『継承』


日曜日。

手塚国一は、何処からか漂ってきた食欲をそそる匂いにつられ、台所に足を踏み入れた。
「……何をしておるのじゃ?」
「あ、お早うございまーす。おじいちゃ……様」
てっきり、彩菜が朝食の支度をしていると思いきや、のれんをくぐった先には、エプロン姿 の孫がいたのである。

「国光。もう一度尋ねる。そんな所で何をしている?」
「え?見て判りませんか?」
自分の質問に孫は不思議そうに小首を傾げると、まな板の上に積み重ねられていたサンド イッチを、何等分かに切断する。
「今日は、部活の仲間とテニスの練習に出かけるので、お弁当を作ってるんです」
「練習は良いが、男子たるもの、厨房に入るというのは……」
「そうは仰いますけど、おじい様たちの時とは違って、今では男子も家庭科が必修科目 なんですよ?何も出来ないままじゃ、調理実習でクラスメイトに迷惑をかけて しまいます」
「ふむ…それもそうだな……」
孫の言葉に、国一は小さく頷いた。
「だが、些か作りすぎではないのか?」
テーブル上のタッパーを見て、国一は僅かに眉を顰める。
「大丈夫です。それ、ひとり分じゃありませんから。あと、そこのお皿に載ってるのは、お じい様たちの分です。良かったら召し上がって下さい」
切り揃えられたサンドイッチをペーパーボックスに仕舞うと、他のタッパーと一緒にバッグ に詰め込む。
「それじゃあ俺、行ってまいりまーす」
快活な挨拶と共に、エプロンを脱ぎ捨てた孫は、テニスバッグを掴んで台所を飛び出し ていく。
「コリャ、国光!廊下を走るでない!」
「ごめんなさーい、おじいちゃま……じゃない、おじい様!」

あまり悪びれていない謝罪の言葉が返ってきた直後、騒々しく玄関のドアが閉められた。
残された国一は、テーブルの皿に盛られたおむすびの山から、ひとつ手に取ると口に運ぶ。
「牛そぼろのおむすびか…お、これは中々……」
予想以上の出来栄えに、国一はしばし孫の手作り弁当の味を堪能していた。


ストリートテニス場の入口で待ち合わせをしていた桃城は、遠くから自分の名前を呼ぶ声 に気付いて顔を上げた。
「おーい、桃くん!お待たせー!」
さん!」
手を振りながら駆けてくるを見て、桃城は目を丸くさせた。
普段の厳格な部長からは想像もつかないの出で立ちに、暫し呆気に取られる。
「どうしたんスか?そのカッコ…」
「あ、うん。こーいうカッコしてれば、多分手塚くんだとは気付かれないと思 って、ちょっと変装してみたの。おかしくないかな?」
今日のは、ノースリーブのカットソーと、ストレッチ素材の黒いコットンパンツを身に 着け、腰には上着代わりのシャツを巻きつけていた。
本来の手塚より色素の薄い髪は無造作に束ねられ、さらにその上から海堂よりも小ぶ りなバンダナを合わせている。
いつもの眼鏡も、コンタクトと僅かに色の付いたサングラスに変わっていたので、傍 目には、とてもあの中学テニス界から一目置かれている人物だとは、思わないだろう。
「似合ってるっスよ。さんって、けっこーセンスいいんですね」
「エヘヘ、そぉ?でも、サングラスとバンダナ以外は、全部手塚くんのお部屋 にあったんだよ」
「そーなんスか?」
『……余計な事は言わなくていい。、お前が手がかり集めの為だと言うから、俺は同行を承知したのだぞ?』
「え〜、でも手塚くんだって、昨日結局一試合も出来なかったから、身体がなまってるって言 ってたじゃない」
「そうだったんスか?部長」
『……俺の事はいい。早く行くぞ!』

手塚に急かされて、桃城とは、ストリートテニス場に足を踏み入れる。
「凄い!俺が現役だった時は、こんなリーズナブルなストリート場なんかなかったよぉ。 いいなあ……」
「お、あそこにいるのは…さん、こっちっスよ」
視線の先に、見知った人影を確認した桃城は、を連れて、目的のコートまで進んでいった。
「…あれ?あんた、たしか青学の……」
桃城たちに気付いた線の細い少年が、ぼそりと口の中で呟く。
「よー、伊武。元気か?」
「あ、桃城くん!」
「何でてめぇがいるんだよ?」
伊武の声に、コートにいた橘杏と神尾アキラも桃城を見た。
「……そちらの人は?」
桃城の隣にいる人物に、杏は僅かに語尾を上げて尋ねてきた。
「ああ、この人は……俺の知り合いのさん。ストリートテニス場に来た事ないって言ってたか ら、連れてきたんだ」
「こんにちは!」
桃城の紹介を受けて、はニッコリと微笑みながら杏に挨拶をした。
「こんにちは。私は、不動峰中の橘杏です」
「俺は神尾アキラだ」
「……伊武深司。桃城の知り合いって事は、あんた、テニス出来るの?」
「あ、うん。ちょっとね」
伊武の質問を聞いて、は首肯する。
『ちょっとどころじゃないっしょ、さんは』
『いーの!こういう時は、でしゃばらないのが一番なんだから!』
「……何コソコソやってんの?ひょっとして、俺たちの事警戒してる?……こ れだから外見で判断するヤツって、やんなるよなあ……こっちは、好きでこ んな顔してる訳じゃないってのに………」
ボソボソと低い声でボヤキを繰り返す伊武を見て、は彼の傍まで歩み寄ると、笑顔を作った。
「気に触ったならごめんね。俺、こういう所はじめてだから、なんだか気後れしちゃって…」
「……そうなんだ。でも、別にそこまで構えなくても、大丈夫なんじゃない?」
の言葉に機嫌を直したのか、伊武は肩を竦めながら、僅かに表情を和らげた。


「桃くん、いくよ〜!ちゃんと返してきてね〜!」
「バッチこいっス、さん!」
伊武たちの隣のコートを借りたたちは、ラリー形式で打ち合いを始めた。
はじめは、ゆるいコースで飛んできた球が、ラリーが続くにつれて次第にきわどいコース へと変化していく。
「おりゃー!ジャックナイフ!」
「まだまだぁ!」
ベースラインギリギリで返ってきた桃城の打球を、は難なくレシーブする。
「次はロブ上げるよ〜。ダンク打っといで〜」
「おっしゃあ!」
の球が、まるで吸い込まれるように桃城のベストポジションに打ち上げられる。
待ってましたとばかりに、桃城のダンクスマッシュが、快音を轟かせながらコートに叩きつけられた。
「…ねえ、……だっけ?あんた、初心者じゃないでしょ?」
タイムをかけたが汗を拭いていると、隣のコートから神尾と交代した伊武が、髪をかき上げながら 問いかけてきた。
「うん。ストリートでやるのは初めてだけど、テニスは昔やってた」
「やっぱりね。最初は、ただの派手なカッコしたミーハーなヤツかな、って思ってたんだ ……ラリーの動きもそうだけど、あんたのアドバイスで、桃城の動きが随分良くな ってたんだ。驚いたよ」
「…そ、そう?」
「あんた…きっと、いいテニスの先生になれるんじゃない?」
それまで照れ笑いをしていただったが、続けられた伊武の言葉を耳にした瞬間、口元がきつく結ばれる。
「……どうしたの?」
「ううん…なんでもない。…ありがと……」
不器用に笑顔を作り直すを、手塚は複雑な想いで見守っていた。


ひとしきり打った後で、と桃城は一旦コートを出ると、ランチタイムがてら休憩を取る事にした。

「伊武くんたち、お昼は?」
「……俺たち、さっき軽く食べたから、まだあんまりお腹空いてないんだよね」
「そうなんだ。じゃあ、俺たちちょっと、ごはん食べてくるね」
「ええ、ごゆっくり。後で良かったら一緒にやりませんか?」
「なっ…お、おい!杏ちゃんの前に、まず俺と勝負しろよ!」
不動峰の3人に賑やかに見送られながら、ふたりは入口横の休憩所で、空いている椅子 に腰掛けた。
「今日は、桃くんの分も作ってきたんだよ。沢山あるからどんどん食べてね」
「マジっスか!?やりぃ!」
いただきますもそこそこに、桃城は、から渡されたペーパーボックスの蓋を開けると、中に整然と並べられているサンドイ ッチとおむすびに、表情を綻ばせた。
「美味いっス!さんって、料理上手なんスね」
「エヘヘ、ありがと♪俺、昔から家庭科だけは優秀だったんだ」
ちょっとだけ得意そうに返事をすると、も、タッパーからおむすびをひとつ取り出す。
「……さん。聞いてもいいっスか?」
「なあに?」
「何でさんは、俺にここまで良くしてくれるんです?」
桃城の問いに、は口の中のおむすびを飲み込むと、やや上目遣いに返してきた。
「ひとつは、手塚くんも言ってたけど手がかり集め。桃くんが日曜日にスト リート場に行くって聞いたから、連れてってもらおうと思ったの」
「他にも理由があるんスか?」
「……言っても怒らない?」
にしては、妙に歯切れの悪い物言いを耳にして、桃城は目を丸くさせた。
「あのね…桃くんって、俺が現役だった頃のダブルスのパートナーに、ち ょっとだけ似てるんだ。だから…何だか懐かしくなっちゃって……」
さんのパートナーっていうと…俺たちの先輩に当たる人っスね?」
「うん。そいつね…桃くんや河村くんと同じパワープレイヤーで、真面目で、努力 を惜しまないヤツだったんだ。たまにケンカする時もあったけ ど、最高のパートナーだった……向こうはどう思ってるのかは、判んないけど」
「な…さんがそう思ってるんだから、その人だってきっと、同じ事考えてるっスよ!」
桃城は、テーブルに視線を落としながら話すを見て、何故だか不思議な想いに捕らわれる。
いつも明るく、笑顔が似合うが、沈んだ表情をしているのと、そして、そんな顔も意外に似合っている事実に 気付き、驚愕していた。
「4年前…俺は、あいつとの約束を果たせなかったんだ。今度こそ青学を全国へ導こう。 そう誓い合った筈なのに……」
「仕方ないっスよ。さんだって、4年前の事さえなかったら、きっとその人とテニスでいい線行ってたと 思いますよ?」
「…でもね。俺、死んでからは、一度もあいつの姿を見る事が出来ないんだ。お葬式にも来なか ったし、お墓参りにも。ひょっとしたらあいつは、約束を果たせずに死んだ俺を、許して ないのかも知れない……」
「それは違うっスよ!」

声を荒げて反論した桃城に、は身体をびくりとさせる。
「俺は…4年前の事はよく知らないけど、さんが、約束を果たしたくても出来なかった事くらいは 判ります。さんと一緒にいたその人なら、尚更さんの想いは、理解出来るんじゃないっスか?」
「桃くん…」
「まだ4年っスよ?きっとその人だって、自分の中でさんとの事が、気持ちの整理ついていないだけっスよ。俺だって…もし、自分 のダチが突然さんみたいになったら、そんな簡単に割り切れないと思うから……」
「……」
「いつか…踏ん切りがついた時に、きっとその人、自分からさんの前に姿を現してくれるっスよ」

そう言って優しく微笑んだ桃城の顔が、一瞬かつてのパートナーのそれと重なり、自然と の瞳からは涙がひと粒、零れ落ちてきた。
「ありがと…桃くんって、優しいね」
「な…そんな事ないっスよ!ホラ、しんみりはなしなし!元気出していきましょう!」
「…うん」
片手で涙を拭いながら、それでもニッコリと笑顔を向けてきたに、桃城と、の意識の裏で様子を窺っていた手塚も、安堵の息を吐いた。
「それにしても…随分沢山作ってきたんスね。まだちょっと残ってるっスよ」
「ホントだ。…あ、そうだ。コレ伊武くんたちにお裾分け……」
余ったサンドイッチとおむすびを、ひとまとめにしていたの耳に、何やら穏やかではないざわめきが聞こえてきた。
「…どうしたんだろ?」
「コートの方っスね」
「何だかヤな予感がする。行ってみよう!」
手早く荷物を纏めると、ふたりはコートへの道を急いだ。


「テメエ!もう一回言ってみろ!」
「何度だって言ってやるぜ。『弱者の集まりに相応しい場所だ』ってな」

興奮気味に声を荒げた神尾の身体を押さえながら、伊武が小さく諭す。
「やめなよアキラ。悔しいけど、負けたのは俺たちの方だよ。…ったく、 やんなっちゃうよなぁ……俺たちふたりが、あのデカブツひとりに勝てなか ったなんて……」
アキラが睨んだ視線の先には、2m近くの体躯を誇る男と、何処となく日本人離 れした顔立ちの少年がいた。
ボヤキ混じりの伊武の科白に、アキラは何も言い返せず、唇を震わせる。
そんなふたりを見て、少年は喉の奥でくつくつと笑う。
「フン。弱い犬ほどよく吠えるって言うけどな…どうやらてめぇは、その典型 的のようだぜ」
「んだとぉ!?」
「アキラくん、ダメよ!」
少年の揶揄に、堪忍袋の緒が切れた神尾が拳を握り締めた時。

「『にわか強者様』の、はた迷惑な暇つぶしか……」

不意に聞こえてきた言葉に、少年は片眉を吊り上げた。
「……今ほざいたのは、どいつだ?」
「あれ?聞こえちゃった?さり気なく言ったつもりなんだけど」
少年は首を巡らせると、群衆の中から現れたと桃城を見つけた。
「あ、…」
さん?」
「真の強者なら、自分がどんな立場にいるか、そして弱者に対してどのよう な振る舞いをすべきなのか、ちゃんと弁えられる筈だぞ」
「だあっ!ま、マズいっスよさん!」
「…ア〜ン?」
驚いた表情の不動峰メンバーを他所に、腕組み姿の少年とは、互いに牽制の視線を交し合う。
「弱者の集まりがイヤなら、自分に相応しい場所に行けば済む事だろ?それをし ないで、わざわざこんなトコまでご足労…だなんて、よっぽどの暇人か、いつか自分 を脅かす人間を排除する為に、弱い者いじめを繰り返すヘボって訳さ」
「はっ。何言ってやがんだテメェ、バカじゃねぇのか?」
「その通り。ただし、バカはバカでも『テニスバカ』。…少なくともお前よりはな」
腰に手を当てて応えるに、少年の口元が僅かに歪んだ。
「……面白れぇ。この俺様にそこまでデカい口叩きやがるなら、実力で証明して もらおうじゃねぇか。…樺地!」
「ウス」
少年の呼びかけに、樺地と呼ばれた大男は、ケースからラケットを取り出すと、少 年に手渡した。

「──上等。桃くん、早々に食後の運動が出来そうだよ」
挑戦的な少年の射抜くような視線に、は不敵な笑みを返した。



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