『継承』


先輩。ご無沙汰しております」
「…大和か!ちょっと見ない間に、随分老けちまったんだな、お前……」
にこやかに微笑む大和に、は、懐かしそうな顔をしながら、近寄った。
「はじめて会った頃は、俺よりもずっとずっと小さかったのになあ…お前、 今でもテニス続けてるのか?」
「はい、勿論です」
「そうか!それは何よりだな!」
首肯した大和を見て、は、満面の笑みをその顔に浮かべた。
外見は手塚なのだが、その身に纏う雰囲気が、あの笑顔の眩しい部長を連想させ、 大和は色付きの眼鏡の奥で、瞳孔を開く。
そんな大和の手を取って談笑しているの影で、手塚はかつての部長の表情を、興味深げに見つめていた。


「誰っスか、あの人」
漸く三半規管が回復したのか、それまで木陰で坐っていたリョーマが、立ち上 がりながら、大石に尋ねてきた。
「ああ…彼は、大和祐大さん。俺たち3年生が、1年生の頃お世話になったテニス部 の部長だよ」
「そのOBが、どうしてここにいるの?」
「俺たちが呼んだんだよ。大和部長は、手塚に憑依しているの、生前の姿を知っている人物だからね。ひょっとしたら、今回の件に何 かしら咬んでいるかも知れない、と思っていたのだが……」
「手塚の様子が何も変わらない所を見ると、違うみたいだね。考えて みれば、当時1年生の大和部長と3年生のとじゃ、接点なんか限られているだろうし」
乾の呟きに淡々と返しながら、不二は、部室の前で話をしている大和とを眺めた。


「あの時は…お前たちには、本当に迷惑掛けちまったな」
「いいえ。僕たちよりも、先輩の方が無念だったのは、判っていますから……」
申し訳なさそうに言うに、大和は首を横に振って応える。
「あの頃の連中は、元気でやってるのか?」
「…え、ええ。先輩の代の事までは、詳しくは判らないのですが……僕と同期の 連中は、高等部でもテニスを続けていますよ」
「──そっか…嬉しいなあ。皆、テニスを好きでいてくれてるんだ」
『……?』
その時。
ほんの一瞬だが、手塚の瞳に、大和の曇ったような顔が写った。
明るく笑うとは、あまりにも対照的な表情に、手塚は心の中で眉を顰める。

『…手塚くん?どうかした?』
『あ…いや。なんでもない』

手塚の心の変化に気付いたのか、が脳裏に呼びかけてきたが、手塚は少しだけ慌てながら応える。
その後、直ぐに大和は、いつもの元の飄々とした様子に戻ったのだが、現役中 でも滅多に見る事のなかったかつての部長の渋面に、手塚は、彼が去った後も 暫くの間、もやもやした感情を持て余していた。


放課後。

レギュラー以外の部員たちを顧問のスミレに任せると、は、先日約束をしていた「黄金ペア」のダブルス強化の指導に取り掛かった。
「それじゃあ、まずはふたりのお手並み拝見、といこうかな」
部活の貸し出し用ラケットを右手に持ちながら、はレギュラー専用のAコートに入ると、反対側にいる大石と菊丸に声をかける。
「はい。よろしくお願いします」
「にゃははっ。大石が、手塚に敬語使ってるみたいで、おかしいにゃー」
「ちなみに、俺が出ている時でも、手塚くんの意識は眠っている訳じゃないからね」
「げ…マジ?」

冗談めいた会話で始められたものの、実戦形式を用いられた練習は、予想以上にハ ードなものだった。
のパートナー役としてコートに立った乾も、始めはデータ採取に意識を 向けていたが、程なくしてそんな余裕がない事を、思い知らされていた。

「うーん…都大会の1回戦、2回戦くらいなら何とかなるだろうけど、それ以降も今の ままじゃ、ハッキリ言ってお話にならないよ」

今までにない疲労感に身体を苛まれている「黄金ペア」のふたりに、は、口調こそ穏やかなものの、手厳しいコメントをした。
予想外に辛口な採点に、大石たちだけでなく、周りのレギュラーたちも言葉を失う。
「大石くん。『オーストラリアン・フォーメーション』の利点は何?」
「……攻撃的な試合展開が出来る所です」
「うん。じゃあ、その為にやらなければいけない事は?」
「通常よりも、体力の消耗が激しい分、短期決戦を必要とされます」
「そうだね。それなのに、どうしてここまで時間がかかっちゃったのかな?」
返された質問に、大石は口を噤んでしまう。
「──攻撃力不足だにゃ……」
すると、大石の代わりに菊丸が答えてきた。
それを聞いて、は小さく頷く。
「まず…体格が比較的大柄の手塚くんと貞治さんが相手だから、君たちは、テクニック重 視の攻撃を展開してきた」
腕を組む手塚とは違い、は、手を腰に当てながら話を続ける。
「確かに、その方法は間違ってはいない。だけど、予想以上に対処してきた俺たち に、途中からおかしくなり始めた。英二くんは、スタミナが切れてきた し、そんな英二くんの前衛に、後衛の大石くんは、いつも通りの動きが出来なくなった」

「サーブの後は前衛の対角にいなきゃいけない後衛が、最後には一体何処にいたの?」 と突っ込まれ、大石は何も言えなくなってしまう。

「『オーストラリアン・フォーメーション』は、生半可な気持ちじゃ出来な いよ。だったら、最初っから使わない方がまし。都大会のセミファイナルや関 東大会レベルになったら、君たちの針の穴程度の綻びでも、相手は容赦なく攻めてくるからね」
「……」
「そういう意味でダブルスは、シングルスよりも難しいものなんだ。あんまり甘く考え てると、痛い目見るぞ」
「…仰るとおりです」
「返す言葉もないにゃ……」
の指摘に、ふたりはガックリと肩を落としていた。

『この人は、僅かの間にそこまで考えてプレイをしていたのか』
自分の隣に立つを、乾は、信じられない想いで見つめていた。
手塚の姿をしたこの人物は、朝、レギュラーたちのデータを少し見ただけで、ここまで の指導をしてきたのだ。
『英二くんの動きを、可能な限り先読みしてコースを塞いで』
そう頼まれたものの、「黄金ペア」を相手に実行するのは、生易しいものではない。
ところが、いつしか乾はのリードに、自然と身体が動いているのを感じていた。
『小柄な選手と違って、大柄な選手は、そのリーチと行動範囲が武器だよ』
データ以上の自分の動きに、顔にこそ出さなかったが、乾は正直驚愕していたのだ。
──指導者を目指していたという、悲劇のテニスプレイヤー。
……もしも彼が生きていたら、青学テニス部は、もっと早くに全国制覇を狙えたかも知れない。
乾の脳裏には、そんな漠然とした考えがよぎっていた。

「…さ。弱点が判った所で、練習再開しよっか」
いままでの厳しい口調とは打って変わって、明るい声がふたりの耳に届く。
「大会前に、自分たちの欠点が判って良かったと思わない?後は、克服するだけじゃない」
「え…?」
「モノにしたいんでしょ?そのフォーメーション」
「──はい!」
ウインクしながらの問いかけに、大石と菊丸は力強く答えた。
は、乾に付き合ってくれた礼を言って下がらせると、今度は大石と菊丸ひとり ずつ交代で、前衛と後衛の指導を始める。
「英二くん、もっとダッシュを早く!俺の動きを見て、ボレーのタイミングを切り 替えて!」
「ほほーいっと!」
「ナイス!次、大石くん!英二くんを走らせるから、いつでもフォローに回れるようにして!」
「はい!」

時折身を乗り出しながら指導に努めるを、手塚は複雑な気持ちで見守っていた。
自分の姿をした「他人」が、テニスを教えている───

(これが、かつて青学テニス部部長を務めていた…そして、あの人が尊敬してい た という男なのか……)

今まで見る事のなかった、テニスプレイヤー・そして指導者としてのの姿は、まさに青学テニス部の主将と呼ぶに相応しい。
悔しいが、自分には真似の出来ない事をやってのけるに、手塚は仄かな憧憬と、そして嫉妬感を覚えていた。


「んじゃ、先輩たちお先っス」
「はーい、お疲れさま!気をつけて帰れよ〜」
練習が終わった後で、レギュラーたちはそれぞれに散っていった。
あれから、みっちりとに鍛えられた大石と菊丸は、久々に「例の場所」へ反省会をしに出掛け、2年生レ ギュラーの海堂は、日課である自主トレを開始する。

……ちなみに、桃城と一緒に帰った越前は、朝よりもはるかに乗り心地の良い自転車の後 ろに、心から安堵していたとか、いないとか。


「…。現役当時の君のプレイスタイルは、何だった?」
学生服に着替えているに、ノートを手にながら乾が話しかけてきた。
「俺のなんか聞いて、どうするの?」
「紛失してしまった、過去のデータの再編がしたいのと…後は、俺自身の興味も 少しある」
「俺は実戦に出る気はないよ。手塚くんに失礼だからね」
レギュラージャージをバッグにしまうと、は訝しげな視線を乾に向けてきた。
「判っているよ。ただ…4年しか経ってないのに、君のデータがあまりに も少なすぎると思ってね」
「……」

の存在が気になり始めた乾は、個人的に彼についてのデータを集めていた。
ところが、肝心な所でロックがかかっていたり、テニス界の情報を検索しても、 どうも芳しいものが得られなかった。
そして何より、顧問のスミレから「について、あまり余計な事を詮索するな」と、釘を刺されてしまったのだ。
僅か数年前まで現役、それも相当の実力者だった人間の存在が、どうしてここ まで隠されているのか。
駄目と言われれば言われるほど、乾の好奇心は膨れ上がる一方であった。

「……それより、今は大会の事を気にしなよ」
「勿論。でも、俺たちの仲間である手塚に憑依している君の事を、俺たちが何も 知らない…というのは、些かアンフェアじゃないのかな?」
巧みな弁舌で切り替えしてくる乾に、は小さく息を吐くと、
「答えられる範囲でいいのなら」
「本当かい?有難う」
条件付だが承諾の返事を聞いた乾は、口元を綻ばせた。
「じゃあ、改めてプレイスタイルから」
「右利きのオールラウンダー。シングルスよりもダブルスの方が得意だった」
「大会の実績は?」
「過去の目録にも載ってると思うけど、2年生の時に……」
「趣味と好きなもの、得意だった教科は?」
「──そんな事まで訊くの?」

些か緊張感の欠けたインタビューをしている間に、外に出掛けていた大石や菊丸・ 海堂が、部室に戻ってきた。
「たっだいま〜!あれ?乾ぃ、何やってんの?」
のデータ集めだって。暇な事してるよね」
「……そう思ってんなら、止めてくれても良かったんじゃねぇのか?」
「だって、君が困ってる姿見てるの面白いんだもん」
今までずっと、部室で事の成り行きを傍観していた不二が、の言葉に、嫌味で応酬する。
だが、乾ほどではないが、不二もまたについて、内心興味がある事は否めなかった。
大石たちを前にしたあの指導力は、生半可なものではなかったからだ。
『これで、選手としての実力も見せて貰えるといいんだけど……手塚には、ち ょっと悪いけどね』
彼がいわゆる「向こう」の世界に戻るまでの間に、そんなチャンスがめぐっ てきたら…と、不二は、少々不謹慎な考えを頭に浮かべていた。


「君のデータは、有効に活用させて貰うとするよ」
ノートを閉じながら、乾はに礼を言うと、ロッカーから小型のクーラーボックスを出してきた。
「ついでと言っては何だけど、改良型が出来たから、君にも試飲して貰おうかな」
いそいそと中身を取り出す乾の様子に、不二を除いた部員たちは、うっ、と息を詰まらせる。
「何?みんな、どうしたの?」
『……。悪い事は言わん。今すぐ部室から出ろ』
「──へ?」
しきりに警告を促す手塚に、は訳が判らず困惑する。

「あ、新しいの出来たんだ」
「そう。前作よりも、栄養価が約1.5倍のものだ。割合は…」
『汁』の恐怖に怯える部員たちを他所に、唯一の例外である不二は、乾の出してき たコップを受け取ると、自然な動作で飲み干した。
「……うん。栄養価が高い分、後味は残るけど、悪くはないよ」
「そうだろう。…さあ、。これで部活の疲れを癒すといい」
『癒せる訳ないにゃー!』
先輩!いや、手塚か…?とにかく、それを受け取っちゃダメだ!』
『ふしゅううぅ〜…(ハラハラしながら見守っている)』
奇妙な色のコップを渡されたは、暫くの間それをしげしげと見つめていたが、乾の言葉に素直に頷 くと、くい、と中身を流し込む。

だが、数秒も経たない内に、の表情が思い切り歪み始めた。
息を止めてコップを口から引き離すと、傍で見物していた不二の方へ顔を背ける。
そして次の瞬間、飲み切れなかった口の中の汁を、勢い良く吹き出した。

『命が惜しくないのか、この人はー!』

眼前で起こった出来事に、大石たちは顔色を失う。
は、ゲホゲホと噎せながらコップを机に叩き付けると、大股に乾へと詰め寄った。
「貞治さん!君は俺を、もう一回殺す気か!?」
「──その前に、二度と生き返れないように、魂まで粉砕してあげようか?」
その理不尽に染まってしまった顔以上に、どす黒い気を放ちながら、不二が背後 からの髪を引っ張る。

「お、不二子。中々男前な面構えになったじゃねぇか」
「寝言は寝てから言いなよね。…あ、もう死んでるから寝言じゃないのか」
「うるせーなー。大方お前、俺がコレ飲んでのた打ち回る姿でも見て、笑うつもりだ ったんだろう。自業自得なんだよ」
「……何その言い草。人にこんな事しておいて、謝るとかない訳?」
「他の奴ならともかく、お前になんか誰が謝るか」
「喧嘩売ってるなら、相手を選んだ方がいいよ…」
「──上等だ、ゴルァ!」


「ふたりとも、やめるにゃ〜!」
「不二、とにかく顔を洗って来い!先輩も、落ち着いて下さい!…うぅ、胃が……」
部室で取っ組み合いを始めてしまった不二とに、大石と菊丸が懸命に止めに入っていた。
後輩である海堂は、目の前のある意味「頂上対決」に、どうした ものかとおろおろしているだけで、菊丸たちのように割り込んでいくような 勇気までは、持ち合わせていなかった。

「不二と手塚…もとい、の肉弾戦か。この様子でいくと勝率は……」
一方、喧嘩の発端ともいえる乾は、のん気にふたりのデータ採取へと、意識を 集中してしまっている。


だが、何気なく叫ばれた科白の裏に隠されたの過去には、この時は未だ誰も気づく事はなかった。



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