『継承』


青学テニス部で、「幽霊と魔王」の頂上決戦が繰り広げられている時。
越前南次郎は、井上からかかってきた電話を、気だるそうに受けていた。

「かぁ〜…しっかし、お前さんもしつけぇ奴だね」
『これが仕事ですから。息子さんのリョーマくんともども、また色々と お話を聞かせて貰う事にしますよ』
受話器から聴こえてきた声に、南次郎は口元をニヒルな形に歪める。
『青学テニス部も、都大会に向けて頑張っているようですね』
「まあ、そうみたいだな……」
適当に相槌を打っていた南次郎だったが、ふと脳裏に浮かんだ少年の名前に 気付くと、珍しく自分から、井上に質問をした。
「おい。お前さんは、昔青学にいたってガキの事を知ってるか?」
……』
いつもなら、屈託なく答えてくる相手の口が、南次郎がその名を呟いた瞬間、 まるで貝のように閉ざされた。
「……何だ?知らないって事はないだろう。ほんの数年前までは、現役でバ リバリやってたヤツだぞ?」
『…どうしてその名前を?』
数秒の沈黙の後で、酷く強張った声が、南次郎の耳に届いた。
「ん…まあな。一応俺も青学のOBな訳だし。死んじまったとはいえ、可愛い 後輩の名前くらいは、判るってモンさ」
突如、豹変した井上を不審に思いつつも、南次郎は言葉を続ける。
『…本当に、将来が楽しみなプレイヤーでした。あんな事さえ なければ、今頃は、インカレやユニバーシアードのコートにも立てたで しょうに……』
「あんな事?」
『不幸な事件…いいえ、それだけでは済まされない程、悲惨な事件でした……』
受話器を握り締めながら、井上は、自分の身体が小刻みに震えているのを覚えた。


4年前。
ある事件がきっかけで、テニス選手として将来有望だった筈の少年が、その 未来を永久に断たれた。
そして当時、その事件を巻き起こした張本人が、いわゆる権力世界を牛耳る 人間の、庇護の下に置かれていたのだ。
少年の無念を晴らすどころか、方々にその権力者の息がかかった結果、 少年の存在は、テニス界から忘れ去られる事になってしまったのだ。


「…えげつない真似しやがるな……」
井上の説明を聞いた後で、南次郎は所在無げに頭をボリボリと掻いた。
『悔しかったですよ。…でも、彼と残された彼の家族は、もっと悔しか ったでしょうね』
理不尽な仕打ちによって、未来も何もかも奪われた少年の事を思う と、不憫でたまらなくなる。
そして、記者として何も出来なかった自分にも、井上は憤りを感じていた のだ。
「なるほどな…こりゃ、恨みつらみで化けて出てきても、おかしくなかっ たって訳だ。でも、あいつ自身にそんな兆しは、まるでなかった。とい う事は……」
『──どうしました?』
「いや、何でも。…お前さん、当時のの載っていた記事とか、まだ残ってるか?」
『え?…ええ。バックナンバーでよければ』
「悪ぃが、出来るだけ早く見せて貰えねえか?」
『判りました。じゃあ、明日にでも郵送させて頂きます。それにして も…どうしていきなり、彼の事を?』
受話器から聴こえてきた質問に、南次郎は片眉を吊り上げると、

「うちの坊主が、世話になったからな」
『はあ?』

先程、帰ってきて早々に「アイツの自転車に散々な目に遭わされた」と、 ぼやいていた息子のしかめっ面を思い出しながら、笑い声を上げた。


帰宅後。

待ってました、と言わんばかりの祖父の説教の嵐を食らっていた手塚 とは、食事の前に汗と疲れを流そうと、風呂に入っていた。

「あ〜疲れた。手塚くんのおじいちゃまって、元気だね」
『まったく…ここまで長い説教を聞かされたのは、久しぶりだ』
「今度から気を付けるね。目覚ましも、枕元から離して置くから」
『くれぐれも、自転車の暴走だけは、勘弁してくれ』
浴槽に身体を沈めると、は大きく息を吐く。

「いよいよ、来週は都大会だね。手塚くんも頑張ってね」
『あまり、余計な真似はしてくれるなよ』
ウキウキとした口調で話しかけてくるに、手塚は大会までに自分のコンディションを整えられるか、 一抹の不安を覚えていた。
「心配しなくても、俺は手塚くんの邪魔をする気はないよ。大会に出るのは、 手塚くんたちなんだから」
『それならいいのだが…』
「明日は、俺は休ませて貰う事にするよ。あと…手塚くん」
『何だ?』
「今日、身体を動かしてみて判ったんだけど…君の利き腕、何か違和感があ るんだ。一度、ゆっくり治療した方がいいんじゃない?」
『…!』

ためらいがちに切り出された言葉を聞いて、手塚は意識の奥で表情を強張らせた。
今日の練習だけでも、ある意味、乾以上にメンバーのクセや体躯について、的確な アドバイスをしていたである。
他人は知る事のない、己の過去の古傷も、瞬時に気付いたのだろう。
ラケットを持っていたのも、生前のクセだろうけれど、手塚の逆手である右だったし、 練習の途中から、左への負担を意図的に少なくさせていたの行動に、手塚は有難くもあり、 また複雑な気持ちを抱いていたのだ。

『…もう、肘は治っている』
「うん。…だけど、今まで無意識に肘を庇ってなかった?上腕から肩にかけて、相 当な筋肉の疲労が感じられたんだ」
『……自分の身体は、自分が一番良く知っている。余計な心配は無用だ』
「でも……」
『俺たちの邪魔をする気はないのだろう?だったら、いらぬお節介は止めても らおうか!』
「……」
浴室の鏡に映ったの表情は、納得がいかない、と言いたそうだった。
の気遣いは、確かに嬉しかった。
だが、彼の厚意は、同時に手塚を苛立たせていたのだ。
憑依されている事で、己の意思だけでは身体を動かせられないもどかしさ。
彼のテニスの指導力を目の当たりにした時の、誤魔化しようのない嫉妬感。

そして───今まで誰にも知られる事のなかった利き腕の爆弾を、一瞬で見抜かれ た驚愕と恐怖。


「……手塚くん?」
ためらいがちにかけられたの声に、手塚は我に返った。
下らない一時の感情で、八つ当たりのような真似をしてしまった自分を、手塚は恥じる。
『すまん。少々、イラついていたようだ』
「……仕方ないよ。ずっと、俺に振り回されっぱなしだもん」
精一杯明るい声で返してきたの気遣いに、手塚は内心で苦笑した。
『それでは、明日から当分の間は、自分の練習に当てさせて貰う。…何か、効果的 なトレーニングがあったら、教えてくれないか?』
「う…うん!喜んで!」
手塚の申し出に、は表情を輝かせると、嬉しそうに承諾した。弾むような声を聞いて、手塚まで 嬉しくなりそうな錯覚を覚える。
「よぉーし!早速、練習プログラムを組まなくちゃ!明日になったら貞治さんに、手塚 くんのデータを見せて貰って……」
勢い良く浴槽から上がると、は足取りも軽く、洗面所へ続く扉を開ける。
『熱心なのはいいが、湯冷めはしないでくれよ。風邪を引いて困るのは、俺なのだか らな』
「判ってるって!ちゃんと身体、拭かなきゃね」
は、脱衣カゴの上からバスタオルを一枚取ると、濡れた髪をガシガシと擦 った。
自分とは、まるで正反対の仕草を、手塚は失笑を漏らしながら鏡越しに見つめていた。
だが、その時。
何とはなしに、の様子を眺めていた手塚の瞳に、奇妙なものが映る。
身体を拭いているのわき腹に、引き攣れたような傷があったのだ。

(左のわき腹…?俺は、こんな所を怪我した覚えはないが……)

お世辞にも、軽症とは言い難い傷跡を、手塚は信じられない想いで見つめていた。



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