『継承』


レギュラー陣の見守る中、と海堂のふたりは、Aコートに向かう。
肩を怒らせながら脚を進める海堂とは対照的に、は、何処か神妙な面持ちで一歩一歩踏みしめるように、 コートの中へと入っていった。
不二から借りたラケットを抱きしめたまま、は、手入れの行き届いたコートにそっと目礼する。

「Which?」
サーブ権を決める為に、ラケットを回しながら、向かい側の海堂が尋ねてくる。
だが、は小さく首を横に振ると、
「ハンデを上げる。先に打っておいで」
短く返ってきた言葉に、海堂の表情が強張った。
「……何処まで人を舐めてんだ」
「舐めてないよ。ただ、本気で俺に勝つつもりなら、それくらいはしなさ いって事」
それは、いつもの冗談交じりに軽口を叩くとは、まったく別人のようだった。
常に冷静沈着な姿勢を崩さない手塚とはまた違った厳しい視線に、海堂だけで はなく、周囲にいた大石たちも思わず表情を引き締める。
そのような中、
「へぇ…って、マジな顔も出来るんだ。どんなプレイすんのか楽しみ」
唯一、生意気な1年生レギュラーだけは、コートに立ったの姿を、面白そうに眺めていた。


「プレイ!」
審判台に上った乾の声で、試合が始まる。
海堂から放たれたサーブを、は右手に握られたラケットで返した。
「中身は違うって判ってるんだけど…右で試合をする手塚を見るの って、久しぶりだね」
コートで試合をするを見て、河村がぽつりと言葉を漏らす。
それを聞いて、大石は2年前の出来事を思い出していた。
手塚が、己の利き腕に爆弾を抱える羽目に陥ったともいうべき、忌まわし き事件。

『そういえば……』
手塚の姿を借りて、海堂と試合をするを見て、大石は己の脳裏に、ある思惑が浮かぶのを覚えた。
手塚の身体にが憑依してからというもの、彼が無意識に肘を庇う仕草が、随分 と減っているような気がするのだ。
が右利きなのもあるが、手塚の意識が表に出ている時でも、特に 隠すでもなく、至極自然に左腕を動かしているように見えるのだ。
先輩は、手塚の肘に気付いているのか…?そして、それについて手 塚に何かアドバイスを……』
「おーいしぃ、ちゃんと試合を見てなきゃダメだにゃ」
更に深く考えを巡らせようとしていた所で、大石は隣に立つ菊丸に、小さく窘 められた。

「…っ!」
返ってきたボールを、海堂は短い裂帛と共に、ラケットを大きく下から上に 振りぬいた。
「えっ?ウソ!?」
海堂の長いリーチによって、極端なスピンがかかったボールは、通常では考 えられない軌道を描きながら、のコートに突き刺さる。
「15-0」
「…海堂が、先制したにゃ!」
「しょっぱなからスネイクか。マムシのヤツ、相当気合い入ってんな」
無機質にポイントを告げる乾に紛れて、レギュラーからも声が上がる。
「……驚いた。今のって、バギーホイップショット?」
一方のは、目を丸くさせながら海堂を見つめてきた。
ポイントを奪われた悔しさよりも、純粋に驚いているようだった。
そのあまりにもあっけらかんとした態度に、海堂は眉を顰める。
。今のはスネイク。海堂の得意技だよ。バギーホイップの応用型 …と言った所かな」
答える気のなさそうな海堂に代わって、不二がに声をかけた。
説明を聞いたは、数秒の沈黙の後、納得した表情をする。
「なるほど…そっか。君のリーチを生かして、通常のバギーホイップに更に 回転を加えたんだ。……上手い事考えたね」
「──てめぇに褒められる為に、編み出した訳じゃねぇ」
「…ん…」
素っ気無い海堂の言葉に、それでもは、感慨深げに頷いた。
通常のバギーホイップショットですら、習得するのは難しいというのに、それ以 上に修練を重ね、自分だけの技をモノにしたのだろう。
この数日間見てきただけでも、は、目の前の少年が、いかに勤勉で真面目な努力家なのか、熟知して いた。
『本当に君は凄いね…凄いよ。だけど……』
海堂に対する賞賛の言葉を、は敢えて心の中で呟きながら、ゆっくりと顔を上げる。
「──悪いけど、二度目はないよ」
「…な…!?」
手の中でラケットを1回転させると、は、口元から笑みを消した。


その後は、完全に一方的な試合展開となった。

はじめのポイントこそ海堂が先取したものの、それから先は、の言うとおり、一度もポイントを決められずに、ゲームをブレイク されてしまう。
粘りのテニスをモットーとする海堂でも、の執拗な攻めに、いつしか防戦するのに手一杯になっていた。
「海堂が、完全に押されてる…」
「海堂…あれから、一度もスネイクを打ってないね」
「違うよ、タカさん」
「え?」
河村に、不二は短く否定の言葉を返す。
「『打たない』んじゃなくて、『打てない』んだよ。のチェックが厳しくて。打とうとしてもその前に、全部タイミングを外 されている」
いつしか不二は、その両目を開いての姿を追いかけていた。
特に派手な技を使うでもなく、基本に忠実なの動きに、内心で舌を巻く。
2年生とはいえ、レギュラーである海堂相手に、あそこまで理想的なフォームを 保てるのは、生半可な事ではないからだ。
「40-0」
そうしている間に、審判の乾が、のマッチポイントを宣言する。
「……決まりだね。あ〜あ、これで終わりか。海堂先輩にはもうちょっと 粘って貰って、の手の内を見せて欲しかったんだけど」
つまらなそうに口を開くリョーマに、不二は、自分と同じ考えを持ってい た人物がいた事に、失笑した。


『そんな…俺が、こんなヤツに……!』
突きつけられた現実に、海堂の心は、驚愕と屈辱に翻弄されていた。
油断をしたつもりはない。
だが、ここまで歴然と力の差を見せ付けられたのは、昔ランキング戦で、手 塚と対戦した時以来であった。
圧倒的な強さで相手を打ち負かす手塚とは違って、のテニスは、海堂の技や力のすべてを包み込んでしまう。
不意を狙った筈の打球も、はまるで、すべて見透かしたように返してくるのだ。
「オラ、マムシ!後がねぇぞ!」
不甲斐ないライバルの姿にイラついたのか、桃城が檄を飛ばす。
「おめぇがさんに売ったケンカだろーが!ポヤっとしてんじゃねぇ!」
「…っ!野郎っ!」
桃城の声が聞こえたのか、海堂は軸足から身体を捻ると、右腕を翻した。
本日二発目のスネイクが、音を立てながらのコートへ吸い込まれていく。
決まるか、とギャラリーの誰もが思った瞬間。
「……甘い」
短く呟きながら、はラケットをバックハンドの形に構えると、向かってきた球を、 ダイレクトで打ち返した。
に返された球は、まるで海堂のスネイクのようなカーブを描きな がら、そのまま海堂のラケットを弾き飛ばす。
「──!?」
カラン、と音を立てて海堂のラケットが落下すると同時に、ボールがベース ライン上にバウンドした。
「な、何が起こったんだ…?」
目の前で繰り広げられた光景に、大石は固唾を呑みながら声を振り絞る。
「海堂のスネイクが…そのまま海堂に戻ってきた…?」
「ありえねぇ…」
…今のは……?』
あまりの出来事に、部員だけでなく、手塚も些か緊張した声でに尋ねてくる。
「…risky return(リスキー・リターン)。現役中の俺の技のひとつだよ」
そんな手塚に、は軽く前髪を払いながら答えた。


「ゲームセット。ウォン・バイ…
乾が、試合終了を告げた後も、海堂は暫くの間、微動だに 出来なかった。
自分は負けたのだ。
それも、自分から仕掛けた試合で、完膚なきまでに叩きのめされたのだ。
例えようもない屈辱と羞恥が、彼を支配する。
コートの反対側からこちらを見つめてくる視線に、海堂は顔を上げる事もせず、 足元に落ちたラケットを拾うと、そのままコートから出て行こうとした。
しかしその時、

「試合終了の挨拶もしないまま、何処に行くつもり!?」

厳しい叱責の声が、海堂の背後に突き刺さった。
思わず振り返ると、柳眉を逆立てたまま、こちらを睨んでくるがいた。
「最低限の礼儀も弁えられないようなヤツが、テニスについてえらそうな口が利け ると思ったら、大間違いだ!君が今している事は、対戦相手に…それ以前に、 テニスそのものを侮辱してるにも等しい行為なんだぞ!?」
はじめて耳にするの怒声に、海堂だけでなく、周囲の誰もが思わず息を呑む。
「そんな礼儀知らずに、青学テニス部を語る資格なんかないからね。そのまま出 て行ったりしてごらん。コートはおろか、二度と部室の敷居も跨がせないからな!」
まるで手塚を凌ぐほどの迫力に、Aコート一帯は沈黙に包まれる。
「……っ」
の言葉に、海堂は歯を食いしばると、踵を返して戻ってきた。
ネット前まで進むと、反対側で待っているの顔も見られないまま、右手を機械的に差し出す。
だが、
「!?」
己の右手に添えられたふわり、とした感触に、海堂は顔を上げた。
それが、自分の手を握り返してきたの手だと判るのに、数秒かかる。
「試合終了後の握手はね、お互いの健闘を讃え合うだけじゃなくて、お互いの心を確 かめ合うものなんだよ」
先程とは打って変わった、優しいの声が聴こえてきた。
「自分と勝負をしていたヤツは、こんな手をしているのか…って。俺も、昔は試合の 度に、対戦相手と握手をするのが、本当に楽しみだった……」
「…?」
「……こいつは、一生懸命練習してきたんだな、この人は、テニスを愛して るんだな…とか。そして…海堂くん。君も、本当に良い手をしているね。テニスが 好きな人間だけが持つ、努力の手だ」
海堂の手をやんわりと握りながら、は、本当に心の底から嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔があまりにも優しくて、海堂は胸の辺りが痛むのを覚える。
「……怒鳴ったりして悪かったね。でも、海堂くんの気持ちも判るよ」
「何…?」
「君は、手塚くんが心配なんだよね。だから、あんなに怒ったんでしょ? 当たり前だよね…ごめんね……」
「──!」
辛そうに眉を顰めながら、が海堂に謝罪する。
だが、海堂は再び顔を背けると手を離し、コートの外へ走っていってしまった。
残された雅は、しばらく自分の右手を見つめていたが、肩を落とすと、皆のところ へ向かった。
…」
俯いたまま、不二にラケットを返すに、河村がためらいがちに声をかける。
「……やりすぎたかな」
「え?」
「海堂くんに可哀想な事しちゃった…」
さん…?」
「悪いのは、俺の方なのに……」
そこで、言葉が途切れた。
いつしか、の瞳には、大粒の涙が溢れていたのだ。小さくしゃくり上げると、泣き出してしまう。

…それは違う。お前は、海堂からの勝負を受け、そして勝った。勝者がその ような態度を取るのは、先程お前が言っていた礼儀知らずにあたるのではないか?』
『それでも…あそこまでする必要はなかったんだ』

諭すような手塚の言葉にも、は首を振る。自分の迂闊な行動が、海堂との衝突の引き金なって しまった事を、悔やんでいるようだった。
だが、手塚は知っていた。
が、あの日隣町に出かけた本当の目的を。
だから、少々腹の立つことはあっても、の取った行動そのものを、否定するつもりはなかったのである。
しゃがみ込んで嗚咽を漏らし続けているの頭に、何かが載せられた。
「どういうつもりか知らないけどさ…部長の顔で泣くの、やめてくれる?」
「ドチビ…?」
不意に、自分の視界を覆った白い帽子に、は、生意気な1年生レギュラーの仏頂面に気付いた。
「見たくないんだ。……ムカツクから」
ぶっきらぼうな言葉に、はクスン、と鼻をすすった。貸してもらった帽子を深く被ると、 「そうだね」と、小さく呟いた。


海堂は、水飲み場に頭を突っ込むと、蛇口を思い切り捻った。
外し忘れたバンダナが濡れるのも構わず、夥しいほどの水を被り続ける。
そんな海堂の姿を見つけた乾は、ゆっくりと彼の後ろから声をかけた。
「外出しているとね…この頃、と出会う事が多いんだ」
「……」
「隣町には、大きな図書館があるからね。そこの閲覧コーナーやPCルームで、 延々と調べものを続けている彼がいたよ」
手塚との今後の為にと、乾も独自にのデータを集めているのだが、依然芳しい情報は得られないままである。
それでもは、手塚や自分たちの為に、限られた時間 を使って手がかりを探しているのだろう。
図書館で垣間見たの真剣な横顔を、乾は、良く憶えていた。
「そんなが、手塚を無視して、勝手気ままな行動をすると思うかい?…まあ、 食い倒れの件は、確かに行き過ぎだろうけれど……仮にそうだとしたら、手塚がと っくに彼の事を、越前の父親に頼んで追い返していると思うが……」
「──そんなの、判ってる!」
乾の言葉を遮るように、海堂の叫びにも近い声が上がる。
濡れた顔のまま、海堂は乾を振り返ったが、

「…そんな事…判ってます……」


力の抜けた声で言い直すと、再び顔を水道に向けて、ひとり肩を震わせた。



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