『継承』


S2の第6ゲーム。
それまで5-0という、圧倒的な強さを見せ付けていた観月のデータテニスは、「青学の天 才」不二周助によって、崩壊の一途を辿っていた。

「バ、バカな!?データによれば、この球は苦手な筈…!」
「──苦手?得意なコースばかりだけど」

うろたえる様を面白そうに眺めながら、不二の容赦ないカウンターが、またもや 観月のコートに突き刺さる。
「〜♪」
立場逆転のワンサイドゲームを迎えたS2の試合を、 は、小さく歌を口ずさみながら傍観していた。
、なに唄ってるの?」
「なんかそれ、運動会とかに流れてる曲っスよね?」
歌声に気付いたリョーマと桃城が、の傍に寄ってきた。
「そう。『天国と地獄』。何だか、この試合に相応しいBGMのような気がして」
「……いえてるっスね」
納得する桃城に、小さく笑みを返しながら、は半ば呆れた表情でコートの観月と不二に視線を移す。
「どうやら、ツケを返す日は、思ったよりも早く訪れたみたいだな…気の毒に」

やがて、プライドをズタズタにされてコートに膝をついた観月を、 は、同情の眼差しで見送った。


「5-0からの大逆転」という勝利を引っさげて戻ってきた不二を、は、持っていたパンフレットで軽く彼の頭を叩いた。
「──やりすぎ」
「弁解はしないよ」
「……気持ちは判るけどな」
ぶっきらぼうに返してきた不二を見て、は苦笑交じりに頷く。
かつて自分も、3つ年下の弟がいじめられた時には、それ なりの報復をしたものである。
「…ま、とにかくお疲れさん。決勝戦までもう少しだけ時間があるから、身体を休めてお くんだよ」
「ハイ!」
スミレの言葉を聞いて、青学のメンバーたちは、自分の荷物をまとめたり、クールダウンを 開始する。
すると、そこへルドルフのユニフォームを来た選手がひとり、こちらに向かってきた。

「あの…」
「……裕太?」

思わぬ人物の来訪に、不二をはじめとする青学のレギュラーたちは、一斉に視線を彼の方に 移す。
「裕太くん。肩の具合はどう?」
「あ…ええ、はい。少しだるいですけど、さっきのような痛みはありません。本当に有難う ございました」
「いいよ、そんな大げさにしなくても」
そう言って頭を下げる裕太に、は微笑みながら首を振る。
和んだ雰囲気で会話をすると弟の姿を、不二は複雑な想いで盗み見た。
その時、
「兄貴」
「…えっ?な、なんだい裕太?」
不意に話しかけられて、不二は僅かに上ずった声で返す。
「少しだけいいか?忙しいなら、またにするけど……」
「だ、大丈夫だよ。どうしたの?」
「どうしても…兄貴に話しておきたい事があるんだ」
いつものようなケンカ腰ではない、真剣な表情の裕太を見て、不二は何故だか 自分の鼓動が早くなっていくのを覚えた。


青学のベンチから少し離れた場所で、裕太と不二は向かい合っていた。
こんなに間近でお互いの姿を見るのは、随分久しぶりだったので、ふたりとも些か 緊張した面持ちで話を始める。
「裕太…腕は大丈夫なの?」
「完璧とまではいかないけどな。手塚さんのお陰で、随分と楽になったよ」
「そう…」
暫くの沈黙が訪れた後、裕太はゆっくりと口を開いた。
「俺は…今日、やっと自分に向き合えた気がしたんだ」
「裕太…?」
「今まで俺は、兄貴に対するコンプレックスばかりが凝り固まって、何の為に自分が テニスをするのか、判らなくなっていたんだ」
裕太が青学を出て行った時の事を思い出して、不二は表情を曇らせる。
「そうしていく内に…俺は、何でもかんでもすべて、兄貴のせいにし続けていたんだ。 その方が楽だったし、自分の力のなさを誤魔化す事も出来るからな。だけど…今日、 手塚さんに言われて目が醒めたよ」
そこで裕太は深呼吸すると、僅かに口元を歪めながら空を仰いだ。
「…俺は、兄貴に劣等感を持つ反面、心のどっかでそんな自分を慰めていたんだ。 『しょうがないだろ?兄貴は天才なんだぜ?そんな天才に、弟の俺がかないっこない じゃないか』って…自分から逃げ続けていたんだ」
「……」
裕太が青学に入学した当時、不二は小学生の時のように、一緒にテニスが出来ると 信じて疑わなかった。
ところが、周囲が裕太に与えた『期待』という名のプレッシャーは、次第に裕太と 不二を引き離すという、皮肉な結果となったのだ。

「お前がそこまで苦しんでいたのに、あの時の僕は全然気付かないで…一緒に青学 でテニスが出来るって、浮かれてばかりいた…ごめんよ……」
「──俺がルドルフに進んだのは、兄貴のせいじゃないよ」
そう言ってうなだれる不二に、裕太は首をハッキリと横に振った。
「兄貴の事もちょっとはあったけど…俺が青学を辞めたのは、このままじゃ自分 がダメになると思ったからなんだ。俺が許せなかったのは兄貴じゃない。兄貴をダ シに言い訳を続けている自分が、一番許せなかったんだ」
思わぬ言葉を聞いて、不二は目を瞬かせる。
「もし…俺がテニスと同じくらい夢中になれるものが他にあったなら、多分青学 に残っていたと思う」
片手で頭をかきながら、裕太は僅かに苦笑する。
「だけど、俺にはテニスしかなかった。テニスを捨てるなんて考えられなかったし、 かといって、あのまま青学にい続ける事も出来なかったしな。…それに、アイツと の試合でどうしようもなく苦しくなった時、兄貴の事が浮かんだんだ」
「?」
目を丸くさせて見つめてくる兄に、裕太は少しだけ面白そうな顔をした。
「ツイストスピンを失って、苦し紛れに球を打っていた俺の中に現れたのは、観月 さんでもなければ、スクールのコーチでもなかった。小さい頃俺の手を引いてテニ スクラブへ連れて行ってくれた、兄貴だったんだ」
「裕太…」
「……俺が、ここまでテニスに打ち込めるようになったのは、兄貴がいたからだよ。 ありがとな、兄貴。俺にテニスを与えてくれて」
「ゆ…」

照れ臭そうに笑った裕太に、不二は何も言う事が出来なかった。
弟の名前を呼ぼうとしたものの、それは息と共に飲み込まれ、次いで不二の頬には、 ひと筋の涙が零れ落ちていた。
「…?な、何だよ?どうして泣くんだよ!?」
「ご、ごめん…だって……」
止めようとしても、不二の瞳からは新たな涙が伝ってくる。
「あ〜もう、ホラ!」
声を荒げた裕太は、ズボンのポケットからハンドタオルを取り出すと、兄に手渡した。
「あ、ありがと…」
受け取りながら、不二は目元を拭う。ひとしきり涙を拭いた後、そのタオルを拡げた 不二は、思わず声を上げた。
「裕太…これ……」
渡されたタオルには、たどたどしい刺繍で弟のイニシャルが綴られていた。
それは不二が小学生の頃、家庭科の授業で、弟の為に縫ったものだった。
「ずっと…持っててくれたの……?」
初めて作った刺繍のタオルは、お世辞にも上手とは言い難いものであった。
「あ、当たり前だろう?家族からのプレゼント、捨てるバカが何処にいるんだよ!」
だが、それを差し出す不二の絆創膏だらけの指を見て、裕太は、兄がどれだけ自分の為 に一生懸命にやってくれたか、ちゃんと判っていたのである。
思い出のタオルを握り締めたまま、不二は小さく嗚咽を漏らし続ける。
すると、こっそりと不二の背に回ったの手が、不二の身体を軽く突き飛ばした。
「あぶねっ!」
倒れこんでくる不二を、裕太の腕が支える。
自分より背の高くなった弟の温もりを間近に感じた瞬間、不二はまるで子供のように 泣きじゃくり始めた。
「ちょ…泣くなよー!まるで、俺が泣かせたみたいだろ!?」
慌てふためいた裕太の視線の先で、がウインクしながら拝む真似をする。
困惑交じりの笑みを漏らすと、やがて裕太は、優しく不二の背を叩いてやった。
そんな裕太に向かって、ルドルフのベンチからスポーツドリンクが放られる。
「…っと!柳沢先輩…?」
「良く冷えてるから、飲み頃だーね」
「くすくす…コンソレーションにはまだ時間があるから、暫く行っといでよ」
「荷物は俺たちが持ってってやるからさ」
「あ、有難うございます。…ホラ兄貴、あっちにベンチがあるから行こうぜ。ここ、 次の学校が試合で使うみたいだから…」
しゃくり上げながら頷いた兄の手を引きながら、裕太は、子供の頃とは逆の立場で 歩き始めた。
そんな裕太の背中を、赤澤たちルドルフのメンバーは、微笑ましげに見送る。
しかし、ただひとりだけ例外が。

「まったく…泣きたいのはこっちですよ!」

ことごとく予測が外れまくりの憂き目にあった観月だけが、兄弟の姿を尻目に、忌々 しげに吐き捨てていた。


その夜。
山吹中との決勝戦も制した青学メンバーは、地区大会の時同様、河村の実家である 「かわむら寿司」で、祝勝会を上げていた。
「みんな、今日はお疲れ様!おじさんのおごりだ、どんどん食ってくれ!」
「有難うございます!」
育ち盛りの中学生たちにとって、河村の父の言葉は、天にも昇る気持ちであった。
リョーマと桃城は、早くも最初の桶を攻略して次の寿司に手が伸びているし、反対側の テーブルでは、菊丸と海堂が、『あなご争奪戦』を繰り広げていた。

「部長くん、ちょっといいかな?」
カウンター席に腰掛けて、文字通り幸せを噛み締めていたは、河村の父親の声に、つと顔を上げた。
「なんでしょうか?」
「こないだは、先生と間違えたりして悪かったねぇ。お詫びと言っちゃなんだけど、こ れも食ってくれ」
そう言って出された寿司は、いわゆる高級素材を用いた握りの皿であった。
板皿の上でキラキラと輝く海の幸に、の瞳も輝きだす。
「コレ、本当に食べてもいいの!?」
「ああ、勿論だよ。おじさん自慢の最高傑作だ!」
「やったぁ!いただきまーす!」
興奮を抑えられない様子で、が箸を付けようとした瞬間。

『待て、

間髪入れずに、手塚の声がの動きを止める。
「……なんで?」
ご馳走を前に、お預けを食らってしまったは、まるで今にも泣きそうな声で手塚に質す。
泣きべそをかくの姿が容易に想像できた手塚は、思わず吹き出しそうになったが、それを 懸命に押し込めると、極力平静に言葉を続けた。
『その皿に盛られている寿司は、各2貫ある。だから、俺とお前で半分ずつだ』
「……サヨリ2つとも食べていい?」
手塚の返事に安堵しながらも、はおずおずと、自分の要求を告げてくる。
『……いくらの軍艦巻き2つで手を打とうか』
「その条件、乗った!」

元気良く寿司を食べ始めたに、河村の父親は「やっぱり何だかんだ言っても、部長くんも中学生 なんだなぁ」と、間違った認識を、そして、幸せそうなの笑顔に、手塚も不思議と心が満たされていくのを感じていた。


真夜中のストリートテニス場。

対戦相手のテニスラケットを手に取りながら、青年は至極淡々とした口調でネット越し の相手に言葉を投げ掛けた。
「……強くなったな。だが、俺を倒すには、至らなかったようだ」
肩で息をしている対戦相手に向かって、青年はガットの切り裂かれたラケットを放り 投げる。
「昔のよしみだ。フレームは勘弁してやる。それにしても…どうして俺と戦おうと思 ったんだ?お前が俺に勝てない事くらい、はじめから判っていたんだろう?」
青年の問いに、相手はゆっくりと立ち上がると、険しい視線を彼にぶつけた。
「どうしても、あなたを止めなければならない理由があったからです」
「…俺を止める?」
相手の返事に、青年は皮肉な笑みを漏らした。
「ムリだな。俺を止められるのは『あいつ』だけだ。『あいつ』がいない今、俺を止め る人間は誰もいやしないさ」
「……」
青年は、喉の奥でもう一度笑うと、そのまま背を向けてテニスコートを去っていく。

『…先輩……!』

傷ついたラケットを握り締めながら、大和祐大は、手塚たちには見せた事のない苦悶に満ちた 表情を、その顔に浮かべていた。



ブラウザの「戻る」でお戻り下さい。