、鍵を差し込んでスタンドを下ろすと、颯爽と自転車にまたがっていた。
『本当に乗っていくつもりか?』
「だって、遅刻を免れるには、コレしかないよ」
『大丈夫なのか?俺は普段、あまり自転車には乗っていないのだが…』
「『青春台のアームストロング(ツール・ド・フランスなどで有名な、自転車競 技の選手の名前)』とは、俺の事!いいからここはにおまかせ!」

手塚の危惧を振り払うかのように、は、軽快にペダルをこぎ始めた。


その頃。
「参ったな。このままだと、完璧に遅刻かも」
そう口で言う割には、ゆっくりとした足取りで、リョーマは学校までの道のりを歩いていた。
いつもなら桃城の迎えで、彼の自転車に乗せて貰うのだが、何でも今日は委員会の 当番だとかで、朝練に来られないらしい。
「朝からグランド10周か…ちょっとキツイかな」
低血気味のリョーマには、少々つらいメニューを頭の中に浮かべると、いっそこのまま練習 をサボってしまおうか、などという気持ちになってくる。
すると、

「おぉ〜い!ドチビー!」

坂の向こうから、チリリン、とベルを鳴らしながら、一台の自転車が、リョーマの前ま でやって来た。
まるで、象が踏んでも壊れなさそうな年代物の自転車に、自分の良く知る人物が跨って いるのを見て、リョーマは驚愕する。
「部長…じゃない。あんた、ゴーストか」
「ご挨拶だなー。ちゃんと名乗っただろ?」
「んじゃ、しょうがないから呼んであげる。おはよ、
「呼び捨てかよ」

口ではそう返しながらも、さして気にした風もなく、は、足元でペダルを半回転させると、時間(遅刻)との勝負を再開する態勢に入る。
「ねぇ。オレも乗せてってくんない?」
すると、桃城の自転車よりも頑丈そうな荷台に目をやったリョーマが、の背中に声をかけてきた。
『バカを言うな。自転車の二人乗りなど、交通法に反する』
「部長には聞いてないっス。それに、オレと一緒なら、遅刻しても言い訳が作れるっスよ」
さらりと手塚の拒絶を無視したリョーマが、の顔を覗き込んでくる。
「え…ホントに乗る気?」
は、リョーマの顔を怪訝そうに見つめ返してきた。
「アンタも意外と固いね。二人乗りくらい、別にいいじゃん」
「…いや。二人乗りは構わないんだけど、俺の後ろに乗るのは……」
だが、口の中で言葉を濁しているの返事を待たずに、リョーマは自転車の荷台に腰掛けた。
「早く行こうよ。このままじゃ、ホントに遅刻しちゃうよ」
強引なリョーマの言い分だが、確かに一刻を争う時なので、そうのんびりもしていられない。
脳裏で盛んに喚いている手塚をよそに、は小さく息をひとつ吐くと、自転車のハンドルを握る。
「……ドチビ。ひとつだけ言っとく」
「──なんスか?」
「しっかり掴まってろよ」

何処か神妙な口調のに返す間もなく、ふたり(?)を乗せた自転車は、学校に続く坂を、 物凄い勢いで下り始めた。


「申し訳ありませんでした。こんな朝早くから」
「高等部の部活は、大丈夫なんですか?」
「ご心配なく。今は試験中なので、朝練は休みですよ」

朝練開始前の部室前に、珍しい人影がひとつ、3年レギュラーに混ざって立っていた。
恐縮しながら頭を下げてくる大石と河村に、高等部の制服を着た人物は、小さく首を振る。
「それにしても…大石くんから連絡を貰った時は、正直信じられませんでした。まさ か、そんな事が実際にあるとは……」
「そうでしょうね。俺たちも、はじめはただ驚くばかりでしたし」
「ねえ、大和部長。…って、どんな先輩だったの?」
着替えを済ませた菊丸が、高等部の制服を着た人物に問う。
「…そうですねぇ、たった数ヶ月の間しか一緒にいられませんでしたが、あの人のテニ スにかける情熱と実力は、尊敬に値するものでした」
「ふーん、一応それらしい事はやってたんだ」
「不二くん。そんな風に言うのは失礼ですよ。先輩は、生きていれば今頃、学生テニス界の頂点も夢ではなかった人なの ですから」
棘々しい不二の言葉に、大和祐大は、無精ヒゲにまみれた自分の顎をしゃくった。
「また、それ以上に先輩の指導力は、相当なものでした。出来る事なら僕も彼に、もっと沢山の事を 教えて貰いたかったです」
しんみりと呟いた大和に、3年レギュラーたちは、互いに顔を見合わせる。

この人物に、ここまでの賞賛をうけるという事は、やはりという部長は、只者ではないのだろう。
だが、話を聞いている限りでは、を呼んだのは大和ではなさそうだ、と大石たちは思った。

「もうそろそろ朝練開始時間だけど…手塚はまだ来てないのか?」
「おちびもまだだにゃ」
「桃は、委員会の当番だと言っていたから…来ていないのは、あのふたりだけだな」
「ふたりじゃないよ。余計な幽霊もついてるじゃない」
「ふ、不二。仮にも先輩なんだから……」

1年生レギュラーと、話題の張本人たちを探していると、校門の方角から、何やら人の声が聞こえてきた。


「…下ろせー!頼むから下ろしてよ!」
「走行中に喋ると舌噛むぞ!」
悲鳴交じりの声を他所に、一台の自転車が、学校の敷地内を爆走していた。
早朝なので、人の気配は少ないものの、『何人たりとも、オレの前は走らせねぇ』状態で 飛ばし続ける自転車に、周囲は何事か、と視線を送っている。
ここに到着するまでに、何度危ない目に遭ったか判らない。
少々小憎たらしい所もあるが、リョーマは、今ほど後輩思いの先輩の自転車の後ろが恋しいと 思った事はなかった。

「…ちょっと、何処行く気?自転車置き場、過ぎちゃったよ?」
振り落とされないように、の腰に腕を絡めながら、リョーマはいつもよりやや上ずった声で尋ねる。
「いちいち寄ってたら、間に合わないだろ?直行するからな!」
「本気で!?」
の気合と共に、自転車が更に加速する。
テニスコートへの道をショートカットで突き進むと、やがて前方にフェンスの扉が見えてきた。
「──!?Stop it!ぶつかる!」
減速する気配のないに、リョーマは今度こそ悲鳴を上げた。このままでは、扉に激突してしまう。
「安心しろ。昨日通って判ったけど…ここの扉は、相変わらず鍵がもろい!」
そう言って右足を振り上げたは、次の瞬間、扉に強烈な蹴りを入れた。
否や、激しい音を立てながらコートへの扉が開く。
「な、何だ何だ!?」
あまりの物音に、テニス部員たちが扉に目をやると、その直後、氷屋さんの自転車(笑)が、 横滑りに飛び込んできた。
タイヤの軋む音と、砂埃がおさまると、ふたりのレギュラー部員の姿が現れる。

「よーし!ギリギリ1分前!」

手元の腕時計を確かめながら、嬉々として自転車を降りる青学テニス部長と、

「…もう…ぜってー、アンタの自転車には乗らない……」

覚束ない足取りで地面に降り立ったリョーマを、一同は、呆気に取られた表情で見つ めていた。


「あそこまでバカだと、いっそ清々しいよね」
「うん。桃でも、ここまではやらないにゃ」
「手塚がママチャリで爆走…中々貴重な映像だったな」
「あの…か、彼が手塚…というか……なんと言うか……」
「あー…判りましたから、大丈夫ですよ。あんなドリフトで自転車運転出来る人は、 先輩くらいのものです」

胃の辺りを押さえてげっそりと言葉を吐き出した大石に、大和は複雑な笑みを浮かべていた。




ブラウザの「戻る」でお戻り下さい。