『継承』


D2を、相手の棄権による勝利という、些か不本意な結果に終わったが、それでも 観月の『自称・完璧なシナリオ』を崩すには充分だ、とは考えていた。
そして、D1も一時は大石・菊丸の黄金ペアによる巻き返しもあったが、やはり序盤の 遅れを取り戻すには、少しだけ間に合わなかったようであった。

「へへ、ごめんにゃ。充電…切れちゃった」
「ううん、それでも凄い進歩だよ。はじめてオーストラリアン・フォーメーションや った時は、ここまでもたなかったじゃん」
大石に肩を貸してもらいながら、菊丸はいつもの調子で、だがやはり何処か悔しそうに言葉を呟く。
「それに、試合はまだまだこれからだよ。疲れてると思うけど、少し休んだら今度は みんなの応援ヨロシクね」
「はい、判りました」
「任せてにゃ!」
大石と菊丸の返事を聞いたは微笑みながら、コートに視線を移した。
「いや〜…それにしても、あの大人しそうな2年生くんが、ガングロに『バカ澤』発言した時 には、ビックリだったなあ。先輩のピンチを救う、後輩の檄。……麗しい関係だと思わない?」
「ううん、ちっとも」
「いるよね。実力ないくせに、言う事だけはいっちょまえなヤツ」
腕を組みながら感慨深げに頷いていたに、間髪入れず不二とリョーマが水を注してくる。
「……夢のないヤツラだな、お前ら。熱血スポコンアニメやドラマ観ても、泣かなか ったクチだろ?」
「僕、そういうの観た事ないから」
「アメリカにも、そんな類のモノはなかったっスよ」
口を揃えて返してきたふたりに、はわざと大げさに息を吐いた。
「S3の選手は、コートに集合して下さい!」
「お呼びだぞ、ドチビ。…ったく、お前ほど実力と先輩に対する敬意が反比例し てるヤツも、珍しいモンだよな」
「……。それ、褒めてんの?けなしてんの?」
「感心してんだよ。ホレ、行ってこい」
リョーマの質問を適当にはぐらかすと、は、リョーマの背中を軽く押す。
そして、ルドルフのベンチサイドに顔を向けると、早くも全身に闘志をみなぎら せている裕太の姿を見つめた。

「いいですね、裕太くん。僕の言う通りに攻めて行きなさい。いくら期待の新人と はいえ、所詮は1年。付け入る隙はいくらでもあります」
「はい、観月さん」
シューズの紐を結び直した裕太は、ラケットを手に立ち上がった。
青学側のベンチサイドに目をやると、自分の対戦相手であるリョーマと、どうし ても意識せずにはいられない自分の兄の姿が飛び込んできた。
そして。
何か言いたそうな表情で、自分を見つめている青学部長の表情に、裕太は思わず足を止めた。

『今の君に必要なのは、身体に負担のかかる技の習得なんかじゃない!』

冷やかしや妨害にしては、あまりにも真剣な表情で話しかけてきた彼は、裕太の 心にある種の波紋を投げ掛けていた。
青学にいた時にもそして今でも、手塚という存在は、兄の周助から聞くまでもなく、 テニス界の中心人物として轟いている。
だが。
今、裕太の目の前にいるその人物が、何処となく違う印象を受けるのは何故だろうか。
『対戦前に敵を混乱させようだなんて、あの手塚さんがするとは思えないし…じゃあ、さ っきのアレは……?』
観月から「余計な事は考えるな」と言われていたが、あの時の手塚の 眼差しが、裕太の中にこびりついて離れない。
と、

「ねぇ、アンタが不二先輩の弟?」

不躾な呼びかけが、裕太の思考を止めた。
反射的に顔を上げると、不敵な表情でラケットを手にした青学の1年生レギュラーが、 反対側のコートから自分を見つめていた。
「……それがどうかしたか。それに、俺は『弟』なんて名前じゃねぇ」
「だって俺、アンタの名前知らないんだもん。弟なんでしょ?先輩の」
「弟、弟、うるせぇ!俺の名前は不二裕太だ!」
「へぇ。裕太っていうんだ。ま、俺にはどうでもいいけどね」
小ばかにしたようなリョーマの態度に、裕太は益々顔を顰める。
「裕太くん、口の利き方も知らない子供の言う事に、いちいち反応するんじゃありません!」
そんな裕太を見透かしてか、ベンチから観月の声がした。
「…は、はい!観月さん」
「何それ。ちょっとしか違わないくせに、子ども扱いする気?」
「俺もその件に関してだけは、お前にドチビの教育頼みたいくらいだ」
「……アンタは関係ないでしょ」
いつの間にか、観月の言葉尻に乗ってきたに、リョーマはボソリと独り愚痴る。
「『郷に入れば郷に従え』だ。フランクなアメリカ様式が、ビバ年功序列の日本の中学で、 通用すると思うなよ」
「うるさいなぁ」
まるで、兄弟に叱られたような気分になったリョーマは、を横目で一瞥すると、手の中でラケットを握り直した。


左利き同士のふたりが、一進一退の攻防を繰り返す中。
「……」
「不二子、どうした?」
複雑な表情で試合を見守る不二に、は声をかけた。
…」
「やっぱり複雑?自分の弟が、後輩に負ける姿を見るのは」
他のメンバーには聞こえないように、小声で続けられた言葉に、不二は目を僅かに開く。
少し考えた後で、不二はゆっくりと口を開いた。
「それもない訳じゃないけど…ちょっと気になって……」
「ああ…」
その返事に、は、彼の言わんとする事に気付いたようで、手を腰に当て直すと、激情もそのままに ボールを繰り出す裕太と、何処かつまらなさそうに返している生意気なルーキーの表情を見 比べてた。

「ねぇ。どうしてアンタは、そこまで不二先輩にこだわるのさ?」
「…っ!お前に何が判る!」
先刻以上に無作法な問いかけが、裕太の神経を逆なでする。
「ま、俺には兄弟がいないから、そんなのは判んないけど…アンタにとって兄貴 って、一体なんなの?」
「俺の越えるべき存在だ。これ以上『天才の弟』と言われ続けない為の、倒すべき目標だ!」
叫びに近い怒号を放ちながら、裕太は自陣に戻ってきたボールをバウンド直後に捉えると、 強烈なフラットショットをリョーマに見舞った。
「…ライジング?」
通常では考えられない軌道で襲い掛かってきたボールを、リョーマは若干苦労しながら打ち返す。
「今です、裕太くん!」
チャンスボールに、ベンチから観月の声が上がった。
裕太は観月の言葉に頷くと、ラケットを両手に持ち替え、軸足から腰を捻る。
「──!裕太くん、いけない!」
裕太の行動の意図に気づいたは、試合中であるのを忘れて、思わず声を張り上げた。
直後、裕太から繰り出されたツイストスピンショットが、リョーマのコートに突き 刺さった。
「30-15」
審判の無機質なコールが、ポイントを告げる。
「…っ!?」
突如、左肩に違和感と痛みを覚えた裕太は、次の瞬間ラケットを取り落とした。
慌てて拾おうとするが、利き腕が思うように動かない。

「…裕太くん?」
「裕太!?」
そのまま地面に膝を着く裕太に、観月はタイムをかけると、反対側のベンチで弟の 異常に目を見張る不二を横目に、彼の傍へ駆け寄った。
「どうしました?」
「観月さん…か、肩が変なんです……っ!」
具合を見ようと触れた手を、痛みから拒絶してきた裕太に、観月は顔を顰める。
『どうやら、僕の計算以上に負担がかかっていたようですね…もう少し使えると思 っていたのですが…所詮、この程度ですか』
落胆を隠し切れない表情で、観月は小さく息を吐くと立ち上がった。
「仕方ありません。棄権しましょう」
「──!?そんな、観月さん待って下さい!」
観月の言葉を聞いて、裕太は弾かれたように立ち上がる。
「俺、未だやれます!やらせて下さい!」
「その腕で、何が出来るのですか?越前くんですら満足に倒せない今の貴方では、お兄 さんに追いつくのなんて、夢のまた夢ですよ」
あからさまな指摘に、裕太の表情が凍りつく。数秒してから、観月も自分の失言に気付い たのか、「まあ、気持ちは判りますがね」と、言葉を取り繕った。
縋るように見つめてくる裕太を、極力視界に入れないように、観月は試合を棄権する旨を 審判に告げようとする。
「甚だ不本意ですが、この試合棄……」


「──待った!」
何処からか飛んできた声が、観月の発言を打ち消した。
見ると、いつの間にいたのか、反対側のコートから、青学部長の姿が飛び込んできた。
思わぬ人物の登場に、観月だけでなく、裕太も目を丸くする。
「ウチの選手の応急手当をしたいので、こちらもタイムをお願いします」
少しだけ擦りむいた腕を掴みながら、は、「大したケガじゃないじゃん」と小声で抗議をしているリョーマの脇腹を、 軽く抓って黙らせる。
「あと、ついでにキミも」
「…え?」
不意の呼びかけに戸惑っている裕太を、は真摯な眼差しを向ける。
「試合、やめたくないんだろ?だったら、ネット越しでいいからおいで。その腕、俺が治して やるから」
「な…貴方!何勝手な事を言ってるんですか!」
「選手の身体ひとつ、満足に調整もできない ヘボマネジは、すっこんでな!」
青学部長の異様なまでの貫禄に、観月は反論も出来ずに口をパクパクさせる。
そんな観月の前を、ゆっくりと裕太が通り過ぎていった。
「…はっ!ま、待ちなさい裕太くん!」
我に返った観月が、慌てて制止の声を上げたものの、裕太はそれに反応する事無く 足を進める。
裕太がネット越しまで来たのを確認すると、はリョーマの腕を放して彼の傍へ寄る。
細かく痙攣している裕太の左腕を確認すると、は腰に下げていたツールバッグから、安全ピンを1本取り出した。
100円ライターで針を焙(あぶ)ると、右手に持ったまま、左手で裕太の腕を固定 する。
「ちょっ…裕太に何する気!?」
自分の弟に針を向けているを見て、不二が今にもコートに飛び込まんとする勢いで叫んだ。
「河村くん。手元狂うといけないから、不二子押さえといて」
「わ、判った。……ごめんよ、不二!」
「は、離してタカさん!」
背後から身体の自由を奪われた不二は、河村の腕の中で暴れ続ける。
弟を心配する不二の様子に、は小さくほくそ笑みながら、視線を裕太に戻した。
針が怖いのか、裕太は筋肉の痙攣だけではなく、全身を震わせている。
「あー、平気平気。痛いのは最初だけだからな」
「そ、それ俺に刺すんですか…?」
「大丈夫。ちょっとチクっとするだけ♪」
言いながら針を向けてくるに、裕太は反射的に顔を背けた。
まるで、注射に怯える子供のように硬直してしまっている裕太を見て、思わず笑 いがこみ上げてくる。
「…あ。キミがビビってるの見て、ウチのドチビが笑ってる」
「──何ィ!?」
一計を案じたの台詞に、裕太は恐怖も忘れてネットの向こうに目をやる。
その隙を逃さずに、は手にした針を、裕太の左腕に突き刺した。

「うああぁっ!」
「裕太!」
「ゆ、裕太くん!?」

無防備な悲鳴を聞いて、不二と観月は弾かれたように裕太を見る。
僅かな出血を残して、裕太の腕から抜き取られた安全ピンの針が、ポトリと地面に落ちた。
「──よし。どう?」
「あ…」
の問いかけに、裕太は自分の腕が痙攣を止めているのに気付いた。
何度か動かしてみたが、もはや何処にも痛みは感じられない。
「もっとも、ただの応急処置だから無茶は出来ないよ。もう1回あの技使おうものなら、 今度こそ筋肉がパンクしちゃうからね」
「て、手塚さん…?」
筋肉の疲労をほぐすように、慣れた手つきでマッサージを繰り返す青学部長を、裕太は 信じられない想いで見つめる。
「だから…今の君じゃ、ドチビには勝てないと思う」
揶揄する訳でもなく、至極淡々とした口調が余計に真実味を帯びていて、裕太の表情に 陰が差した。
「──兄ちゃんを、言い訳にするな」
「え…?」
口調は優しいが、咎めるような声が、裕太の耳と心に届く。
「テニスを逃げ道にするな。理由をつけて言い訳ばっかりしてるヤツに、テ ニスは味方なんかしてくれないよ?」
「……」
「兄ちゃんの前に…ドチビの前に…君は何よりもまず、倒さなければならない相手が いる筈だ」
「手塚さん…」
「……よく考えてごらん。その答えは、ちゃんと君の中にあるから」
諭すように呟かれたの言葉に、裕太は痙攣の止まった腕を、反対の手で2、3度擦ると、ゆっくりと 顔を上げた。
「……未だ試合中なんで、礼を言うのは後で良いですか?」
「そんなの、気にしなくてもいいよ」
笑顔で応えたに、裕太は軽く会釈を返すと地面に落ちていたラケットを拾う。
審判から渡されたボールを手の中で弄びながら、ネット越しに見える生意気な青学の 1年生の姿を捉えた。

「へぇ…腕、治ったんだ」
「ああ。…だけど今の俺じゃ、この試合には勝てないだろうな」
「何それ?早くも敗北宣言って訳?」
憮然としたリョーマの口調に、裕太は小さく首を横に振った。
「勘違いするなよ。誰が試合を投げるなんて言った?」
「?」
「残りの時間、せいぜい悪足掻きさせて貰うからな。簡単に勝たせてな んかやらないから、覚悟しておけよ」
「……『開き直り』ってヤツか。でも…何だか、さっきより面白くなりそうだね」

口元を綻ばせた裕太の表情が、一瞬、彼の兄にあたる男のそれと重な って見えたリョーマは、帽子の奥で瞳を細めた。



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