『継承』


不二の姿を目にした瞬間、に缶を返してくれた少年の顔が、あからさまに強張った。
「……?」
突如豹変してしまった少年に、訳が判らないまま彼の視線の先を振り返ったは、この少年が、何処となく不二に良く似た顔立ちである事に気付いた。
「やあ…久しぶりだね、裕太。元気そうで何よりだよ」
「……フン。元気じゃなきゃ、こんな所にはいねぇだろ」
穏やかな表情で話しかける不二に、裕太と呼ばれた少年は、対照的に返してきた。

『手塚くん。このコ、不二子の知り合い?』
『彼は、聖ルドルフ学院テニス部の不二裕太。不二の弟だ』
「弟…」
思わず口を付いて出たの言葉に、裕太は更に眉を顰める。
「裕太…たまには家に帰っておいで。いくら大会前だからって、この所全然顔見 せてないでしょ。母さんも心配してるよ」
「俺は、いつまでもガキじゃねぇ。余計なお世話だ」
「裕太…」
取り付く島もない裕太の様子に、思わずは口を挟んでしまった。
「裕太くん…だっけ?君、もうちょっと素直になった方がいいよ」
「──な…!?」
…いや、手塚……?」
「そうやっていられるのも、今のうちだよ。兄弟ってね、いつか別々の道を、 イヤでも歩かなきゃならない時が来るんだから」
「……?」
「そして…そんなのは本当に、ある日突然訪れる事だってあるんだから……」


には、3つ年下の弟がいた。
テニスバカの自分とは違って、利発で成績優秀の弟は、の自慢だった。
当時小学校6年生だった弟は、「中学生になったら、自分も兄と同じ青学に行く」と瞳 を輝かせていた。
だが、そんな兄弟のささやかな夢は、4年前のあの事件で、もろくも崩れ去ってし まったのだ。


「……関係ないあんたが、口出ししないで下さい」
「──裕太!」
不二の諫めも聞かずにから顔を背けると、裕太は小脇に抱えていたラケットを左手に持ち 替えた。
「……今年の青学には、期待のルーキーが入ったって話だよな?」
ポケットから取り出したボールを、ラケットの上でバウンドさせながら尋ね てくる。
「…ああ、そうだよ。越前っていうんだ」
「フン…どんなヤツかは知らねぇが、俺の邪魔をするようなら、兄貴の前に そいつをブッ倒してやる……こいつでな!」
否や、それまでとは一転して強烈なショットが、頭上のフェンスに突き刺さった。
それを見た不二とは、思わず言葉を失う。
「……俺は、いつまでも『天才不二周助の弟』じゃねぇ。今日の試合で、それを証明し てみせる!」
「そのショットは…おい、裕太!待つんだ!」
背を向けた裕太に、不二は慌てたように声をかける。しかし、それ よりも早く、抱えていた飲み物を脇に置いたが、小走りに彼の元へ足を急がせていた。
「…?な、何ですか!」
自分の左肩を、食い入るように見つめてくる青学部長の姿に、裕太は思わずうろたえる。
「裕太くん。君の背が伸びたのは、いつから?」
「…は?」
「答えて!」
「あ…えっと…中1の終わりくらい……」
裕太の返事を聞いて、は唇を噛み締めた。
「…誰が君に教えたかは知らないけど、テニスが出来なくなるのがイヤなら、 今すぐその技を使うのは止めるんだ」
「え…?」
「せめて、もう1年待つんだ。今の君に必要なのは、身体に負担のかかる技の習得じ ゃなくて、急激に伸びた身長に見合う体力と筋力作りだ!」
「彼の言うとおりだよ。裕太、その技は今のお前には危険すぎる……」
の真剣な眼差しに、一瞬聞き入っていた裕太だったが、不二の声を耳に した途端、弾かれたように踵を返すと、の手を振り解いて行ってしまった。


「裕太くん、待って!」
「裕太!」
「──試合前のウチの部員に、余計な事を言って困らせるのは、やめて貰えませんか」
後を追いかけようとしたと不二は、その行く手を遮るように現れた人影によって止められた。
「観月…」
「んふっ。感動の兄弟の再会…とはいかなかったようですね?不二くん」
曰くありげな目つきで、聖ルドルフテニス部マネージャー兼選手の観月はじめは、不二とを眺める。
「…訊きたい事があるんだけど」
「なんでしょうか?」
「裕太にあのショットを教えたのは…君だね?」
心なしかいつもより低い声で、不二は観月に質す。
「…さぁ」
「成長期の、未だ骨格の出来上がっていない身体で、あんなショットを続けて いたらどうなるか……」

元来、左利きのプレイヤーの打球は、右利きのプレイヤーとは異なったスピンがかかり、 慣れていない人間は、非常に苦戦を強いられる。
そして、裕太は自身の利き腕を生かし、自分と同じ左利きの選手を封じ込める「対左 兵器」として、聖ルドルフレギュラーの地位を築いていた。
そんな裕太のツイストスピンショットは、リョーマのツイストサーブと同じ回 転を、ストローク時にも行うショットである。
強烈な打球を繰り出せる反面、己の身体に相当の負担がかかるので、肩や肘を壊す 恐れもあるのだ。

「なんて事……裕太くんにあんな無茶をさせたのは、お前か!?」
「勝負の世界に、多少の無茶はつき物でしょう?単調な練習や努力だけでは 勝てない事くらい、君たちだって判っている筈ですよ」
飄々と返す観月に、は益々眉を顰める。
「それに、僕は彼にあの技を強制した訳じゃありませんよ。……まあ、兄と違 って『単純バカ』な弟は、扱い易かったですけどね」
「…っ!」
弟を侮蔑する言葉を聞いた不二は、目を見開いて観月を睨んだ。
「僕たちルドルフにとって、彼は有能な駒です。兄として弟が心配なのは判らな くもないですが、まあこれも、勝負の世界に生きる人間にとっての、試練というものですよ」
「……ふざけるな。選手ひとりの身体の事も考えられないヤツが、何が勝負だ!このヘボ!」
「──な!?だ、誰が『ヘボ』ですか!?」

地の底から這うような声と、怒りの形相でこちらに歩み寄ってくる青学部長の姿に、 観月は思わず身構えた。
「『兄とは違う』?当たり前だ!早熟型の不二子と晩成型の裕太くんが、一緒の筈 ないだろう!」
…?」
「晩成型の選手には、何よりも基礎作りが一番なんだ。技 なんて、身体が出来上がった後でいくらでも覚えればいい。目先のちっぽけな勝利 に振り回された挙げ句、あのコに何かあった時に、お前はその責任を取れるのか!?」
に指を突きつけられて、観月は一瞬だけ怯んだ様子を見せたが、
「ふ、ふんっ。言ったでしょう。僕は裕太くんに『あの技を使え』だなんて、強制した 覚えはないと」
「大方、不二子に勝つ為とか何とか上手い事言って、裕太くんを丸め込んだんだろ?そ ういうの詭弁っていうんだよ」
「……言いましたね。貴方に何が判るんですか?天才の兄を持った凡才の弟 が勝つには、こうでもしなけばならない事を、僕は教えて上げただけですよ」
「凡才…?裕太くんが?本当にそう思ってるんなら、お前は余程の大バカヤロウだぞ」
「な、なんですって!?」
「あのコは、ダイヤモンドの原石だ。育て方さえ間違えなければ、 あと1、2年できっと兄貴よりも強くなる」
「え…?」
手を腰に当てながらそう言い放ったに、観月だけでなく、不二も驚愕した。
「そんな事も判らないで、自分の欲求満たす為だけに選手を弄んでんじゃねぇ!いい か、お前がやっている事は、ダイヤモンドの原石を、プレス機で無理矢理押し潰し ているのと同じだ!」
「う…く…」
怒号を放つに、観月は気圧(けお)されていたが、自分の携帯電話の呼び出し 音を確認すると、途端に気を取り直したような顔をした。
「……おっと。すみませんが、続きは又にして下さい。まあ、せいぜいいい試合をしま しょうね。んふっ」
「待ちやがれ、てめぇ!話は未だ終わってねーぞ!」
会った時よりは、多少の強張りはあるものの、観月はふたりに人の食ったような笑 顔を見せながら、足早に去っていってしまった。


「『いい試合をしましょうね。んふっ』……だーっ!もう、思い出しただけでも 腹が立つ!」
青学のみんなの待つ場所へ戻ってきたは、観月の声真似をした後で、怒り任せに傍らのベンチを蹴りつけていた。
『物にあたるな。会場で揉め事を起こせば、最悪どうなるかぐらい判らないのか?』
「う…でも、だって〜…」
『だってじゃない』
手塚の叱咤に、は納得がいかない表情で、軽く頬を膨らませる。
「観月に会ったのか。…彼は、ある意味俺と同じデータ重視のテニスをする男だ」
に渡されたドリンクを飲みながら、乾が口を開いた。
「ルドルフの司令塔とも呼ばれている彼は、己の知識と理論に基づいたテニスを、 自分の選手たちにさせるんだ。勝利の為には、時に仲間を切り捨てる事も厭わないが、 それも又彼の強さのひとつだ」
「……そんなのは、本当の強さじゃない」
ドリンクの缶を握り締めると、は重々しく返してくる。
「選手の特長を掴んで、それに合わせた指導法を確立する…それが、本当のコーチ の仕事だ。プロならともかく、自己管理もままならない中学生に、あそこまで過酷な 状況を、押し付けていい筈ないじゃないか!」
…」
「今は未だいいかも知れないけど、あんな事を繰り返していたら、いつかきっと ツケが回ってくる。その時になってからじゃ遅いんだ。大人でもないあいつに、 背負い切れる訳がない……」
観月に対して腹を立てている一方で、は純粋に彼の心配もしているようだった。

「ゴチャゴチャ言ってないでさ。これから試合なんだから、そこであいつを 負かせばいいんじゃないの?」
「…ドチビ?」
俯くに、買ってきて貰ったファンタを手にしながら、リョーマが話しかけてきた。
プルトップを開けた瞬間、勢い良く中身が飛び出してくる。
「……。コレ、振ってきたでしょ」
「そんな事してないよぉ。一回落としちゃったけど」
「確かに、越前の言うとおりだな。絶大な自信を持っている相手だからこそ、逆 に窮地に追い込まれれば、ボロが出てくると思う」
「貞治さん…」
「さて…そろそろ行くか、皆。オーダーはD2が桃城と海堂、D1は俺と英二。S3は 越前、S2が不二…そして、S1が手塚だ」
オーダ−を読み上げながら、副部長の大石がメンバーの顔を見渡す。
「生半可で勝てる相手じゃないけれど…皆、気持ちでは負けんじゃないよ!」
「はい!」
スミレの掛け声に、レギュラーたちは元気良く反応した。



「ん?」
「さっきは有難う。弟の為に怒ってくれて」

の背後から、不二の声が聞こえてきた。
初めて耳にする不二の謝辞に、は不思議な顔をする。
「弟は…裕太はね。最初は、青学に入学したんだ」
「え…じゃあ、何で今はルドルフにいるの?」
「…何かにつけ、僕の弟くんって言われるの、嫌気がさしてたみたいでね……」
ほんの少しだけ渋面を作ると、不二は質問に答える。
「部活にも入らないで、スクールで観月と知り合った。それから暫く して、裕太は家を出て行ったんだ。ルドルフは寮生活だから…」
「そうだったんだ……」
天才の弟、としてしか見て貰えないコンプレックスが、兄弟の確執を生んで しまった。
どうにかしたくてもどうにも出来ないまま、それでも不二は、いつか判り合 える日が来る事を信じて、裕太を見守り続けているのだという。

そして、そんな不二や裕太を、は心の底から羨ましいと思った。


が死んだ翌年の冬。
兄の死を乗り越える意味も込めて青学を受験した弟は、合格発表の日、の遺影の前で涙を流し続けていた。

『おかしいんだよ…だって、僕よりも点数低かった友達は、みんな受かってたのに ……僕、何度も答案用紙見直したんだ。書き間違えなんかある筈ない……!』

の弟が合格出来なかったのは、決して彼の落ち度ではなかったのだ。

『「判って下さい」って、何だよ!?だったら、最初から受験させなきゃいいじ ゃないか!パパとママは「誰も怨んだりしちゃダメだ」って言ってたけど……こん なの酷すぎるよ!ちゃんは、好きで死んだ訳じゃないのに!』

そう言って泣き叫ぶ弟を、はただ見ている事しか出来なかった。


『俺はダメな兄貴だ。お前が苦しんでいた時にも、何もする事が出来なかった……』
今年、高校に進学した弟は、の年を追い越してしまった。
写真の自分に語りかけてくる優しい弟は、見る度に成長を遂 げているのに、自分は何も変わっていない。否、変わる事が出来ないのだ。

「……不二子」
「なんだい?」
足を止めると、は不二を振り返る。
「たとえ、今はちょっと離れていても…お前と裕太くんは、ちゃんとテニス を通じて繋がっているんだ」
…?」
「だから…絶対に離すなよ。裕太くんがお前に助けを求めて きた時には、いつでもその手を差し伸べてやるんだ」
「……うん。勿論だよ」

の真剣な表情に、不二は、素直に頷くと小さく笑った。



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