『継承』


大会役員たちのいるテント内では、準決勝が行われているコートでの出来事について、 密かにざわめき立っていた。
「信じられん…筋肉の痙攣を、あんな野蛮な方法で治してしまうとは……」
「だが、あれだけの用具と時間で成し遂げるには、余程選手の身体機能について熟知 している者でなければ不可能だぞ?青学の手塚くんに、このような特技があったとは……」
「青学…」
「──どうされましたかな?」
突然、押し黙ってしまった役員のひとりの様子を見て、彼の同僚らしき初老の男が声をかけてきた。
「そういえば…『彼』も、青学の部長をしていましたね……何だか、懐かしくなりました」
呟かれた言葉に、一瞬辺りに静寂が訪れる。
「もう…4年になるのか…本当に、惜しい人物を亡くしたものだ……」
「仕方ありませんよ。何しろ、相手が悪すぎた。彼には不運としかいいようがあり ませんな…」

脳裏に浮かんだテニスプレイヤーの姿に、周囲の誰もが、悲嘆と諦観の混ざった複雑な吐 息を漏らしていた。


「こんの…バカモンが!」
試合中である事も忘れて、スミレは憤怒の形相でに詰め寄ってきた。
そのあまりの迫力に、は怯えた顔で河村の背後に隠れる。
「わっ!な、なんだい?」
「お願い、助けて河村くん!あの勢いじゃ、俺スミレちゃんに食い殺され る!」
自分の背中にへばりついたを、困惑気味に見ていた河村だったが、
「はい、タカさん。ラケット」
不二が、河村の右手にラケットを握らせた瞬間、はバーニング化した河村に襟首を掴まれると、前へ引き摺り 出された。
「ヘイヘイ、ちゃーん!男が後ろを見せるのは too bad!ここは潔く散ってくるん だベイビー!」
「河村くんの裏切り者ー!不二子のバカー!」
「裏切り者も何も、タカさんを巻き込まないでよね」
「観念おし!お前のお節介は、死んでも治らないようだね!」
「わーん!ごめんなさーい!」
丸めたパンフレットで、スミレはの頭や背中を、容赦なくポカポカと叩き続けた。

「放っておけなかったんだよー!あのまま試合を止めさせたら、 裕太くん、立ち直れなかったかもしれないだろ!?」
目尻に涙を浮かべながらも、は必死に弁解を繰り返す。
「結果オーライだったからいいものの、お前のやった事は裕太くんの腕を悪化させ るどころか、審判に失格を言い渡されてもおかしくなかったんだよ!?」
「俺、そんなヘマしないもん!俺は、裕太くんの『試合をやめたくない』って気持 ちに応えただけだもん!」
「アタシだって、お前の腕を信じてない訳じゃないよ。だけどね、今のお前の立場 を考えてごらん!」
「でも、だってー!」
「『だって』じゃない!お前の行動ひとつが、全部手塚に影響する事ぐらい判んな いのかい!?」
スミレの怒声に、ようやく気付いたらしく、は口を閉じた。
「…やっと気付いたね、このバカが。まったく……ひとたびテニスの事に夢中にな ると、何もかも忘れて突っ走るのは、昔とちっとも変わりゃしない」
ため息を吐くスミレに、は、決まり悪そうに下を向く。
「ご、ごめん…スミレちゃん。俺……」
「アタシよりも、まず謝る相手がいるだろう?」
「うん…ごめんね、手塚くん……」
まるで『青菜に塩』のような状態になったは、ぽつりと謝罪の言葉を呟いた。
だが、自分の意識を預かってもらっている身体の主からは、何の返事も返ってこない。
「手塚くん…怒ってるの……?」
『──呆れてモノが言えないだけだ』
数秒の沈黙の後、眉間に縦皺を寄せた時のような手塚の言葉が聞こえてきた。
「ホントにごめん。だけど、俺は……」
『…「裕太くんの気持ちに応えたかった」…だろう?ならば、言い訳は後にして、今は目 の前の試合を見届けるべきじゃないのか?』
続けられた意外な言葉に、は顔を上げるとコートに視線を動かす。
そこでは、青学期待のルーキーと、先程までの偏った観念に捕われていた時とは違った 裕太の姿があった。
ハンデを負った腕を、それでも懸命に動かしながら戦い続ける裕太に、は表情を引き締めると、

「スミレちゃん。お説教は後でちゃんと聞くから、今は試合を見させて」

食い入るようにふたりの姿を見守り始めた。


コート上で、必死にリョーマのボールを返す裕太を、観月は複雑な想いで眺めていた。
「こんな試合…何の意味があるんだ。所詮、今の彼では越前くんを倒す事など不可能 だというのに……」
ブツブツと愚痴を零す観月に、赤澤が声をかけてくる。
「でも、さっきよりもずっと、いいカオしてるじゃないかアイツ」
「だから何だと言うんです?お陰で、僕のシナリオはメチャクチャですよ。 まったく、手塚くんも余計な事をしてくれたものですね」
「俺は、そうは思わないぜ」
コートの裕太を見つめながら、赤澤は短く、だがハッキリとした口調で返してきた。
「俺たちと違って、裕太はまだ2年生だ。この試合で結果を出せなかったとしても、 次があるじゃないか」
「──甘いですね」
「じゃあ訊くけどよ。もし、あそこで手塚が裕太の腕を治さなかったら、お前、どう するつもりだったんだ?」
一番訊かれたくない質問を受けた観月は、咄嗟に視線を反らす。
「お前が治せたか?…出来ないよな。きっと、苦しんでるアイツをそのまま見捨てた だけだろ?」
「な…」
「ルドルフの司令塔として、戦力を補強するのもいいけど、もうちょっと『部活の 先輩』として、後輩を見届けるのも大切なんじゃないのか?」
言いたい事だけ言うと、赤澤は、木更津たちの所へと戻っていく。

「そんな理想論だけで勝てるのなら…誰も苦労はしませんよ……」
残された観月は、眉を顰めながら、自分の中で葛藤を繰り返した。


ツイストスピンショットという切り札を失った裕太は、リョーマに決定的な反撃も 出来ないまま、ただ夢中で球を打ち返していた。
に治して貰ったとはいえ、所詮は応急処置を受けただけの利き腕は、最早裕太 の思うようには動いてくれなくなっている。
だが、それでも裕太は勝負を捨てるつもりはなかった。

『兄ちゃんの前に、ドチビの前に、君はまず何よりも倒さなければならない相手がいる』

その相手が一体誰なのか、そしてその相手に勝つにはどうすればいいのか。
『……まだ、試合は終わっていない。考えろ!考えるんだ!』
腕の負担を少しでも減らそうと、ダブルハンドで打ったレシーブは、あっさりと青学のル ーキーに返される。
『ロブをあげるか…?いや、ダメだ。いくらアイツの背が低くても、あっという間に追い ついてしまう……』
どうにかベースラインギリギリの所で追いつくと、裕太は構えを取った。
『フォアじゃ間に合わない…!こうなりゃ、一か八かバックハンドで……!』
苦手なコースの球を拾おうと、裕太が上体を動かそうとした時。

(裕太。ラケットを振り出す前に、そんなに身体を開いちゃダメだよ)

不意に、裕太の脳裏に誰かの声がよみがえった。
いつもは鬱陶しくてたまらないだけの声が、何故だか今の裕太には懐かしく、そして心 地よく感じられる。

『兄貴…?』
(ふふ。右利きの僕と、左利きの裕太が向かい合うと、まるで鏡みたいだよね。ほら!)
まだ、兄弟で仲良くテニススクールへ通っていた頃。
練習が上手くいかなくて泣きべそをかいていると、兄の周助が、決まって自分の所へやって 来ては、励ましてくれたものである。

(上手くいかない時は、基本に戻ってみるのが一番。一緒にやってみようよ)
(ムリだよ…だって、さっきからやってるのに、ちっとも出来ないんだもん……)
(そんな事ないよ。裕太が頑張ってるのは、誰よりも僕が知ってる。いい?バックハン ドで打つ時は…)

幼い頃の記憶を反芻させていく内に、いつしか裕太の身体は、自然とボールを返す体勢を整 えていた。
肩越しにボールを見ると、思い出の中の忠告どおりに、身体の開きをおさえながら前足に体重を かけて、ラケットを振り出す。
それまでとは違い、的確な軌道とスピードを帯びた打球に、リョーマの反応が一瞬遅れた。
『……見えた!』
「今だ!」
が声を上げたと同時に、リョーマの陣営に空いた僅かな隙を逃さず、裕太はネ ット際に駆け込むと、逆サイドにボレーを叩き込んだ。
「デュース!」
窮地に追い込まれていた裕太の思わぬ反撃に、コートがにわかに沸き返る。
「天才・不二周助」もかくやといわんばかりのプレイを見て、ルドルフのメンバーは 勿論の事、青学サイドの不二たちも、思わず言葉を失っていた。
「バカな…裕太くんが、あそこまで正確なバックハンドでのレシーブが打てたなんて…?」
予測の範疇を超えていた裕太の実力に、観月は呆然と彼の姿を目で追っている。
弟の活躍に、不二は仲間には気付かれないように、口元を綻ばせていた。
と、

「やったあ!そうだ、それでいいんだ裕太くん!」

緊張感の欠片もない素っ頓狂な歓声が、青学ベンチから聞こえてきた。
「君にあって、ドチビにないもの、そして兄貴にもなくて、君が持っているもの。ムダに 身体酷使する技なんか使わなくても、ちゃんと君には、テニスを味方につけられるだけの 力が備わってるんだ!…って、あ……」
「…バカ……」

興奮気味に声を張り上げた後で、自分に視線が注がれているのに気づいたは、慌てて咳払いをした。
そして、今更のように腕を組み直すと、手塚の挙動を真似て言葉を綴る。
「て、敵ながら天晴れだな!え、越前!あまり舐めてかかると、痛い目を見るぞ!」
「……よく言うよ。自分がたきつけたクセに」
ぶっきらぼうに返しながら、リョーマは、裕太を軽視していた自分を、心の中で諫めた。
「やるじゃん、アンタ。さっきより、ずっと楽しくなってきたよ」
「…そりゃ、どうも」
「だけど、そろそろ終わりにさせて貰うよ」
「上等だ。来い!」
何かが吹っ切れたような表情の裕太に、リョーマは帽子の影で口角を笑みの形にすると、ラ ケットを右手に持ち替えた。
短い気合と共に、ツイストサーブが裕太のコートに襲い掛かる。
だが、あらかじめボールの軌道を読んでいた裕太は、素早く落下地点に移動すると、リ ターンした。

「見た?今のリターン。きちんと基礎を習得していないと、あそこまで綺麗な動きは出来 ないんだよ?」
「……それで誤魔化したつもりかい?」
スミレにグリグリと頭をかいぐり回されながら、は裕太のフォームを見つめる。
「元々裕太くんには、不二子と比べても、決して見劣りなんかしないほどの才能があったん だ。だけど…色々な事が重なり過ぎて、本来の持ち味を失ってしまった……」
僅かに沈んだ表情の不二を横目に、は言葉を選びながら口を動かす。
「そんな時に、自分を認めてくれた『んふっ』は、きっと、裕太くんにとって何ものにも かえがたい存在だったんだろうな。だから、アイツの無茶な注文にも、頑張って応えよう としたんだ」
ゆっくりと足を進めると、はベンチの片隅で腰を落としている観月に視線をやった。
「……そんな裕太くんに、お前は一体何をした?自分に信頼を寄せてきた裕太くんの気持ちに つけ込んだ挙げ句、お前がやった事は何だ?」
あからさまな批判や抗議なら、適当にかわすつもりでいた観月だったが、手を腰に 当てて、ただこちらを見つめてくる青学部長の瞳に、思わず顔を背けた。
「な、何を言ってるんですか。言った筈ですよ。勝負の世界に多少の無茶はつきものだと」
「その無茶が招いた結果を、お前はちゃんと真正面から受け止める事が出来るのか?いくら 切り捨てたからって、自分のやった事がリセットされる訳じゃないんだぞ」
淡々と紡がれる言葉を聞いていく内に、観月は目の前の手塚が、まるで見た事もない 人物のような錯覚をおぼえた。
「お前だって、まだまだこれからだろ?そんな浮世の垢に塗れたテニスなんか、せめ て今の倍近く生きてからだって、いいじゃないか」
「な…?」
「今だからこそ…ううん、『今だけ』しか出来ない事って、沢山あるんだから……」
唇を噛み締めて渋面を作るに、観月は暫くの間目を奪われていたが、
「ふ、ふん!親切のつもりでしょうが、余計なお世話ですよ!…ま、まあ裕太くんの 腕を治してくれた事には、礼を言いますがね」
「……いいけどな。でも、いつかお前がこれまでしてきた事へのツケを払わなきゃいけ ない時は、遅かれ早かれやってくるぞ」
頑なな姿勢を崩さない観月を見て、は小さく息を吐くと、青学サイドのベンチへと引き上げる。
次いで、コートからは歓声が上がり、裕太を下したリョーマが、ネット際へと歩を 進めていた。

「今度はリベンジしてやるからな。覚えてろよ」
「へぇ…でも、俺はもっと上を行くからね。ま、せいぜい頑張れば?」
「ああ、そのつもりだ」

すっきりとした表情で語る裕太を見て、リョーマも微笑を浮かべると、左手ではなく、右 手を裕太の前に差し出した。


「……。アタシが今、何を言いたいか判るかい?」

青学のベンチサイドに戻ってきたは、鬼女と化したスミレに出くわすと、思わず顔を引きつらせた。
「あれほど余計な真似をするなっつったのに……このお節介!」
「ごめんなさいー!」
「何度言ったら判るんだい!ったくお前は昔も今も、いらん事ばっかりに首を突っ込みやがって!」
「うわあああん!」
凶器を、パンフレットからメガホンに持ち替えて、スミレの容赦ない連打がを襲う。
「手塚くん…ご、ごめんね本当に……」
ひとしきりスミレの制裁を受けた後、ベソをかきながら謝罪してきたに、怒る気も失せた手塚は、苦笑交じりに言葉を返した。
『…もういい。それよりも、S1が近い。そろそろ俺と交代をしてくれないか、
「手塚くん…今、俺の事名前で呼んでくれた!」
手塚の返事を聞いて、は瞳を輝かせる。
『べ、別に他意はない。お前の苗字が呼び辛いから、そうしただけだ』
「それでもいいよ!俺、すっごく嬉しい!」
照れ隠しに言い訳をする手塚に、は心の底から嬉しそうに笑う。
すると、その時レギュラージャージを脱いだ不二が、と手塚の前に現れた。

「交代するのは自由だけど…僕は、手塚まで回す気はないからね」
ラケットを手の中で一回転させながら、不二はニッコリと微笑んだ。
その笑顔が油断ならないものに気付いたは、ぴくり片眉を上げる。
「裕太を助けてくれた事は、僕からも礼を言うよ。だけど、僕は君 ほどお人好しじゃないんだ」
「……あんまり物騒な事はするなよ」
「──さあね。それは、アイツ次第かな」


苛立たしげにS2の準備をする観月を一瞥すると、不二は笑顔を消して目を見開いた。



ブラウザの「戻る」でお戻り下さい。