『継承』


夜間照明の中、コートに坐り込んだ少女は、その反対側でこちらを無表情に 眺めている青年を、涙に潤んだ瞳で睨み返した。
「…女相手に、ここまでする事ないだろう!何様のつもりだ、お前!」
「そうだ、そうだ!やりすぎだぞ!」
身も心も傷ついた少女と、その持ち主以上の痛手を受けたラケットの姿に、 少女のサイドにいたギャラリーから、非難の声が上がる。
「……勝負を挑んできたのは、お前の方だ。それとも、女だから手加減して欲 しかったのか?」
だが、そんな野次に何の関心も示さず、青年はぶっきらぼうに返すと、もう用 はないとばかりに、コートから出て行こうとした。
無関心な青年の態度に、少女は弾かれたように起き上がると、ネットを飛び越え、 足早に青年の前に立ちはだかる。
そして、右の手首を翻すと、青年の頬を力任せに叩いた。
小気味良い音が、夜のコートに響く。

少女は、決してテニスが弱い訳ではなかった。
高校の頃はインターハイも経験し、大学でも、同学年の男子に決して引けを とらない実力を誇っていた彼女は、「週末に、己のラケットを賭けるストリ ートテニス」の噂を聞きつけて、暴挙ともいえる行為を繰り返す相手に、一泡 吹かせてやろうと思っていたのだ。
ところが、実際に対戦した青年は、容赦がないほど強かった。
ゲーム開始から30分も経たずに、あっさりと決着がついてしまったのだ。

「一体、何の為にこんな事するの…?あなたには、人の痛みが判らないの!?」
負けた悔しさと、傷つけられたラケットへの怒りが、叫びとなって青年にぶつけられる。
思わぬ少女の行動に、周囲はざわめいたが、青年は、つまらなさそうに少女に 一瞥をくれただけであった。
「…痛み、か。笑わせてくれるな。あいつが受けた痛みは……こんなもんじゃ なかった……」
「──あいつ?」

青年の言葉に、ほんの僅かだが感情が込められているのに気付いた少女は、思わず 問い返す。
少女の態度に、青年ははっと眉根を寄せると、足早にコートから去っていった。


週明けの月曜日。
青学テニス部のレギュラーたちは、グスグスと泣きべそをかきながら、部室に入 ってきたテニス部長の姿に、恐怖と戦慄を覚えていた。

「……何があったかは知らないけど、手塚の姿で泣くのは止めてよね。 気持ち悪いから
相変わらずの毒舌で、不二が手塚に憑依した、かつての青学テニス部部長を見やる。
先輩、一体どうしたんですか?」
「……手塚くんが」
「部長がどうかしたんスか?」
「手塚くんが、口きいてくれなくなった…」
そう言ってしゃくり上げるに、レギュラー部員たちは、一瞬言葉を失う。
「そ、そそそそれって、まさか、手塚の意識が!?」
「……違うよ。単に、手塚くんが俺にシカトかましてるの」
「いつからだい?」
返ってきた返事に安堵しながらも、の隣に立つ河村が、気遣うように尋ねた。
「昨夜から。実は、昨日ちょっと隣町まで出掛けてたんだ。で、その時に……」
それから約数分の間。
一応名門な筈の、青学テニス部のレギュラーたちは、世にも間抜けな幽霊の珍道中を 聞かされる羽目になった。


話は、少しだけ時をさかのぼって、日曜日の昼下がり。

「んふっ。これで、青学のデータは完璧です。都大会のルドルフの勝利は、もはや 間違いありませんよ」
「それはいいんだけどよー…何だって、わざわざひとつ隣の駅なんだよ。素直に、青 春台駅使えばいいじゃねーか」
「相変わらず頭が足りませんね、あなたは。青学の最寄り駅では、彼らに見つかって しまうじゃないですか」
「日曜日だし、平気だろ?俺たちも私服で来てるんだから」
「……つくづく、能天気な人ですね」

聖ルドルフ学院テニス部の赤澤吉朗と観月はじめは、青学の偵察に訪れていた。 ランキング戦以外は、基本的に日曜日は自主練習なのだが、都大会が近い所為もあ ってか、青学のテニスコートでは、殆どのメンバーが練習に励んでいたのである。

「なあ観月、腹減ってないか?メシ食っていこうぜ」
乾並みにデータ収集に信念を燃やす観月に、つき合わさせられた赤澤の方は、た まったものではない。
朝、寮で出された食事と、青学に向かう途中で購入した飲み物以外、何も口にして いなかった赤澤は、メモを手にブツブツと独り言を呟いている観月に声をかけた。
「…本当に、根が単純に出来ているのですね、あなたは」
「腹が減っては戦が出来ぬ、って言うじゃねーかよ」
そういうお前だって、腹減ってんじゃないのか、と指摘されて、観月は先程から自 分の腹の虫が、控えめに主張している事に気付く。
「んふっ。…確かに一理ありますね。それでは、何処かで昼食にしましょうか」
「よっしゃ!じゃあ、あそこにしようぜ!俺、ラーメン食いたいんだ」
観月の返事を聞くや否や、赤澤は足取りも軽やかに、一軒のラーメン屋に向かっていた。
「待ちなさい、赤澤!僕はまだ、何を食べるのかも決めていないのですよ!?」
「かてえ事言うなって。お前にピッタリのメシなんざ、この辺じゃお目にかかれないだろ? それに、さっきから見てたんだけど、あの店ずっと客足が途絶えていないんだ」
「だから、絶対に美味い筈だ」と、赤澤は観月の制止も聞かずに、店の扉に手を掛ける。
そんな赤澤の背中を、観月は呆れ半分に眺めていたが、ふと店先の『のぼり』に視線を走らせた。

「…『本場・喜多方ラーメン』?…ほだごだねえべや。東京モンの猿真似がぁ、んな簡単 にうめもの作れる訳が……」
「おーい、観月!入んねぇのかよ?」
「やがます!…はっ、う、うるさいですよ!そんなに大声を出さなくても、聞こえてい ます!」
戸口から顔を覗かせてきた赤澤に、仄かに頬を染めながら返事をすると、観月もまた店 の中へと入っていった。


「いらっしゃい!何にしますか?」
テーブルに案内されたふたりは、接客慣れした店のおばちゃんから、水を渡される。
「この『本場・喜多方ラーメン』というのを、頂きましょう」
「えーっと…俺は、タンメンとチャーハンのセットで。あと、単品で餃子もちょうだい」
「……よくそんなに食べられますねぇ。程ほどにしないと、ただでさえ悪い脳の働きが、ます ます悪くなりますよ」
まるで、どっかのサイトの管理人のような赤澤の注文に、観月は眉を顰めながら毒づく。
「いいじゃねぇかよ。腹減ってんだから」
「そうそう。男の子は、それくらい元気があった方がいいわよ。さっきウチに来てた男の 子なんか、凄かったんだから?」
赤澤の反論に、店のおばちゃんが、笑いながら切り出してきた。
「おばちゃん、さっきって……?」
「あのね。ウチの店、食い倒れもやってるのよ」
ほら、とおばちゃんは、壁に貼られたポスターを指す。
ふたりが目をやると、そこには、通常の5倍はあるだろうというラーメンの写真が、デカ デカとうつし出されていた。

『特製・ジャンボラーメン 30分以内に完食出来たら、賞金5000円!』
(ただし、出来なかった場合は、御代として2000円頂戴いたします)

「さっき入ってきた男の子が、コレを注文してきたのよ」
「へえ」
「しかも、その男の子、『失敗してもお金払うから、挑戦させて』って、ウチのジ ャンボラーメン、2杯完食してったのよ」
「…は?」
続けられた言葉に、観月は思わず間抜けな声を出す。
「こ…このラーメンを、2杯もですか……?」
「それだけじゃないの。追加で天津丼に餃子2皿・デザートの杏仁豆腐 もペロリよ」
「すげ…」
「でしょ?あそこまで食いっぷりのいいお客さんは、はじめてだったわよ。ねえ、 あんた?」
呆然と呟く赤澤を他所に、おばちゃんは、カウンターの向こうで調理に勤しんでいる ご主人に声をかけた。
「ああ。きれーに平らげてったぞ。最後にはきちんと『ご馳走様。とっても美味し かったです』ってな。今時にしては、素直ないい子だったなあ」
快活に笑い声を上げる店主に、ふたりは「はあ」と、相槌を打つ事しか 出来ない。

「ゆっくりしてってね」と、おばちゃんが離れた後、赤澤は、改めて壁 に貼られた『ジャンボラーメン』の写真を見つめる。
「…これを2杯プラスアルファねえ……俺なら、1杯でも食い切れるかどうかだな」
「やめておきなさい。無駄な出費に加え、腹を壊しますよ」
「でもよお。俺たちとそんなに年かさ違わないヤツが、食ってったんだろ?」
「おそらく、その人物は柔道か相撲か…格闘技系の選手か何かでしょう。そうでなけ れば、100パーセント不可能……」

半ば投げやりに、観月が言葉を返していると、店の奥からアルバイトらしき店員が、何 やら紙を手に現れた。
「店長ー。さっき完食してった男の子の名前、ここに貼っときますよー」
「おう!目立つように頼むぜ!」
そのやり取りを聞いて、観月たちは、思わずアルバイト店員の持つ掲示物に興味をそそられる。
店員は鼻歌交じりに、手にした紙を壁に当てると、ピンで固定する。


当店初!ジャンボラーメン 2杯完食!  青春台 手塚国光様』

壁に現れた名前を見て、観月と赤澤は絶句した。



「……はっきり言うけどね。きみ、バカ。救いようもない 生粋のバカだね」
「そこまで言う事ねーだろ、不二子ー!」

の告白を聞いた青学レギュラーたちは、手塚への同情と、の信じられない食欲に、暫くの間言葉を失ってしまった。
「すげ…さん、あそこのジャンボラーメン食ったんだ…それも2杯……」
「……感心してる場合じゃないだろう」
桃城の呟きに、大石は胃の辺りを押さえながら返した。
「何だって、そんな事したんだい?」
河村の質問に、は上目遣いに答える。
「……資金稼ぎ」
「資金稼ぎ?」
「うん。だって…俺の勝手な都合で、手塚くんのお小遣いを使う訳にはいかないじ ゃないか…だから、俺が活動している時のお金を、別に持っておこうと思って……」

『だとしても、もう少し他の方法は、考え付かなかったのか!?』
ボソボソと言い訳をするの脳裏で、手塚の怒声が轟いた。
「──手塚くん!やっと、口きいてくれた!」
『用途の明確な出費については構わない、と、俺はお前に言った筈だぞ!』
「でも、中学生のお小遣いなんて、知れてるじゃない。それに、俺…ちょっと人より食い しん坊だから、律儀に付き合ってたら、あっという間になくなっちゃうよ?」
「普通の人間の10倍も食べたクセに、『ちょっと』とかほざいたよ、この男」
『あれだけの量を、残さず食べた事には感服する。しかし何故、あのような 近場で、俺の名前を出すような真似をした!?』
「ちゃんと最寄り駅は避けたよぉ。それに、死んだ俺の名前を出す方が、 よっぽどおかしいじゃない」
「隣の駅じゃ、大して変わらないにゃ」
「データによると、あそこの近くには、手塚の贔屓にしている本屋があったな」
『とてもじゃないが、恥ずかしくて暫くは通えん……』
「別にいいんじゃないっスか?だっては、ある意味部長の為にやったんでしょ?悪い事して稼いだ訳 じゃないんだし」
「おいおい、無責任な発言は控えろよ。これだから、自由の国アメリカ帰りはい けねーな、いけねーよ」
「……桃先輩には言われたくないっス」
時折、言葉の毒も飛び交う中、部室内はレギュラーたちの声で沸き返る。
そのような状況の中、ただひとり口を閉ざしていた海堂は、周囲の喧騒を吹き飛ば すように、わざと音を立てて椅子から立ち上がると、の前まで歩を進めた。

「あんた…ホントに自分を呼んだ人間を、探す気があるのか?」
「え?」

非難めいた2年生レギュラーの口調に、は、困惑気味に目を瞬かせる。
「ただでさえ、こっちは大会前なんだ。大人しくしてるんならまだしも、どんだけ 手塚部長に迷惑を掛けたら気が済むんだ」
「海堂くん…?」
「気安く呼ぶんじゃねえ!」
荒々しく返された声に、は、押し黙った。
穏やかではない海堂の様子に、他のメンバーたちも、真顔に戻ってふたりに 視線を移す。
「海堂。手塚との事は、前に話し合って決めただろう?」
「悪いけど、俺にはコイツが遊んでいるとしか思えません」
「…は、お前にとっても先輩だぞ。今の言い方は、少々失礼だと思うが」
「他人を巻き込んで、好き勝手やっている輩に、払う敬意なんかないっス」
河村と乾が控えめに嗜めるも、にべもない海堂の返事に、は表情を曇らせる。
「…君は、俺に何が言いたいの?」
外見は良く知る部長の筈なのだが、いつもの手塚のそれとは異なる髪と瞳の色が、 まるで別人のような錯覚を与える。
そんなに、海堂は一瞬怯みそうになったが、手塚へ対する雅の暴挙ともいえる行動 を思い出すと、口元を怒りの形に歪めた。
「…俺と勝負をしろ。俺が勝ったら、今すぐ部長の身体から出て行って貰う」
「お、おいおいマムシ!勝手に決めてんじゃねぇよ!」
「OBだか、先代部長だか知らねぇが、死人のアンタに、手塚部長をどうこうす る資格はねぇ!」
糾弾するかのように、海堂は、ラケットをの眼前に突きつけた。
そんな海堂を、は、僅かに顔を強張らせながら見つめ返した。


唐突な後輩の言動に、交代を頼もうとしていた手塚だったが、不意に、自分の 意識に届いたか細い声に気付いた。

『…俺だって、好きで「死人」になった訳じゃないよ……』
『……?』
口に出さなかったのは、手塚や部員たちを思っての事だろう。
だが、紛れもなくそれは、己の中にが憑依してから、はじめて聞いた彼の心の叫びであった。

、俺と代われ。部長として、こんな試合を認める訳に はいかん』
『…駄目だよ』
『何だと?』
『これは、俺に申し込まれた試合だよ。俺が受けない限り、きっと海堂くん は納得しないと思う』
『しかし!』
『それに…調子に乗って、彼に不信感を与えてしまった俺も悪いん だ。その尻拭いはしなきゃいけない』
そう言うと、は立ち上がって、部室の貸し出しラケットから、一番まともそうな ものを一本取り出した。

「…てめぇ、なめてんのか!?」
「手塚くんのラケットを、俺が使う訳にはいかないだろ?」
「だったら、コレ貸してあげる」
すると、ふたりの様子を傍観していた不二が、己のケースからラケットをに寄越してきた。
「僕のスペア。中身はともかく、あんまり手塚の姿でみっともない真似は、 して欲しくないからね」
「不二子…」
相変わらず棘まじりの言葉だったが、好意的な不二の表情を見て、は、軽く頭を下げながら礼を言った。
「……Aコートを借りるね。他の部員は近づけない ようにしてくれるかな?」
「ああ。判ったよ」
の申し出に、乾はレギュラー陣を代表して答える。
「時間をかけたくないから、変則ルールでいくよ。1セットマッチでノーアド方式(デュース ・タイブレイクを行わない事)。既にお互い4ゲームずつ取っている状態で始めるからね」
「何…?」
「悪いけど…君にてこずっている暇は、俺にはないから」
「──!」

挑発とも取れる言葉にいきり立つ海堂だったが、いつになく真剣な表情のに、背筋をぞくりとした緊張感が走るのを覚えた。


そして、それは程度の違いはあれども、手塚を含めた他の部員たちも同じだった。



ブラウザの「戻る」でお戻り下さい。